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三十二話 長篠合戦
しおりを挟む何とかかんとか、伊蔵の手助けのかいもあって、重治は、岐阜へと帰り着いていた。
これからの伊賀の里について、主要な者たちを集め、入念な打ち合わせを即刻、開始しせねばならなかった。
伊蔵の人望もあり、すでにかなりの伊賀の忍びの者を味方につけているとはいえ、あくまでも伊賀の忍びの頭領は、服部半蔵である。
家康の配下である半蔵が、伊賀の頭領として命令を下したならば、今、味方についてくれている者でさえ、伊賀者として行動する可能性は消せはしなかった。
いかにして『半蔵と里を切り離す』か、それを焦点を絞りこみ、話し合いは進められていく。
重治達の長い、長い話し合いにも関わらず、名案は浮かんでこなかった。
結局、前代半蔵の力を借りながら、一人一人を説得していく、それ以外に手は見つけられず、また結論として、それが最良の策であるという結果となった。
そうして、この日からの長い道のり、伊賀の切り崩しが始まっていく。
凄惨な、長島一向一揆を体験する事となった、この年の終わり、織田家では、それ以外のさしたる大きな出来事もなく、戦国時代にしては稀なる、平穏な年の瀬、年越しを迎えることが出来ていた。
「重治様。勝家様が、年始のご挨拶に来られました」
「何、勝家様が!?」
末松の知らせに、重治は自室から玄関に向かって、猛ダッシュを開始した。
天正三年。この年には、織田家にとって、天下布武の地盤固めとなる大きな出来事が発生する。
そのうちの一つが、現在、一向宗門徒によって統治されている越前の国を再び織田家に取り戻すため、行動を起こすというものである。
そしてこの事は、織田家の家臣の中で、最も柴田勝家に関係していることでもあった。
勝家は、信長の命令を受け、越前鎮圧の軍を出す準備として、現在、情報収集のため多忙の毎日を送っている筈であった。
「勝家様ぁ。ようこそ、お越しくださいました」
すでに、玄関から客間へと通された勝家の元へ、重治は叫びながら駆け込んできた。
重治にとっての柴田勝家という人物は、この戦国の時代を生き抜く術を教えてくれた、兄であり、父親のような存在であった。
「相変わらず、騒がしい奴じゃのぉ‥‥。ほれ、土産じゃ」
勝家は、手土産の酒をさし出しながら、重治に優しい笑顔を向けた。
「勝家様、ご無沙汰、致しておりました」
重治は、勝家の前に座り、姿勢を正して改めて挨拶を述べた。
この日の勝家の突然の来訪に、重治が驚いたのには、少し訳があった。
年明けである一月は、織田家では、大評定会議と言う織田家家臣を始め、織田家に関係している者、全てが集まる、今でいう年始会に準じたものが行われていた。
そんな大評定を数日後に控えて、わざわざ自分に会いに来ると言う事は、よほどの理由がなければ有り得ないのではないかと、重治は感じ取っていた。
「……実は、‥‥重治。おりいって、そなたに‥‥どうしても、聞いておきたい事がある‥‥」
言い出しにくそうに勝家は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「‥‥実は、お前も聞いておるだろうが、わしは、お館様から越前攻略を命ぜらておる‥‥」
このあと、随分な時間をかけ勝家は、重治に自分のその思いを告げた。
その内容を要約すると次のような内容となる。
越前の攻略が終われば、自分は越前を治めるため北の庄(現在の福井市)に移り住む事まで決まっているという。
しかし、丹羽長秀から聞かされた、昨今あった安土での出来事の話しから、信長の身辺が気がかりであるらしく、越前へ行っていいものかどうかという相談であった。
「‥‥と思うのじゃ。‥‥重治。わしは、わしは、どうすれば良いのであろうか‥‥」
「確かに、勝家様の仰る通り、長秀様と池田恒興様、それに、前田利家様への信頼は間違いなく、裏切りなどあろう筈がありません」
「うむ‥‥」
勝家は、腕組みをしたまま、一つ頷き、重治の次の言葉を待った。
「‥‥いくつかの事実は、判明致しましたが、全てを繋げる確証を得るまでは、辿り着いておりません」
「…………」
勝家は、腕組みを組み替えたのち、目を瞑り、ずっと何かを考えているようであった。
そんな勝家の姿を見て、重治は、どこまでを勝家に伝えるか迷った。
勝家に、すべての事を伝えたとして、果たして勝家が冷静を保てるであろうか。
勝家の性格からして、怒りにまかせて、歴史の流れの根底を覆す恐れのある行動をとることさえも考えられた。
二人の間に、静かな時がながれた。
「‥‥重治。酒でも、飲むか‥‥」
「えっ‥‥」
どれぐらいの時間が流れていたのであろか。
何かが、吹っ切れたのであろう。笑顔で勝家が、そう重治を誘った。
「‥‥わしは、戦さ働きしか能のない男じゃ。その事は、自分自身が一番わかっておる。‥‥難しい事を考えるのは、重治、お主に任せる。……お館様のことは、頼んだぞ……」
重治にとって、これまでは当然の行動であった事が、勝家のこの一言で、とても、責任のある重要なものへと変わる。そんな気がする重治であった。
「‥‥お任せください。お館様の事は、どんな事をしてでもお守り致します」
重治は、自分の言葉を思いを 噛みしめるように一言、一言、自分自身に確認しながら勝家に告げた。
「重治様、丹羽長秀様がお越しになりました」
緊張しながらも優しい空気の流れる時を 突然、末松の声が元の時間に戻した。
「ふっ、長秀の奴‥‥。はははは‥‥」
勝家は、とても楽しそうだった。
大きくなりすぎた昔とは違う織田家の中で、今も変わらず、自分と同様に、信長の身を案じる者がいる。ただそれだけで嬉しかったのである。
「末。長秀様をここへ、お通ししてくれ。それと酒の支度を」
「はっ」
この日は夜遅くまで、尾張の国だけを治めていた頃の話しを肴に、重治は楽しい時を過ごした。
織田家の中の裏切り者のため、疑心暗鬼の日々を送っていた重治にとって、気心の知れた二人と過ごす時間は、それまでには無かった、心休まる日となったのであった。
その日から二日と経たずに、城から大評定の日時の知らせが、重治の元にも届けられていた。
天正三年。一月某日早朝、岐阜城には、一度では入りきれないほどの織田家に関わりある者達が、集まってきていた。
この日は、織田家大評定の催される、家臣達にとって大事な一日である。
織田家当主である信長の一年間の方針が、打ち出されるこの日は、各武将にとって方針如何によっては、出世の足掛かりに繋がっていく大切な一日であったのである。
他の者より、やや遅れて入城した重治は驚いた。
この日の大評定の為だけに用意された、見たことが無いほど大きく大きく、一つにつなぎ合わせらて用意されたその部屋は、人、人、人で、溢れかえっていたのである。
「重治様だ!重治様だ!」
重治の登場に、広い会場のどこかで、そんな声が響いた。
すると、それまで、雑多なざわめきでいっぱいであったその部屋の空気の色が、一瞬のうちに変わったのである。
「えっ??……」
重治は、その部屋にいる全ての者の視線を一身に集めたのである。
そんな予想だにもしない出来事に、重治の足は止まり、その注目された視線の気恥ずかしさから、その部屋から逃げ出すべく、一歩二歩と後ずさった。
「重治、こっちだ!」
重治の為だけに用意された会場の奥の奥、そのまた奥からの場所。その場所から重治を呼ぶ声が聞こえてくる。
遠くで、重治を手招きするのは、一昨日に屋敷を訪ねてきた柴田勝家である。
尻込みし逃げたそうかと思う葛藤に打ち勝ち、人の波をかき分け、勝家のいる場所へと、やっとの思いで重治は近づいた。
勝家の居る席、そこには、織田家重臣の蒼々たる面々が顔を揃え、勢ぞろいしていた。
「これは、皆様。遅くなりました」
重治は、恭しく、先に席に着いていた重臣の面々に頭を深く下げた。
重治が頭を下げた先には、数多くいる重臣の面々が、知らされた時間よりも早く登城をすませていた。
この日の評定は、例え重臣の面々と言えど、やはりいつものものとは違う、重要な特別なものであったのである。
「お館様の御成りで御座います」
会場隅々、全てに響き渡る声を発したのは、どうみても重治よりも年下の稚小姓、森蘭丸であった。
蘭丸は、父である森可成を幼き頃(浅井・朝倉との交戦中に討ち死にしている)になくし、その後信長が父親代わりとして面倒をみていた人物である。
蘭丸の言葉が、最後にたどり着くその前、信長は、評定場に悠然とその姿を現わした。
小姓の蘭丸は、信長の登場に、一歩、二歩と下がって、信長の通り道を作った。
そしてその時、蘭丸は、視線を重治に向けて、意味ありげな目配せをした後、軽く頭を下げた。
重治は、蘭丸のその意味ありげな微笑みに、得体の知れない嫌な予感を感じていた。
『何だったんだ、あの笑みは?!』
そんな重治の思いをよそに、評定は、特に問題も起こらずに進んでいった。
領地を預かり統治している、それぞれの武将が報告を行い、信長がそれに応える。
そんなこんなを一時間以上も繰り返していた。
延々と受け応えを繰り返す信長の表情が、段々と不機嫌になっていっているように感じていたのは、重治だけではなかったようだ。
突然、重治の脇を何者かの肘が、グイッと押し込んだ。
重治の隣に座るのは、丹羽長秀。長秀の行動から察して、どうやら長秀も信長の表情の変化に気づいているようである。
「重治。お前、何とかしろ‥‥」
「えっ!?」
「しっ!声が、でかい‥‥」
長秀は、顔を重治へと近づけて、小声で重治の耳元に話しかけてきた。
「‥‥今に、お館様。爆発するぞ。何とか出来るのは、お前、重治だけだ‥‥」
『だけだ』と、言われても、これだけは『はいそうですか』と、簡単に返事をするわけにはいかない。
重治は、とても困った。
長秀の言うのも最もな事で、信長の様子から見て、癇癪が爆発するのも後わずか、間違いなく訪れるのは確実であった。
どれだけ大きな領地を得ようとも、どれだけ沢山の家臣を持とうとも信長は信長である。
年を幾つ重ねようとも子供のような無邪気さが消えることはない。
感情の起伏の激しさも昔から何ら変わりは無かった。
重治が、声を出そうかどうしようかと迷っている時であった。
信長のそばに控えていたはずの小姓の蘭丸が、何事かに気づいて部屋の入り口へと移動していくのが視界に入った。
重治の居るこの場所からは、何が起こっているのか全く把握しきれない。
不自然な蘭丸の動きが気になった重治は、少しでも、その様子が見渡せる位置へと体をずらし傾けた。
あと少し、あと少しと、体をずらしては傾ける。
重治は、ようやっと見えそうな態勢を作り上げる事に成功‥‥は、した。
「重治!!」
突然、正面に鎮座いたします、我らが、お館様から直々に、お声を頂戴する事になってしまう。
「重治、この評定が、そんなに退屈か‥‥」
その信長から重治にかけられた声は、先ほどまでの厳しい表情からは、想像出来ない程、優しく愉しげである。
いつの間にか、あれほど厳しかった表情はどこかに消え、新しい玩具を与えられた子供のように、その目は輝いていた。
そして、重治の隣では、『よく、やった』そう言いたげな、長秀がニコニコと重治に目配せをしている。
重治は計らずも結果的に、信長の癇癪を爆発させるのを未然に防いだ結果となったのである。
「い、い、いや、そんなあ、つまらないなんて……」
重治のしどろもどろの応えに、信長は、ますます愉しげになっていった。
「重治が退屈だそうじゃ。各領地の統治の程は、書面で提出せよ。よいな」
この評定会場で、最も退屈をしていた人物、信長が重治の事をだしに使って、延々に続くかと思われた領地報告を簡単に打ち切ってしまった。
それから信長は、重治を手招きして、自分の元へと呼び寄せようとした。
「これから、わしの代わりに、重治に今年の織田家の方針を語ってもらう」
「ええっ~!?」
思わず、大きな誰にもはっきりと判る声を口走ってしまった重治は、慌てて両手で口を押さえた。
断るに断れない状況、渋々ながらも重治は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、手招きを続ける信長が、機嫌を損ね癇癪を起こす前に、信長の元へと進みはじめた。
これは重治が、蘭丸と仲良くなってから知り得た後日談ではある。
この時の信長は、一昨日、重治家にての勝家、長秀と楽しく過ごした一夜を聞き及び、自分が誘われなかった事に対して、かなり腹を立てていたそうであり、この出来事は、まず間違いなく、その事への報復と言えた。
そんな事とは、まったく知りもしない重治は、何故に、こんな事になってしまったのか、焦りに焦っていた。
そして、そんな重治の様子を信長は、仕返しとばかりに、成り行きを楽しんでいたのである。
やがて、腹をくくった重治は、一つ、一つ、言葉を選んで語り始めた。
「今、織田家を取り巻く状況は、決して安心していられるものではありません」
重治の最初からの厳しい言葉に、それまで好奇や冷やかしの思いから、ざわついていた諸将らは、一変して緊張感溢れる表情へと変わっていった。
「本願寺との決着。武田家の侵攻。それに越前の……」
『侵攻』重治のこの言葉を聞いた、蘭丸の表情が、驚きに変わった。
今、ついさっき、蘭丸が伝え聞いた報告内容を信長へ告げようとしたその時に、重治の口から最新の情報が語られてしまったのである。
先ほどの評定中の蘭丸の行動は、火急の伝令への対処であった。
重治の口から先にでた言葉だとしても、受けた報告を主に伝えるのが蘭丸の仕事である。
蘭丸は、苦虫をつぶしたような表情で、重治の演説中なのも気にしないで、信長に伝令からの報告を伝えた。
今の信長にとっては、火急に報告された武田軍の侵攻など、もはや意識するほどの事もない些細な出来事である。
信長は、伝令の内容云々よりも、重治をライバル視している蘭丸のあたふたとした様子を楽しげにずっと見ていたのである。
「お館様、聞いておられますか!?」
「あっ、あぁ、聞いておるぞ」
「緊急の事態ではありまぬか、お館様から一言述べてもらいませぬと……」
年が近いせいもあるのであろうか、信長に溺愛されている重治に、蘭丸としては、何時までも織田家の重大事。これからの舵取りの事を話させたくなく、伝令を口実にしてでも、重治と代わらせようと信長に意見したのである。
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