蜜柑色の希望

蠍原 蠍

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蜜柑色の彼と好きな物と嫌いな物と

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次の日、僕はいつも通り学校に登校して一番後ろの窓際から2番目の自分の席に着き、いつも通り何もせずにホームルームが始まるまで、時間が経つのを待っていると、登校時間ギリギリで後ろのドアから滑り込んできた芦家が現れた。
 いつも通りのその様子であったが、今日は遅刻ギリギリの時間であった為、クラスメイトから声だけは掛けられていたものの、取り囲まれる事はなく、僕の右隣の席に座った気配はあったが、それに僕は一瞥する事はなく前を見つめていた。
 その時、芦家は腰を据えた学生椅子から身を乗り出して僕を覗き込んできて、自ずと目線を固定していたのに彼の姿が視界に入った事に、身体が跳ねる。
 
「おはよう、急遽なんだけど、今日昼飯バスケ部の事で行かなきゃなんなくなっちまった、だから今日は一緒に食えねぇ」
「……そう」
 
 その言葉に一言答えた瞬間、ホームルームのチャイムが鳴って芦家は乗り出していた身体を自分の席に戻した。
 程なくして、担任が何時もの日常通りに現れてホームルームが始まる。
 日直の号令が教室内に響く中、僕は芦家の言葉に、何も感じない事に疑問を思っていた。あんなにも離れたいと思っていたのだから、もっと胸がすく気持ちになってもおかしく無いのに、そう言った気が楽になったような気分にはならなかった。
 勿論、残念だとも思う訳は無かったが、何だか自分の気持ちがよく分からなくて、それを誤魔化すように号令に従い挨拶の言葉を述べて、座る。
 しかし、そんな事どうでも良いと、そう思って何も考えないようにして、僕は一限目の歴史総合の教科書を取り出した。
 
 ◇
 
 午前中の授業が終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、いつもは僕の側に直ぐにくる芦家は早足で教室の外へと出ていった。
 今日の朝の言葉通り、バスケットボールの事に関する用事で出ていったのだろう。
 まあ、そんな事は僕に関係の無い話だと考えて、弁当を取り出して、何となしに教室内を見渡すと、僕以外は全員グループをなして、教室内で屯って弁当を持ち寄っていたり、購買に向かう為教室の外へと向かったりしている様子で有るのはいつもの事であったが、今日は僕を見ながらヒソヒソと耳打ちをしている様子があからさまであるのが、気分が悪く僕は微かに眉を顰める。
 少し前にクイーンビーの座に位置している様子の白石や、芦家を取り囲む名前も知らない男子生徒へ、直球に言葉を返してから行われる事が良くあった事だが、今日はいつも以上に分かりやすく僕の方を見ては、何かを言っているのが分かりやすかった。
 直球に言われるのは別に言い返せば良いだけの話だが、ヒソヒソと何か言われているのは対処のしようが無く、僕は辟易させられていた。
 そんな中、白石を含めた数人の女子生徒がどう見ても僕を見て、笑っている様子を見せていて、低レベルな人間のなす事ではあるがやはり気分は良くはなくて、居心地が悪い教室から廊下へと出た。
 初日から目立った上にスクール上位層と言い合いをして、更に人望が厚い皆から好かれている芦屋を毛嫌いした様子を曝け出してしまったのだから、客観的にみてこの状況に陥るのは至極当然なのは、分かっていたものの、やはり僕は彼等と仲良くするつもりも、ナードとして彼等に媚びるような態度を取るつもりも無かった為、この状況は仕方のない事だと苛立ちながらも諦めていた。
 音楽院ではそんな事をする連中なんて、誰1人として居なかったから、現在のクラスメイト達の幼稚さには呆れてしまう。
 僕は詰まった胸の少しでも楽にしたくて、息を吐いた。
 さて、出てきてしまったが、ここ最近いつも行っていた体育館の小部屋には行く事が出来ないわけだし、どうするかと進めていた足を止めて考える。
 後ろから、数人が僕を追い越して購買に行く事を話しながら、仲良さげに昇降口に使うのを見ながら、やはり行く場所が無い事が身に染みた。
 校舎内は案外丁度良い場所は存在しないのは分かっていた為、僕は少し考えて、思い出した。
 
『音楽室に来て良い』
 
 そう言った、音楽教師の清水の言葉と姿が脳裏に思い浮かべて、数秒間を置いてから足を再び前に進め、今日で向かうのは三回目になる、自分の教室からそう近くはない一室へと人通りの少なく、暗い廊下を足早に向かう。
 辿り着いた、その音楽室の扉に手を掛けて、僕は乾燥した唇を舐めると舌を逆剥けになった皮が刺した。
 ざらついた感覚を味わい、舌を引っ込めて僕はその扉を微かに開けて中の様子を伺うと、奥にある漆黒の光沢が美しく輝くグランドピアノが鎮座しているだけで、清水の姿は無く、少し迷ったものの僕は身体を捩じ込んで、音楽室へと足を踏み入れた。
 その時、僕はまたピアノに目を奪われてしまう。
 ニューヨークの夜景とか日本の桜とかよりも、僕にとっては何よりもかけがえの無い光景に見えて、僕はまた、前と同じように引き寄せられるように足をピアノへと向けたが、前の時とは違い漆黒の鍵盤の蓋を、優しく撫でて、踵を返すとピアノから少し離れた所に学生椅子に腰掛けて、ピアノを見つめる。
 数秒見つめて、僕は膝の上に置いてあった教室から持ってきた弁当の包みを解いて、弁当を蓋を開いた。
 子供の頃に何度か父に勧められて食べさせられた、卵焼きや焼き鯖、もやしと菜の花の和物が入った弁当を前に幼い頃から躾けられていた通り、小さくいただきますと呟いてから箸を付ける。
 アメリカで育ったけど、この食事の作法については日本式で育てられていた為、音楽院の仲間達と共に昼食を共にすると、僕がいただきますなんて言うのを聞いて目を丸くしていた、クラスメイトの事を思い出しながら一口、また一口と口に運んでは噛み締め飲み込むのを作業のように繰り返していると、程なくして食べ終える。
 弁当をまた元の包みに戻して、僕は一息吐いて、立ち上がるとその空になった弁当箱を座っていた椅子に置いて、また足はピアノへの向かう。
 弾くことなんて出来ないのは分かってるのに、目にする事ももうしたく無かった筈なのに、みっともなく縋るようにピアノへと向かってしまう事に、自傷気味に笑ってしまうがそれでもピアノの側に向かうのは止めることは出来ず、また僕は鍵盤を隠す漆黒の蓋を撫でて、その蓋を開けた。
 白と黒のコントラストの鍵盤の羅列は、相変わらず美しかった。
 僕は、震える指先で白い鍵盤を撫でて、人差し指だけで鍵盤を押さえると音の粒が音楽室に響いた。
 調律の狂いがない、手入れのされた音で思わずそのまま弾きたくなったけど、その衝動に耐えて指を離す。
 そして、もう一度同じように人差し指だけで違う鍵盤を押さえて、また離してそれを繰り返す。
 ただ押さえているだけの行為を只々繰り返した。
 
「ベートーヴェン、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調、月光」
「!!」
「……の、簡易的な主旋律」
 
 鍵盤を押さえるのを終えた時、いきなり声をかけられて、僕は目を見開いて音楽室のドアの方へ勢いよく振り返ると、そこには清水が眼鏡のレンズに光を反射させて、立っていた。
 僕はその言葉を言われた瞬間、顔に血が集まって頬が熱くなったのを感じる。
 こんな、稚拙とも幼稚とも言えないどころか演奏なんて口が裂けても言えないような有様で、ピアノを奏でている所を見られたのは耐え難い屈辱であり、今までに感じたことのない羞恥心に苛まれ、僕は思わず座っていたトンソンイスから立ち上がる。
 
「……何故、ベートーヴェンを?」
「…………ッ、何故……?」
「その曲を弾いた理由を教えてほしい、月光に何か特別な思い入れが?」
「……特に、ありません……強いて言うなら……耳が聞こえなくなり始めたベートーヴェンの事が一瞬頭を過ったからです」
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