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【壱章】殺人者が蔓延る世界

鞍月蒼

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窓を通して微かな光が机に差し込んできた。壁に掛かった時計は午後三時半を指している。梅雨の時期ということで、今日は朝から雨がしきりに降っていたが午後には止み、とうとう晴れてきたらしい。

「ではみんな、気をつけて帰れよ。くれぐれも寄り道はしないように」

担任の山下先生がそう言うと、ホームルームが終わって生徒達が一斉に動き出した。
 そんな中、机に座って窓の外を見ている一人の少年、鞍月蒼はゆっくりと立ち上がる。

「蒼、明日空いているか?暇だったら付き合ってくれよ」

 後ろから蒼の友達である影山伊吹が話しかけてきた。

「ごめん、明日は行く所があるんだ」

明日は蒼の母親である麻子の墓参りに行く日だった。蒼の母親は彼が七歳の時に何者かによって殺された。未だその時の犯人は行方不明である。当時幼かった蒼は犯人の顔をはっきりと覚えていないが、今も母親を殺した犯人を探し続けている。

「そうか…じゃあ、しょうがねぇな」

「ごめんな、明日は母さんの命日で墓参りに行く日だからさ」

「ああ、そうだった。明日はお前の母さんの命日だったな。俺、うっかりしていた。ごめん」

「日曜なら、いいんだけど…」

「おっマジか!じゃあ日曜にしようぜ」

伊吹はそう言うと、勢い良く蒼の鞄を手にとって教室を飛び出していった。

「おい、伊吹!俺の鞄を勝手に持っていくなよ!」

蒼は慌てて走っていく伊吹の後を追って行った。教室を出て廊下の先を見渡すと、他の生徒に混ざって緑がかった銀髪男の後ろ姿が見えた。伊吹である。彼は高校の規則やら、なんちゃらは無視して、個性豊かな外見をしている。ただ、この銀髪がイマイチ理解できない蒼はどうしても煤けた白髪に見えてしまう。要するに、『老けて見える』のである。せっかく若いのに、そんな髪の色にしてしまうのは如何なものか、と蒼は不思議に思っている。

しかし伊吹曰く、これは幻の色らしい(実際は、ただ単に、緑に染めたあとに銀にして、また色を変えて…とやっているうちにこんな色になったらしいが)
緑がかった銀髪の後を追って、そのまま下駄箱に着いた蒼は、靴を履き替えようとしている伊吹に追いついた。

「くそっ、今日は下駄箱で捕まっちまったぜ」

「全くお前さぁ、俺をからかうのもいい加減にしろよな」

そう言って、蒼はイソギンチャクのキーホルダーが付いた自分の鞄を伊吹の手から奪い返した。蒼はイソギンチャクとかサンゴなどの海の生き物が昔から好きなのである。

「ちぇっ!」

「舌打ちかよっ、そこ」

伊吹は小学校の頃から蒼をずっとからかっている。ある時は靴を隠したり、鉛筆を盗んでみたり、背中に何か貼りつけたり…まぁ、レベル的に言うと低脳がするいたずらである。

「だってよ、お前いっつもボーっとしているから、俺がそんなお前に日々危機感とやらを与えてやっているんだ」

「ああそうですか、ボーっとしているのは生まれつきですよ。それと、お前さ、そのブーツとやらを学校に履いてくるのはどうかと思うよ?」

伊吹はたまにブーツを履いてくる。茶色で黄色い糸が編んである今風のイケてるブーツだが、どうも履くのが面倒くさそうである。

「そうか、この靴のせいでさっさと追いつかれたのか!」

なるほど、と伊吹は一人で納得していた。
それはさて置き、蒼は日曜日の話をし始めた。

「伊吹、そんなことより、日曜日どこに行くんだ?」
伊吹は一旦落ち着いて話し始めた。

「あ、そうそう。蒼、『鴉ノ神社』って知っているか?」

『鴉ノ神社』…どこかで聞いたことのあるような気がしたが、行ったことはない蒼は、首を傾げた。

「鴉ノ神社?何処にあるんだっけ、それ」

「ここから電車で下って、一時間ってところだな」

「で、何でお前が神社に?何か祈り事でもあるのか?」

伊吹は何時になく真剣な顔でこう言った。

「実は…俺の妹がよ、来週の月曜日に友達とキャンプしに山へ行くらしいんだけど…」

「キャンプ?もしかして外で夜を過ごすってことか?」

「ああ…家族で止めたんだけど、あいつ言うこと聞かなくてよ」

「辞めさせろ、絶対に。そんなことしたら殺られるぞ」

「だよな…祈っている場合じゃないってことは分かっているんだけどよ」

「祈っている暇があるんなら妹を止めろよ」

現在、世界中で殺人事件や暴行事件が後を絶たなくなってきている。この平和だとされていた日本ですら、年間何万人という数の人間が殺されている。昔はせいぜい数百人であったが、いつからか秩序が乱れていき、今では夜に一人で外を歩くなんて行為は自殺行為と同じである。

警備体制も厳重にはなったが、もはや警察の手には負えない状態である。
だから、外に出るのはせいぜい夕方の五時までだ。それより遅いと殺される確率が上がる。

「俺だってそうしたいさ。でも無理なんだよ。俺の妹、頑固だろ?」

「確かに…」

蒼は伊吹の妹である千恵に彼の家に遊びに行った時に会った事があるが、とにかく彼女は自己主張が強かった。自分でこうと決めたら融通が効かない子だ。

「だから、せめて妹の無事を祈ろうかと思ってよ。その神社は災難除けで有名でさ」

「でも…」

母親を殺された経験のある蒼は、どうしても納得できなかった。

「ってことで、明後日の午前九時にお前の家の前で待ち合わせな」

伊吹は蒼の言葉を遮ってそう言うと、蒼の肩を右手でポンと叩いた。

「分かったよ…」

 その後、蒼は伊吹と校門で別れた。彼は買い物を家の人に頼まれたそうだ。遅くなるといけないからと、走って行ってしまった。

蒼はモヤモヤした気持ちで伊吹の後ろ姿を見ていた。
 ―夜に外でキャンプ。

 確かに一度はしてみたいことかもしれない。昔だったらキャンプなんて当たり前だったはずだ。どうしてこんな世の中になってしまったのだろうか、と蒼は一人で考えていた。

 空を見上げると、雲の切れ間から太陽が現れた。その弱々しい日光は蒼の目蓋を下げさせた。
目を細めた蒼は下を向いてそのまま歩き出した。道端には今朝降っていた雨がまだ残っていて、歩く度にピチャピチャと音を立てた。その度に水面から乱反射した日光が少し眩しかった。

 真っ直ぐ家に帰った蒼は鞄から家の鍵を取り出して家の戸を開けた。
 築十五年の鞍月家は木造二階建ての一軒家である。この家に引っ越してきたのは蒼が二歳の時だから、蒼が物心付いた時からずっとこの家だった。母親との短い記憶もこの家に詰まっている。蒼は家に居ると心が落ち着く。危険が潜んでいる外の世界と区切られたこの空間は唯一心が静まる場所である。

 家に上がった蒼は真っ先に畳の部屋へ向かった。

 ―母親の仏壇に線香をあげる為に。

「母さん…今日も無事に帰宅できました」

蒼は仏壇に置いてある母親の遺影の前に座ると、目を閉じてそう言った。

(今日は一つお願いがあります。伊吹の妹が来週キャンプに行くそうなんですけど…)

 蒼はそのことが心配で仕方がなかったので、母親に彼女を守ってくれるようにお願いをした。これは毎日の習慣である。蒼は日々嫌なことや悩み事、相談がある時は決まって母親の仏壇の前に座って、目を閉じて心の中で囁く。母親はもうこの世に居ないが、父親は毎日仕事で忙しく、兄弟も居ない蒼は家族の中に相談相手がいないのだ。

 天国に居るであろう母親が自分の話を聞いてくれているのかは分からないが、少しでも気休めになると、蒼は毎日欠かさずこうして母親と一方通行な会話をする。

 亡き母との会話を終えた蒼はリビングへ向かった。
広いリビングは綺麗に整頓されていた。父親と二人暮らしということで物が少ないのである。父親は仕事で毎日帰りが遅く、家にいるのは日曜のみである。平日の大半、この家にいるのは蒼ただ一人ということだ。
 ソファーに腰掛けた蒼はテレビのリモコンを手にとって電源を入れた。

 (本日午後一時に東京都内のマンションで一人の女性の遺体が発見されました。この女性の首にはロープで絞められたと思われる痕があり…)

 ニュース番組を覗くといつものように殺人事件が報道されていた。次から次へと報道される殺人事件の数々…蒼は溜息をつき、他チャンネルに切り替えた。

時計の針は午後九時半を指していた。テーブルの上にはラップに包まれたオムライスとオニオンスープが置いてある。母親が居ない蒼は晩御飯から何まで一人でこなす。長時間放置された料理は既に冷め切っていた。いつもこの時間には帰ってくるはずの父親がまだ帰ってこないので、蒼は不安になった。

数分後、家の外で送迎バスのエンジン音がしたので蒼はほっと胸をなで下ろす。
今や殆どの会社は社員を家まで送迎してくれる。でないと、残業なんて出来やしないからだ。

「ただいま」

 玄関の戸が開いて父親が入ってきた。その声は疲れきっていた。

「父さんおかえり。今日は残業だったんだね」

ネクタイを外しながら父親の浩哉は怠そうに頷いた。
「ああ」

その後、父親は夕飯を摂ることなく寝室へ向かって行ってしまった。最近はこんなことがしばしばある。母親が亡くなってから、父親は蒼に対して素っ気ない態度をとるようになった。     

そんな訳で、蒼は父親から『麻子を殺したのはお前だ』と思われている様な気がして止まない。実際、蒼自身も母親の死は自分が原因だと思っている。彼は今でも後悔し続けていた。

―あの時自分が我が儘なんか言わなければ母親は今も生きていたと…

けれど、彼がいくら悔やんでも母親は帰ってこない。どんなに願っても死んでしまった人間はもう戻ってこない…

 蒼もその日は特にする事も無かったので、部屋へ行きそのままベッドに潜った。

※     ※

「日が暮れてきたからもう帰りますよ」

「いやだ、まだメリーゴーランド乗ってないもん」

母親が差し伸べた手を振り払うと、一目散に駆け出して行った一人の少年。

朝から吹いていた強い風は止み、午後には風一つ吹いていなかった。空を見上げても、もう雲の動きは肉眼では分からない。時計台の針は午後五時を指していた。さっきまで沢山いた人々は一気に減っていき、周囲は静まり返っていた。

―まるで嵐の前の静けさのように。

母親は溜息をつくと、少年の後を追って歩き出した。
気がつくとあれから一時間が経過していた。既に太陽の八割が沈んで薄暗くなり始めていた。当然周囲に人の気配は無い。

「いい加減にしなさい」

母親は少年の手を掴むと、強引に遊園地の外へ出た。
 少年は今にも泣きそうな顔をしている。誰ひとり居ない道を二人は無言のまま歩いて行った。だが、二人の距離は決して離れることはなかった。母親はずっと少年の手を握っていた。

―その手はとても暖かかった…

 電車から降りると、外はすっかり暗くなっていた。母親の手に僅かに力が入る。
 こんなに暗い街の中を歩いたことの無かった少年は母親の緊張とは裏腹に興奮していた。

「お母さん、わくわくするね」

母親の手を引っ張ると、少年はにっこり微笑んだ。母親も少年の顔を見ると笑顔になった。
暗闇を歩くこと約十分。それは角を右へ曲がろうとした時だった。 

暗くてよく見えなかったが、黒い服を身にまとった一人の男が急に飛び出して来たのだ。

母親は咄嗟に少年の身体を自分の身体で覆った。その男は母親にぶつかって、その後直ぐに体勢を整えて少年に近づいて来た。暗くて分からなかったが、その男の右頬に鳥の足跡のような傷跡があったのが見えた。まるで火傷のような痕…

男は不気味に笑って近づいてくる。手には何か…光っているものが握られていた。

『みーつけた』

男はそう言うと、手に持っていたものを振りかざした。

その瞬間、鳥の羽音のような音が周囲に響いて、男と少年の間に黒い物体が割り込んできた。その黒い物体は男の顔に纏わりつき、男は慌てて振り払おうと、もがき始めた。男はとうとう暗闇に消えていってしまった。

親の方を見ると、ブロック塀に爪を立てて苦しそうにしていた。

「お母さん?だいじょうぶ?」

 母親が心配になった少年は近くへ駆け寄った。

「……、」

母親は無言であった。

「お母さん?ねぇ…」

母親の脇腹に触れた時、少年の手に生暖かいものが触れた。少年は恐る恐る自分の手を見た。

「あかい…」

周囲にあった街灯の明かりに照らされて見えたその色は『紅』であった。耳を澄ますと先ほどまで聞こえていた母親の呼吸音が小さくなっていることが分かった。少年の頭の中は真っ白になった。何をしたら良いか分からなくなった少年はその後、母親に何度も声をかけ続けた。

「ねぇ、起きてよ…僕、もうわがままなんて言わないから…ねぇ…」

母親の呼吸音は少年の声とは逆に小さくなって行き、やがて聞こえなくなった。
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