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蜜柑色の彼と好きな物と嫌いな物と
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革靴の踵を鳴らして、僕の側にやってきた清水の言葉に僕は顔を熱くしたままピアノから離れる事を忘れて清水を見つめた。
その、僕を見る清水の顔が余りにも真剣で音楽に対する事でそんな顔をされると、僕はつい濁す事なく想いを吐露してしまう。
吐露した僕の言葉に、目を細めた清水が眼鏡を中指で押し上げる。
重々しい雰囲気が音楽室を渦巻いていた。
「なるほど、ベートーヴェンの耳が聞こえなくなり始めてから二年後の曲だ」
「……はい」
清水は僕に近づいて、僕を静かに見下ろした。
芦家よりは身長も低いし筋肉がついてる訳でもないけど、成人男性から見下ろされると圧迫感が生じて、居心地が悪くなる。
僕は数歩下がりピアノの側から離れると、清水はトンソンイスに腰掛けて鍵盤の蓋を開き、鍵盤の羅列に手のひらを構えた様子に僕は目を見開く。
清水の目が細められたと同時に、始まったその曲はベートーヴェン、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調、月光だった。
第3章に分けられた内の物々しい、重厚でありながら切なく、静謐な第1章に耳を傾ける。
孤独な印象を与える音色は退屈なものではなく、ベートーヴェンの世界が表現された良い音色に僕はその演奏に聞き入る。
僕の父や母、世界中で活躍するピアニストの音色と遜色のないその音色は、僕を夢中にさせたのに、第2章が始まる前にその演奏は打切られてしまい、僕は我に返った。
「……君はそんな顔をしてピアノを聴くんだな」
「…………ッ」
夢中になってピアノを聴いていた僕をまじまじと見つめてくる清水に、収まっていた顔の熱が再来する。
一体、何がしたいのか清水の行動の意味がわからずに僕は怪訝に眉を顰めた。
良い演奏だった。けれど、ピアノが弾けなくなった事を知っている清水が何故そのような事をしたのか、斜に構えた見方をしてしまう自分がそこにはいた。
「……先生、一体何がしたいんですか?」
「……何とは?」
「……先生は、僕の過去をご存知のようですが、その中でいきなりピアノを披露された意味が僕には分かりません……、ピアノが弾けなくなった僕に対しての自慢でしょうか?」
「……自慢?」
「ええ……、今の演奏は良い月光でした。本来なら最後まで聴かせて欲しかった……、そんな演奏をピアノが弾けなくなった僕にするなんて、先生はとても残酷だと思います」
僕は沸々と湧いてくる怒りをそのまま、清水にぶつけた。
まるで、段ボールを敷いて寝泊まりしているホームレスに数億円の時計を見せびらかすような所業に、僕は棘のある言い方をしてしまったが、清水はその事に怒りを露わにすることはなく目を瞬かせた後に顔を俯けて、眼鏡を直す。
「……まさか、君に僕が自慢していると思われるなんてね……まさか、思い過ごしだよ。音楽の天使とまで評された君にそんな事を言われるなんて、光栄な事だ」
「…………ッ」
「かくいう僕は、昔、然程ベートーヴェンは好みでは無かったんだ。一言で伝えるならば底知れない不気味さが苦手だったんだ。同じ人間であるはずなのに、人智を超えた存在のようである気がしてね」
「……何を言って」
「その日、所用でロシアにいた僕は、僕は知り合いのピアニストに誘われてロシアで行われたコンクールを鑑賞しに行ったんだ……、その時に聴いた演奏で僕はその価値観が一掃された」
「…………」
「コンクールの課題曲は別の曲だった。12歳の音色とは思えない、表現力だったし巧みなテクニックでミスも無く、僕はその演奏を確かに上手いと思って、噂通りの神童である事を認めたが、僕はコンクール終了後何故かは分からないが、観客が帰った後のホールで1人の少年が残って演奏を始めた……、僕は知り合いのピアニストと用事で、そのホールの傍に居てね。その少年が弾くベートーヴェンの月光を間近で聴いたんだ」
「……それは」
「……君が奏でるピアノの音色は圧巻だった。技巧は勿論素晴らしいものだったがそこ以上に、その音色にはまるでベートーヴェンがそう弾いていたんじゃないかと思わせる、臨場感のある音色だった。……僕は脱帽したよ。僕にとってベートーヴェンは過去の偉人の1人であり、底知れなさが恐ろしかったのに、その時目の前にいた君がその感覚を拭い去ってくれた。……そこにベートーヴェンが居るのではと、この演奏の通りに弾いたのではないかと何故か思わせる説得力があった」
熱い視線に囚われる中で、熱弁を振るわれれば振るわれる程、僕は頭の芯が冷えていくようだった。
その賞賛の声は昔、よく耳にしたものだ。その感想は昔は素直に嬉しかったが今は違う。
それは過去の僕に対しての称賛であり、抜け殻の僕に対しての言葉ではないから、耳にしたくなかった。
僕はその視線から逃れるように俯いた。
「……やめてください」
「……何故?」
「それは……過去の僕の演奏の話であって……、僕の話じゃない」
「……なるほど、そうか」
僕の言葉に、清水はそう言うとそれ以上何も言う事なく、教壇の方へと向かい束ねた書類を机の上に置く音がして、僕は垂れた前髪の間からその様子を伺った。
もう程なくすれば、授業が始まるだろうとそう思って、一歩踏み出す。
「……そうか、それはそうだな」
小さく何やらぶつぶつと呟いている清水に僕は怪訝に目を向けると、清水は僕の視線に気がついたらしく、スッキリとした涼やかな目元を細めて此方をみた。
「……目を閉じれば忘れてしまうが、君は青藍の生徒であり、僕が指導する生徒の1人だったな」
「………………」
その言葉は僕に言っていると言うよりは、何かに気がついたかのような独り言のような言い方だった清水に、この人は一体何を言ってるのだろうと理解できず無言で見つめると、清水は顎に手をやって少し考えた様子を見せ、此方に向き直った。
「……また、いつでも気軽に音楽室に寄るといい、慣れない日本の生活で疲れもあるだろうし」
「…………はい」
「吹奏楽を見学しに来た時に一緒に来た友人も良ければ連れてきなさい」
「……彼は友人では無いです」
「そうなのか?親しげに見えたが……、君を気遣って吹奏楽の見学も共に来たのだろう?」
「彼は……、そういうのでは……」
僕がそこまでいうと、音楽室にチャイムが鳴り響く。昼休みの終わりを告げるその音がいつも以上に鳴り響いた気がして、肩を跳ねさせた。
「昼休憩は終わりのようだ……、戻るといい」
「……はい」
清水はそう言って、僕から目線を外して踵を返して教壇側へと歩いて行ったため、僕も清水とは反対方向の音楽室の出入り口へと向かう。
何故か清水にズカズカと踏み込まれても、芦家の時ほど苛立たなかった事に気がついて、何故だろうと考えて、清水の月光がとても良い演奏だった身体と結論付ける。
その事に気がついて、失笑が漏れた。
僕がどんなに、音楽から離れたいと願っても、見ないふりをしても、やはり僕はどうしても、ピアノから離れる事が出来ないのだと実感して、ため息を吐いた。
清水にズカズカと踏み込まれるのか、嫌だったけれど清水と話している間はなんだか、ピアノに音楽に囲まれて暮らしていた頃のようで息をするのが楽だったのだ。
僕はそれを実感しながら、暗い廊下を戻った。
その、僕を見る清水の顔が余りにも真剣で音楽に対する事でそんな顔をされると、僕はつい濁す事なく想いを吐露してしまう。
吐露した僕の言葉に、目を細めた清水が眼鏡を中指で押し上げる。
重々しい雰囲気が音楽室を渦巻いていた。
「なるほど、ベートーヴェンの耳が聞こえなくなり始めてから二年後の曲だ」
「……はい」
清水は僕に近づいて、僕を静かに見下ろした。
芦家よりは身長も低いし筋肉がついてる訳でもないけど、成人男性から見下ろされると圧迫感が生じて、居心地が悪くなる。
僕は数歩下がりピアノの側から離れると、清水はトンソンイスに腰掛けて鍵盤の蓋を開き、鍵盤の羅列に手のひらを構えた様子に僕は目を見開く。
清水の目が細められたと同時に、始まったその曲はベートーヴェン、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調、月光だった。
第3章に分けられた内の物々しい、重厚でありながら切なく、静謐な第1章に耳を傾ける。
孤独な印象を与える音色は退屈なものではなく、ベートーヴェンの世界が表現された良い音色に僕はその演奏に聞き入る。
僕の父や母、世界中で活躍するピアニストの音色と遜色のないその音色は、僕を夢中にさせたのに、第2章が始まる前にその演奏は打切られてしまい、僕は我に返った。
「……君はそんな顔をしてピアノを聴くんだな」
「…………ッ」
夢中になってピアノを聴いていた僕をまじまじと見つめてくる清水に、収まっていた顔の熱が再来する。
一体、何がしたいのか清水の行動の意味がわからずに僕は怪訝に眉を顰めた。
良い演奏だった。けれど、ピアノが弾けなくなった事を知っている清水が何故そのような事をしたのか、斜に構えた見方をしてしまう自分がそこにはいた。
「……先生、一体何がしたいんですか?」
「……何とは?」
「……先生は、僕の過去をご存知のようですが、その中でいきなりピアノを披露された意味が僕には分かりません……、ピアノが弾けなくなった僕に対しての自慢でしょうか?」
「……自慢?」
「ええ……、今の演奏は良い月光でした。本来なら最後まで聴かせて欲しかった……、そんな演奏をピアノが弾けなくなった僕にするなんて、先生はとても残酷だと思います」
僕は沸々と湧いてくる怒りをそのまま、清水にぶつけた。
まるで、段ボールを敷いて寝泊まりしているホームレスに数億円の時計を見せびらかすような所業に、僕は棘のある言い方をしてしまったが、清水はその事に怒りを露わにすることはなく目を瞬かせた後に顔を俯けて、眼鏡を直す。
「……まさか、君に僕が自慢していると思われるなんてね……まさか、思い過ごしだよ。音楽の天使とまで評された君にそんな事を言われるなんて、光栄な事だ」
「…………ッ」
「かくいう僕は、昔、然程ベートーヴェンは好みでは無かったんだ。一言で伝えるならば底知れない不気味さが苦手だったんだ。同じ人間であるはずなのに、人智を超えた存在のようである気がしてね」
「……何を言って」
「その日、所用でロシアにいた僕は、僕は知り合いのピアニストに誘われてロシアで行われたコンクールを鑑賞しに行ったんだ……、その時に聴いた演奏で僕はその価値観が一掃された」
「…………」
「コンクールの課題曲は別の曲だった。12歳の音色とは思えない、表現力だったし巧みなテクニックでミスも無く、僕はその演奏を確かに上手いと思って、噂通りの神童である事を認めたが、僕はコンクール終了後何故かは分からないが、観客が帰った後のホールで1人の少年が残って演奏を始めた……、僕は知り合いのピアニストと用事で、そのホールの傍に居てね。その少年が弾くベートーヴェンの月光を間近で聴いたんだ」
「……それは」
「……君が奏でるピアノの音色は圧巻だった。技巧は勿論素晴らしいものだったがそこ以上に、その音色にはまるでベートーヴェンがそう弾いていたんじゃないかと思わせる、臨場感のある音色だった。……僕は脱帽したよ。僕にとってベートーヴェンは過去の偉人の1人であり、底知れなさが恐ろしかったのに、その時目の前にいた君がその感覚を拭い去ってくれた。……そこにベートーヴェンが居るのではと、この演奏の通りに弾いたのではないかと何故か思わせる説得力があった」
熱い視線に囚われる中で、熱弁を振るわれれば振るわれる程、僕は頭の芯が冷えていくようだった。
その賞賛の声は昔、よく耳にしたものだ。その感想は昔は素直に嬉しかったが今は違う。
それは過去の僕に対しての称賛であり、抜け殻の僕に対しての言葉ではないから、耳にしたくなかった。
僕はその視線から逃れるように俯いた。
「……やめてください」
「……何故?」
「それは……過去の僕の演奏の話であって……、僕の話じゃない」
「……なるほど、そうか」
僕の言葉に、清水はそう言うとそれ以上何も言う事なく、教壇の方へと向かい束ねた書類を机の上に置く音がして、僕は垂れた前髪の間からその様子を伺った。
もう程なくすれば、授業が始まるだろうとそう思って、一歩踏み出す。
「……そうか、それはそうだな」
小さく何やらぶつぶつと呟いている清水に僕は怪訝に目を向けると、清水は僕の視線に気がついたらしく、スッキリとした涼やかな目元を細めて此方をみた。
「……目を閉じれば忘れてしまうが、君は青藍の生徒であり、僕が指導する生徒の1人だったな」
「………………」
その言葉は僕に言っていると言うよりは、何かに気がついたかのような独り言のような言い方だった清水に、この人は一体何を言ってるのだろうと理解できず無言で見つめると、清水は顎に手をやって少し考えた様子を見せ、此方に向き直った。
「……また、いつでも気軽に音楽室に寄るといい、慣れない日本の生活で疲れもあるだろうし」
「…………はい」
「吹奏楽を見学しに来た時に一緒に来た友人も良ければ連れてきなさい」
「……彼は友人では無いです」
「そうなのか?親しげに見えたが……、君を気遣って吹奏楽の見学も共に来たのだろう?」
「彼は……、そういうのでは……」
僕がそこまでいうと、音楽室にチャイムが鳴り響く。昼休みの終わりを告げるその音がいつも以上に鳴り響いた気がして、肩を跳ねさせた。
「昼休憩は終わりのようだ……、戻るといい」
「……はい」
清水はそう言って、僕から目線を外して踵を返して教壇側へと歩いて行ったため、僕も清水とは反対方向の音楽室の出入り口へと向かう。
何故か清水にズカズカと踏み込まれても、芦家の時ほど苛立たなかった事に気がついて、何故だろうと考えて、清水の月光がとても良い演奏だった身体と結論付ける。
その事に気がついて、失笑が漏れた。
僕がどんなに、音楽から離れたいと願っても、見ないふりをしても、やはり僕はどうしても、ピアノから離れる事が出来ないのだと実感して、ため息を吐いた。
清水にズカズカと踏み込まれるのか、嫌だったけれど清水と話している間はなんだか、ピアノに音楽に囲まれて暮らしていた頃のようで息をするのが楽だったのだ。
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