花鬘<ハナカズラ>

ひのと

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1章

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そうしてしばらく経ったある日の午後、私は何枚もの紙と羽ペンを前に、固まっていた。
どうやらメイドさんたちが文字を教えてくれるらしい。
言葉も覚えてないのに?なんて思ったけれど、たしかに文字を覚えるというのも重要なことである。
文字の方が案外覚えやすいかもしれないと淡い期待を抱きつつ、羽ペンを握って、インク壷にペン先をつけた。

まずはアリーが字と思われる記号をすらすらと書いて、にこりと微笑む。とんとんと文字を指先で叩き、リツ、とゆっくりと口にした。
どうやらこれが私の名前らしい。ほほう。
しかし、羽ペンって本当に羽なんだなぁ、こんなもので書けるんだなぁと感動しながら、いつもシャープペンで文字を書くときと同じように、インクをつけた羽ペンの先を紙に押し付ける。と、インクが一面に広がった。しかも何文字か書いただけですぐにインクが無くなる。

「……」
何て難しいのだ、羽ペン。
そもそも線を引くことさえも難しいではないか、と思わず小さく唸る。
紙に触れるか触れないかというくらいの力の入れ具合でいいようなのだが、私は筆圧が高いのである。何度も失敗して、やっと綺麗な線を書けるようになった。
自分の鞄の中のシャープペンやボールペンを使ってはどうか、という気持ちにもなったが、これからこちらの世界で過ごしていくのなら、この羽ペンにも慣れたほうがいいのかもしれない。
便利なものを知っていて、しかも持っているのに使えないというのは妙に悔しいものだな、なんて思いつつ、そっと羽ペンを走らせた。

「り、つ」
見よう見まねで私も文字らしきものを書いてみると、アリーはにこにこする。
他のメイドさんたちも褒めるような口調でにこにこし、私もにこにこしながら、今度は今までに習った単語やメイドさんたちの名前を教えてもらうことにした。
そして、知ったのである。

い、一応表音文字なのか……!ということに。

たとえば、「あ」の発音ならこの文字で、「い」の発音ならこの文字で、という文字規則が存在するらしい。
形だけを見ると、へんてこな装飾を施したアルファベットにも見える。
しかも、英語みたいに「A」を「あ」と発音したり「え」と発音したりするらしい。アリーとリアンは二人とも名前に「あ」と「り」が入るけれど、並べられた文字がちょっと違うのだ。
ここでもやっぱり躓くのか……なんて考えつつ、ううう、と低く唸り声を漏らす。異世界、難しすぎる。
しかも、たとえば「くも」が雲であったり蜘蛛であったりするように、もしくは「しろ」が白であったり城であったりするように、「はし」が箸であったり橋であったりするように、同じ発音で違う意味を持つという単語もあるようなのだ。

厳しすぎる異世界言語事情に、私はぎりぎりと歯噛みした。話せないのだから、せめてこの辺りはもうちょっと甘くしてくれてもいいだろう!
まあ、いきなり牢屋に放り込まれるとか獣に襲われるなんてこともなかったのだから、その辺りは恵まれているのだろうけど、普通こういう場合は王子様に見初められて何だかんだあって、最終的にはハッピーウエディング、めでたしめでたし!なんてことになるんじゃないのかと溜息を落とす。
私なんて言葉も分からず事情も分からず、塔の中に軟禁状態に置かれた挙句に変態にファーストキスを奪われたのである。
まったく、この世界の王子様はいったいどこで何をしているのだ!早く迎えに来ないか!と勝手なことを思いつつ、再びペンを走らせた。

そうして紙面一杯に文字が書かれたとき、シュヴェルツが綺麗なメイドさん2人を連れて部屋に入ってきた。
そのメイドさんは銀色のカートの上にお茶とお菓子を乗せている。
まさかまた一緒にお茶でもしようというのだろうか。私と、シュヴェルツが?
最近一緒に食事だのお茶だのをしようとしてくるシュヴェルツだが、いったいどうしてそんな楽しくないことをしようとするのだろう。
私のお世辞にも好意的とは言いがたい視線を受けながらシュヴェルツはこちらまで歩み寄って来て、私の書いた文字で埋め尽くされた紙を見て「下手な文字だな」と眉を顰めた。

「へ、へぱ?」
「下手だと言ったんだ。もう少し読めるような文字を書け」
「?」

おそらく馬鹿にされているのか貶されているのか、そんなところだろうが、シュヴェルツの意地悪っぷりにはまったく呆れてしまう。
こういうときはメイドさんたちのように、にこにこして褒めてくれればいいのだ。そちらの方が学ぶ意欲が上がるというものである。
そんなことを思った私の隣に腰掛けて―――ちょっと!了承くらい取らないか!―――シュヴェルツは並べられた単語を一つずつ口にしていく。
そして書いた単語を全部チェックしたとき、シュヴェルツは「おい」と私を見下ろした。

「アリー、リアン、シャナ、セフィラ、ミーナ。メイドの名前があって、何故私の名前がない」
「……?ありー、りあん、しゃな、せふぃら、みーな」
ぽんぽんと紡がれるメイドさんたちの名前に、人名探しか?と首を傾げ、まず自分の名前を指す。ここにリツもあるぞ。それから。
「ぜひー」
ここにゼフィーの名前もある。どうだ、すごいだろう。たくさん文字を覚えて―――とそこまで思ったところで、シュヴェルツは「何故ゼフィーの名前があって私の名前がないんだ」と冷ややかな声で言葉を紡いだ。

何を怒っているのだ。
シュヴェルツの不機嫌の理由が分からず、きょとんとすると、シュヴェルツは真っ青になったメイドさん達の方へと顔を向け「どういうことだ」と、今度はマイナス10度くらいの声で言葉を紡ぐ。
メイドさん達は「いえ、お、お教えいたしたのですが、その」と口ごもり、私はやっとぴんときた。

シュヴェルツの名前を書いてあげなかったから、拗ねているのか!

何だ、可愛いところもあるではないか。とにやにやすると、「何だその顔は」と頬を摘まれた。いたいいたい。
仕方ないからシュヴェルツの名前も書いてやろうと羽ペンを握り、とりあえず見本を書けとシュヴェルツに視線を送る。
ちなみに、メイドさんたちは私の名前の次にシュヴェルツの名前を教えてくれようとしたのだが、それはいらぬ、それは使わぬ、と断ったので見本も書かれていないのだ。だって、シュヴェルツの名前を書く機会より、パンとかお菓子とか、そういう単語を書く機会の方が多いだろう。
では何故ゼフィーの名前を書いたのかといえば、ただ単に「他に知っている単語は」と思い出したから、というだけである。

私の視線を受けて、シュヴェルツはさらさらと流れるような文字を書いた。そうしてから丁寧にゆっくりと「シュヴェルツ」と口にして、とんとんと指先でその文字を叩く。
私はふむふむとそれを見つめながら―――しかしアリーの字はいかにも文字らしい形だったが、シュヴェルツの文字はいかにもサインっぽくて書き写しにくい―――真似をして書いてみると、シュヴェルツは「こんな下手な文字が読めるか」と言い放ち、もう一度私にペンを握らせた。
仕方なくもう一度書くと、再び駄目だしのような言葉を告げられる。

このままでは私が芸能人並みのサインができるようになるまで練習させられそうだったので、私はぺいっとペンを放り出して、もう休憩!とソファの背凭れに背中を押し付けた。そもそもこの文字のレッスンを開始してからもう2時間は経過しているのだ。疲れた!
メイドさんが淹れてくれた紅茶のカップを手に取り、まだ教え足りなさそうなシュヴェルツの手にそれを押し込んだ。
いいからシュヴェルツもお茶を飲め。

「こーちゃ、どうぞ」

どうぞ、の単語は覚えたての単語である。
メイドさんの口から何度も聞いたことがある。物を渡されるときによく聞くので、おそらく使用法は間違っていないはずだ。
シュヴェルツも私の言葉にけちをつけることもなく、渡された紅茶に口をつけた。
よしよしと頷いて、用意された焼き菓子を頬張る私の隣で、シュヴェルツはカップに入ったお茶を飲みつつ下手な文字を眺めている。そんなものを見て楽しいのだろうか。

言葉が通じないからなのか二人の間に会話はなく、メイドさんたちは基本的にシュヴェルツの前では私と話してくれないので、部屋の中は妙に静かだった。
というか、シュヴェルツはいったい何のためにわざわざ私とお茶をしているのだ。もしかして友達がいないのか?
そんな失礼なことを思いつつ、静かな空気に耐えられず、もう一度羽ペンを取って紙の隅にかわいいねこを描いてみた。それから犬と、うさぎも。
ああ、早くシュヴェルツが出ていかないかなぁと、くまのイラストまで描き始めたとき、シュヴェルツは呟くように「何だこれは」と言葉を紡いだ。

「……なに?」
「何だ、これは」

何、は私が最もよく使う単語だ。これは何ですか?と問いたいのだな。
猫という意味の単語は、この前ゼフィーに教えてもらったのだ。ゼフィーは一見怖そうだが、案外いい人らしい。
一昨日なんて小さな花束とやたら綺麗な砂糖菓子まで持って来てくれたのだぞ、シュヴェルツも見習え!
そう思いつつ、私はえっへんと胸を張り、先日ゼフィーに教えてもらった単語を口にした。

「にゃんにゃん」
次は犬だ。
「わんわん」
にこにこしながらシュヴェルツにこれは猫でこれは犬で、と教えてやると、シュヴェルツは絶句していた。
え、そ、そんなに下手か?写実的ではないけれど、我ながらなかなか可愛いイラストではないか。これでも美術の成績は結構よかったんだぞ。
そう思った私に、シュヴェルツは何とも言い表しがたい表情を浮かべ「誰に習った」と尋ねてくる。
言葉の前にちらりと視線を向けられたメイドさんたちは、一斉に首を横に振った。違います!とでも言わんばかりだ。

「だれ?」
“だれ”の言葉の意味が分からずに首を傾げると、とんとん、と部屋がノックされた。
リアンが立ち上がり、ドアの傍へ歩み寄って声をかけ、相手を確認する。
どうやら不審人物ではないと判断されたらしい。ゆっくりとドアが開けられた。







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