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五十一話 信康処刑(その七)

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「信康様は、生に未練は?」


無感情の言葉を才蔵はゆっくりと語りかける。


「徳川がこのままで良いと…」


「……」


誰とも知れぬ曲者の問い掛けに、信康は応えるのをためらった。


「…それでは、このまま失礼いたす」


いくつもの死線を潜り抜け、辿り着いた信康の元である。このままに簡単に切り捨ててよいものでないことなど才蔵にも判っていた。
しかし、生に執着すらない戦国の武将に生きる意味はない。『生を捨ててこそ…』などとたわい事を後世の人間は語ってはいるが、生こそが、生きて行く上での原点で有り、死を覚悟するとは、諦めたこととは同一ではない。


才蔵の受けた指令は、『信康本人が生に足掻き続けているならば』助ける。という前提条件が存在していたのである。


「ま、待て!」


「……」


「待ってくれ!」


立ち去ろうとした才蔵が、信康の言葉に反応して、ゆっくりと振り向いた。


「わしは、わしは、どうすれば…」


「……」


答えを導き出すのは、才蔵ではない。
ここで死ぬのも、足掻き続けて生きていくのも、信康本人が決める事であり、救命のため信康の元へと辿り着いた才蔵であっても手助けこそすれ、これからの信康の人生すべてに責任を追う気など毛頭なかった。


「…親に見捨てられ、わしを頼る者にさえ何もしてやれない…わしは、わしは、どうすれば…」


「俺に答えられることなど何もない。ただ、一つだけ、本当にすべて終わらせてもよいのか?」


「…すべてを……すべてを終わらせて………」


才蔵のとつとつとした言葉が冷め切った信康の心に響く。
酒に溺れ、すべてに投げやりとなっていた信康の濁った瞳が、大きく見開かれ、全身から生きる力が蘇っていく。


「忍び殿、何とかなりまするか?」


「そのために、俺がいる」



翌朝、この日も晴天を予感させる雲一つない青空の東の端から、ゆっくりと朝日が昇る。

そんな刻、無精ひげを落とし、髷髪を整えた凛々しき青年が、中庭の白洲へと自ら進み出ていた。


「藤林、その方が介錯か‥」


「はっ…」


信康に返事を返した藤林秀二の刀を持つ手は震えていた。


「はははは、そう、緊張するでない…わしまで緊張が移るではないか‥」


「‥はっ、も、申し訳ありません…」


切腹に介錯、とてもこれから起こる出来事が想像し得ない和やかな会話である。


「藤林殿、そろそろ刻限かと…」


そんな和やかな刻をぶち壊すその男は、信康の死を見届けるために家康が送りこんだ男であった。


「何やら、よい香りがする…わしの死の匂いも消してくれよう…」


信康は、覚悟を決めていた。
昨夜、自分の前に忍び込んだ誰とも知れない忍びの戯言を全面的に信用した訳ではなかった。

城に幽閉され、翌日には切腹。そんな状況を覆せる方法が簡単であるはずがないことは、誰にでも判ることであった。


「では、お覚悟を」


「うむ…」


信康は座する前に置かれた自刃のための小刀を手にすると、真っ白な和紙をゆっくりと巻きつけ始めた。





「藤林殿、見事な介錯で御座った」


「はっ…」


「あとの始末もお願い致す。わしは、このことをお館様に御報告申し上げる」


その男はそういうと、そそくさとその場をあとにした。
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