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三十七話 本願寺決戦(その四)

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逃げ出す敵兵に追い討ちをかける寄せ集め部隊。
そんな状況を一段高い櫓の上から、一部始終見ていた蘭丸は、砦にどんどんと近づく、先頭で戦う馬上の猛将の周りに付き従う、三つの黒い影に気がついた。


「??あれは、‥‥伊蔵!?」


その三つの影は、砦に近づく事で姿を鮮明にし、砦の物見櫓からハッキリと認識できるほどになっていた。


「‥‥まさか、……いや、しかし‥‥、伊蔵がいるとなると、……えぇい、こうしちゃおれん。早く、お知らせせねば」


蘭丸は突然、意味不明の言葉を発すると、慌てて櫓を降り始めた。




「お、お知らせ致します。援軍がまいっております‥‥」


「うむ‥‥」


信長にすれば、先の物見から、すでに聞いた話しで、蘭丸の慌てようを見たからといって、とりわけ慌てる素振りは見せることはない。


「そのように、落ち着いて居る場合では、ありませぬ!!」


「……?」


信長の前で、蘭丸一人が慌てふためき、完全に冷静さを失っている。


「これ、蘭丸。少し、落ち着かぬか」


「な、何を呑気な。援軍を指揮するものが誰かは特定出来ませぬが、あの伊蔵が、伊蔵の配下のものが、援軍に加わっておるのですぞ!!」


「……伊蔵が、ま、真であろうな!!!」


大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出し、呼吸を整えた蘭丸は、首をゆっくり縦に大きく動かした。


「もちろんです」


「蘭丸。わしの甲冑を持て。こうしてはおれん」


信長にしても、蘭丸にしても、そこに伊蔵がいる事の意味がすぐに理解できた。


伊蔵は、決して信長の配下ではない。

主を重治と決めた伊蔵が、重治の命令なしに行動を起こす事など、まずあり得はしない。


その伊蔵が、信長を助けるために自ら命をかけることなど、あろうはずがなかった。


しかし現実には、目の前で伊蔵が戦っているという。
それは、とりもなおさず重治の命令があったからに違いない。

そう、あの死んだかもしれなかった重治が生きていたということに他ならないのである。



蘭丸に命令をした信長の眼光の輝きは、取り戻され、精気さえも溢れ出し漲っているようにさえ感じられた。

重治の存在が、重治がそこにまで来ているかもしれないという可能性が、半死の信長を蘇らせたのである。







立ちふさがる敵兵をなぎ倒した重治は、敵部隊の真ん中を突き抜け、敵部隊後方へと抜け出ていた。

重治の眼前、砦への進路を遮るのは、敵鉄砲部隊である。


重治は、それまでの勢いとは異なり、手に持つ槍の穂先を下に、向け不戦の構えをとり、ゆっくりと馬を歩かせ始めた。

もちろん、すぐその周りには、伊蔵達三兄弟や新平、長政、重秀がいた。

重治は、いつ銃弾が飛んでくるかもしれない状況にもかかわらず、ゆっくりと、しかし確実に相手、鉄砲隊へと近づいた。


ここで、この戦い最後の奇跡が起こった。


重治たちが、相手方射程距離内に入っても、いっこうに鉄砲が発射されてこないのである。


重治が、三千人を前に語った、『授けられた必勝の策』は、部隊の士気を高めるためのものではなく、重治には確信のあるものであったのだ。


重秀が、重治よりも少し前に進み出て、右手をゆっくりと上にあげ、大きく左右に振った。


するとそれまで前方を塞ぐように配置されていた鉄砲部隊の中央の部分が、モーゼが神の力を借り海を二つに割ったように、砦の城門までの道が作りだされたのである。


重秀は、才蔵からの繋ぎを受け、重治の元に馳せ参じるため、雑賀孫一という名を捨てた。

しかし、ただ捨てて一族を離れた訳ではない。

雑賀衆すべてを引き連れて行けない重秀は、交換条件として不戦の約束、つまり、自分の地位とのかわりに、重治達には、手を出さない約束を取り付けていたのであった。


重治達は、開けてもらった人垣の続く道を胸をはり、堂々と進んでいく。


重治達の戦いを目の前で見た雑賀衆たちの中には、歓声を上げるものたちさえ現れていた。

そしてその歓声は、どんどん広がり、自分たちの元、頭の選んだ道を肯定するかのような大歓声に変わっていったのであった。


重治達が、砦の門にたどり着いた時、堅く閉ざされいたその扉がゆっくりと開き始めた。


そして、少しずつ開かれる扉の中からも、雑賀衆の歓声に連動するかのように大歓声が漏れ聞こえて来ていた。


砦の扉が開き、重治達はゆっくりと砦の中へと進んでいった。

砦の中で重治達を待っていたのは、それまでこの砦を必死に守っていた兵士達からの歓声であった。


この砦に立てこもり、既に十日あまり、援軍の現れない毎日に、死を覚悟さえして必死で砦を守り抜いていた兵士達である。

重治達の見せた戦いは、間違いなくそんな兵士達の気力を奮い立たせた。




大歓声の湧き上がる砦の中、いち早く、重治達に駆け寄る年若き小姓と立派な甲冑を身に付けた武者があった。


「伊蔵殿。重治様は!?」


最初に近づいて、声をかけた年若き小姓が、いわずと知れた蘭丸である。


「…………」


蘭丸の問い掛けに、伊蔵は、何も答えない。

ただただ、笑いをこらえ、必死で平静を装っているだけである。


「‥‥そこの御仁。誰だかわからぬが、互助勢かたじけない‥‥」


答えを返さない伊蔵に、仕方なく蘭丸は、重治の方に声をかけた。


「いや、いや‥‥。それよりも、俺の馬の扱いも、まんざらでは、なかったろう!」


蘭丸は、突然に馴れ馴れしく言葉を返す重治に、むっとした表情で重治を睨みつけた。


「‥‥ふっ、蘭丸も相変わらずだねぇ」


「‥‥??……ま、まさか、そのような…………」


蘭丸は、慣れ慣れしく話しかける、その男の顔をまじまじと見つめ、続いて伊蔵の顔を見た。


伊蔵は、相変わらずの無表情である。しかし、どこからどうみても目元の笑みだけは隠せていない。
蘭丸との視線が絡み合った瞬間、伊蔵は、軽く微笑み、頷く仕草を見せた。


「……で、では、まことに!?」


再び、重治をじっと見つめた、この時の蘭丸の目は、以前の敵愾心の現れたものとはまるで違い、尊敬と感謝で溢れていた。


「重治、重治は、どこじゃぁ、重治ぅー」


負った傷のせいなのか、信長は、蘭丸より、かなり遅れて、重治達の前に現れた。


「伊蔵、重治は?」


伊蔵は、蘭丸の時とは違い笑みを漏らしはしない。
何も語らず、笑いもしない代わり、信長にはっきりと判るよう、重治に視線を移した。


「‥‥?‥‥まことか?」


信長のとった行動も蘭丸と寸分違わない。

重治の頭の先からつま先まで、二度三度と視線が上下する。


重治は信長の熱い視線に気恥ずかしげに、はにかんだ笑みを見せた。


「信長様、傷は大丈夫ですか?」


近づく信長の様子が気にかかった重治の初めの言葉が、これであった。


「ふふふっ。傷など、どこかへ消えうせたわ」


重治は、にっこりと微笑んだ。


「まこと、重治なのじゃな‥‥。……心配かけおって……」


ゆっくりと重治に近づいた信長は、目の前にした重治を力強く抱きしめた。


「皆の者、これより本願寺軍の追撃に入る。動けるすべての者は、わしに続けぇ。出撃いたす!」


小者から手綱を受け取った信長は、まったく負傷を感じさせず、軽やかに愛馬にまたがった。



「悪いね‥‥」


重治は共に戦い、苦労の末この砦にまで辿り着いた伊蔵達に謝罪した。

返り血を浴びて、全身赤黒くなった伊蔵をはじめ、長政、新平そして重秀さえも笑顔で首を横に振った。


馬上より信長の見つめるなか、重治もまた華麗に馬に飛び乗りまたがった。
もちろん、当然のように長政ら他の三人もそれに続く。


「信長様、それでは参りましょう」


「うむ。皆の者、出撃しゃあ!!」


信長は、そう叫ぶと愛馬を歩ませ始めた。


「うおぅー、うおぅー、うおぅー、うおぅー!!!」


蘭丸が、すべての出撃準備を済ませ戻った時には、信長たちの姿はすでにそこになかった。

慌てて馬に飛び乗って、出撃を開始した兵士達の間を縫うようにして追い越し、蘭丸は信長を追った。

信長を懸命に追いかける目に飛び込む兵士達の表情は、それまでの悲壮感など微塵も見せず、闘志漲りあふれ、とても、一度は敗戦を喫した兵士と感じさせなかった。


馬上の蘭丸は、こらえてもこらえても漏れ出す笑みに戸惑っていた。


『戦場に向かう人間が笑みを漏らすなど、そんなだらしない事でどうする』


そういくら自分に言い聞かせても、その微笑みは際限なく沸き起こってくる。

いくら自分に厳しい蘭丸をもってしても、一度は完全に死を覚悟したものが解放された喜びは、押さえ込むことなど出来はしなかったのである。
まして、生きて砦を出るときが、追撃としての出撃などとは、この砦にいるもの誰一人として想像し得なかった事なのである。



砦の外に出た信長の視界に入る敵軍は、すでに米粒ほどの大きさになっており、重治の率いた部隊の勝ち鬨だけが辺りを支配していた。


「お館様、さあ、追撃の命令をお出しください」


重治は、これまでほとんど、呼ぶ事のなかった呼び方をあえて選んでいた。


勝ち鬨を上げていた兵士達は、この戦に勝利をもたらした自分達の大将である重治が、砦から出てきた事に気づいて、重治達に注目を集め始めている。

もちろん砦の中からも、続々と追撃のための兵士達が出撃してくる。


信長は、重治の言葉に促され、辺りをぐるりと見回したあと、右手を高々と上げたのち、退却する敵軍を指差し叫んだ。


「皆の者、追撃じゃあ!!」


その力強い信長の叫び声は、その場にいる者たちのすべての耳に届いた。


信長の命令を受けて、重治の率いてきた兵士たち、砦から出撃した兵士たちは、一斉に敗走する本願寺軍にむかって進軍を開始した。


「では、お館様。我々も参りましょうか」


そう言って、信長に笑ってみせた重治は、先頭を切って馬を走らせだした。


「重治、その呼び方は止めよ。わしは、どうにも好きになれぬ。お前に、お館様などと呼ばれると背中がむず痒いわ」


信長は、笑って重治の背中にそう叫ぶと、重治の後を追って、馬を走らせ始めた。

久しぶりの信長の愉しげな声を聞いた重治は、馬を走らせながらも、後ろを振り向いた。


「信長様。この戦さの先駆け、勤めさせていただきます」


重治はにっこりと微笑んだ。


「し、し、重治。重治、重治‥‥」


信長が、必死になって重治の名を叫んだ。


「重治、重治、重治!!」


重治は、再び、信長のいる後方を振り向いた。
しかし、信長の姿が見えるはずだった後方には、白く輝く光が、もやのように広がり、全ての視界を消し去ろうとしていた。


重治は、突然の自分の周りに起きた変化に、馬の走る速さを一気に落とした。

後方から自分の周りを徐々に包みこむ光のもや、信長の悲痛な叫びだけが重治の耳に届いてくる。


「重治様、重治さまぁ!」


かなり後ろをついて来ていたはずの伊蔵の叫びが重治の耳に届いた。


「ごめんな、伊蔵‥‥。信長さま‥‥あっ!、これ、勝家様に返しとい‥‥」


重治は、周りをすべて囲まれる前に柴田勝家より借り受けた槍を足元に突き刺した。
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