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1章
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はてさてそれにしてもいったいどこへ向かっているのかは未だに全く分からなかったが、周りをこうして人に囲まれては、自分も流されて歩くほか無い。
私は早朝から起こされたせいで眠さを感じつつ、誰にも見えないヴェールの奥で、ふわあ、とあくびをした。ああ、眠い。
そうして部屋を出てから10分は歩いたかというとき、前を歩いていた人達はやっと一つの部屋の扉の前で立ち止まった。
10分という建物内を歩くにしては長い時間を過ごした私は、悲しいが、久しぶりの運動に少しばかり疲れていた。
部屋の中ではあまり運動できなかったし、しようとすると全力で止められるので仕方ないといえば仕方ないのだが、ああそれにしても、疲れた。
しかしこの疲れっぷりは本気でまずいな、これからは反対を押し切ってでも部屋の中で運動するべきかもしれない。
私はそんなことを思いながら、ゆっくりと開かれるドアを見つめていた。
そのドアが全部開かれて、ここまで連れて来てくれた人たちはささっと道を開ける。
私もそれに習って壁に寄ろうとすると、あなたは違います、とでも言わんばかりのメイドさんにそっと背中を押された。
え、何。どうすればいいのだ。入ればいいのか?
そう尋ねたいが、言葉も分からないし、皆私に向かって頭を下げてしまっているのでどうしようもない。
私はドアの前でぴったりと固まり、どうしよう、と部屋の中へ目を凝らした。
そこには3,4人ほどの男の人と、2人のメイドさんがいる。
私が動かないせいか、2人のメイドさんがわざわざ廊下まで出てきて、そっと私の手を取った。
それに促されて、ゆるゆると部屋の中に入ると、扉が閉められる。
え、何で閉めるの!と思ったが、それと同時にやけに煌びやかな衣装を身に纏った男の人がこちらに寄ってきて、手を差し出した。
きょとんとする。
どうしろと?という意味で彼を見やって、私はその人がとんでもない美形だということに気付いた。
何だこれ、人形か。そう思っても仕方のないほど整った顔は、やはり人形のように無表情で、ぴくりとも動かない。
私はその整った顔を失礼なくらいにじっと見つめてから、差し出された手に首を傾げて見せた。
その人は私の理解の悪さに焦れたように、今度は「手を」と低い美声で言葉を紡いだのだが、私にやはっぱり理解できない言葉だった。
何言ってるか分からない、という意味で首を傾げる。
そうしてから淡く微笑しているメイドさん2人にヘルプの視線を送ったが、彼女たちもやはり人形のように綺麗に微笑んだまま動こうとはせず、私は「ここは人形の国なんだろうか」なんて思った。
部屋の中にいる、軍服を着込んだ男の人2人はそれぞれ対照的な表情を浮かべていたものの、やっぱり動かなかったし、もう一人神父さんみたいな服を身に纏ったおじさんも動かない。
えー、ちょっと、どうすればいいの。
思いっきり顔を歪めたが、ヴェールがかけられているせいで誰にもその表情は分からないことだろう。
どうすればいいんだろうと悩みつつも、私はとりあえず「おて」をしてみた。ぽすんと、差し出された手に自分の手を重ねてみたのである。
すると彼は少しだけ、ほんの少しだけ安堵したように息を吐き、私の手を軽く握って、自分の方へと引き寄せた。
うおっと、なんて心の中だけで口にしながら、彼の隣に並ぶ。
何が起こるんだろうと心底疑問に思ったが、彼はまるでお姫様でも扱うような丁寧な動作で、そっと私をテラスの方向へと導いた。
今日のこの白いドレスといい、目の前の男の人といい、まるで王子様の結婚式のようだな、ワッハッハ。
私は軽い気持ちでそう思いながら、促されるままにテラスへと出て、そうして言葉を失った。
テラスから見下ろす先には、物凄い、それはもう物凄い人の群れがあったのである。
その人の群れは、隣の男の人と私が姿を見せた途端に、それまでも十分騒がしかったが、もっともっともっと騒がしくなった。
口々に何かを叫んでいるが、何を言っているのか分からない。
すごい熱気に、私は「もしかして処刑でもされるんだろうか」と気絶しそうになった。
しかし、よくよく辺りを見渡せば、むしろお祝いムードである。もしかしてさっきから聞こえてくる言葉は、何かを祝福する声なのだろうか。あ、っていうか、今朝からずっと風に乗って聞こえてきていた声は、これだったのかもしれない。
ああしかし、ここはちょっと高い。
私は高所恐怖症なのだ。足がかくかくしてしまう。早く部屋に戻りたい。
そう思いつつ、ちらりと横の男の人に視線を向けると、彼は「手を」とさっきと同じ言葉を口にした。意味は分からないが、あ、もしかして今のこの短い言葉で「手を繋ごうぜ!」という文になるのだろうか!
初めてこちらの世界の言葉を学んだ気がする!と私はこんなときだというのに、ちょっぴり感動した。
よし、じゃあ繋ごうではないか、ともう片手も差し出すと、怪訝な視線を向けられる。
違うのか!と私は恥ずかしくなった。
慌てて繋いでない方の手を引っ込めると、彼は空いたほうの手を群集に振って見せた。
わあっと、物凄い声が上がる。
何なんだろう、この人。もしかして今からコンサートでも行われるのだろうか。この人はスーパーアイドルなんだろうか。しかしマイクが無いからアカペラ歌手ということだろうか。
そんなことを考えつつ、隣の彼を見つめると、お前も振らないかと言うような視線を向けられる。
何で、と思いつつ、彼の動作を真似て小さく手を振ってみると、再び物凄い歓声が上がった。
え、ちょっと、私は音痴だから歌は無理だからね。コンサートは無理だからね。楽器も弾けないからね。
熱狂ぶりが恐ろしく、すぐに手を引っ込めた私に、けれど彼は更に手を振るようなことを促してくる。
ええ、だから、無理だって。歌えないし、楽器も無理だし。
そう思ったものの、彼の無言の圧力は怖い。私は渋々手を振って、それに上がる歓声にやけに緊張した。
そうして手を振って1分も経った頃、どこかでラッパの音が鳴った。
幾重にも重なるその音に、私は「やっぱり今からコンサートが行われるのか」と自分の考えが正しかったことに満足した。
観衆はラッパの音と共に静まり返っていくし、やっぱり今からアカペラのコンサートなのだ。
そう思いつつ静まっていく観衆を眺めていると、いつの間にか緊張感の溢れる静けさが満ちていた。
見渡す限り、人、人、人。という人の海の中、けれど声を発するものは誰一人としておらず、鳥のぴーひょろろろ、という平和な鳴き声だけが私の耳をくすぐる。
そんな静けさの中、後ろからゆっくりとした動作で神父さんらしきおじさんがテラスの端へと上がってくる。
私は「あ、この人が歌うのか」と思い、そっとテラスから下がろうとしたのだが、隣の男の人は動かないし、ついでに手も離してくれなかった。
え、ちょっと、私は歌えないってば。
焦りながらそう思ったが、隣の男の人はやっぱり無表情で目下の観衆を見下ろすだけで、私の手を離すことも私と一緒にテラスから下がることもしない。
えええ、どうすればいいの。
私の焦りとは相反するように、穏やかな、それでいて誇らしげな声が、神父様の喉から紡がれ始める。
どうやらそれは歌ではなく、何かの挨拶みたいな言葉のようで、私は「今ならまだ間に合う!下がらせて!」と繋いだ手をぐいと自分の方へと引き寄せようとした。
けれどそれはならぬというほど強い力で手を掴まれ、逃げることもできない。
私はヴェールの奥で、泣きそうになった。
そして妙に長く感じる口上が途切れる。
同時に隣の彼が短く一言を発した。
そうして神父様からもう一言。
今度はしばらく無言のときが続き、どうしたんだろうと首を傾げると、小さく手を引かれた。
な、何なのだ。いきなり手を引いてきた彼に、何をするんだと視線を向ければ、彼は視線で何かを促してくる。
私は超能力者ではないんだから、そんなことされても無理なのだ。言いたいことがあるなら、私の知っている言葉で何かを言え。
そう思った私の正面で、彼は小さな声で何かを口にした。
うん?何だって?
「イーア」
「いーあ?」
ぽつりと呟くと、そうだと頷かれる。
神父様はもう一度、さっきと同じ言葉を口にした。
それと同時に隣の彼が「さあ言え」と言わんばかりに顎をくっと上げるものだから、私は首を傾げながらも「いーあ」と言葉を口にしたのだ。
その声はどうやら目下の群集にまで届いたらしい。何て地獄耳なのだ。
私の返事と共に、静まり返っていた群集は再び物凄い歓声を上げた。えー!何でー!
何。何なのだ、これ。
私の知らないところで何かとんでもないことが進んでいる気がする。
混乱した私を落ち着けるように、落ち着いたよく通る声で、神父様が何かを口にする。
それと同時に隣の男の人はそっと私の手を引き、テラスの中央、もうちょっと身を乗り出せば落ちて死ぬんじゃないかと言うほど前に私を誘った。高所恐怖症の私には恐怖である。
あああ、どうしよう。怖い。足がかくかくする。
彼は私に向き直り、そっと私の顔にかかったヴェールを退けた。
う、何をする!と思わず目を瞑ってしまう。
ヴェール越しではなく見つめる先には、やっぱり人形のように整った顔があって、一瞬だけそれに見とれた。
彼のくすんだブロンドの髪は長く伸ばされていて、途中で結んであるものの、その長さは背中の中ほどまではあろうかという長さである。
男子たるもの短髪!と常日頃から思っているが、だがしかしこのくらいに美人だと髪が長くても許せてしまう。
瞳は深い青色をしていて、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
そういえば中学の頃、青い目から見た世界はやっぱり青いのだろうか、なんて思ったことがあったな、なんてどうでもいいことを思い出す。
男にしては白い肌に、薄らと色づく唇。すっと通った鼻筋も涼しげな切れ長の目も長い睫毛も、やっぱり作り物めいた美しさだ。
あまり上品ではない口調で、すっげえ美人、と私は思った。
それにしても、いったい何が起こっているのだろうか。
さっき歓声が上がって、その歓声の波がずっと後ろの方まで届くと、再び群集は静まり返ってしまった。
今度こそコンサート開始か、と思ったのだが。
大きな節くれだった手で、そっと顎を持ち上げられ、そして綺麗な顔が近付く。
ぽかんとしながらその静かな動作に目を奪われた私の唇に、花びらが触れたような、かすかな柔らかい感触がした。
え、と固まって、数秒。観衆がわあっと声を上げるその前に、私は「ぎやああああああああー!」と悲鳴のような奇声を上げ、しゅばっと後ずさった。
静まり返った広場。
人々はみんなぽっかりと口を開け、固まっているようだった。
テラスの隅でさっきまでにこやかに、そして誇らしげに微笑んでいた神父様は、笑顔のまま固まっている。上手く状況を理解していないようだ。
唇を合わせていた正面の男の人が、私の大声に呆然とこちらを見下ろすのを憤然と睨み付け、私は『この、ど変態!乙女の敵!』と自分だけしか分からない声を上げる。
ファーストキスを奪われた悲しみを、ぐっと握った拳に乗せた。
そうして、私は生まれて初めて、一切の遠慮もなく、さっき初めて会ったばかりの男の人の顎に―――だって彼はあまりにも身長が高くて頬まで拳を届ける自身がなかったのである。―――硬く握った拳を打ち込んだのだった。
エルヴェール国、次代の第一王位継承者、シュヴェルツ・フォン・エルヴェール。
彼とその妻の記念すべき祝いの日は、大勢の群集に見守られ、妻のアッパーで幕を閉じた。
私は早朝から起こされたせいで眠さを感じつつ、誰にも見えないヴェールの奥で、ふわあ、とあくびをした。ああ、眠い。
そうして部屋を出てから10分は歩いたかというとき、前を歩いていた人達はやっと一つの部屋の扉の前で立ち止まった。
10分という建物内を歩くにしては長い時間を過ごした私は、悲しいが、久しぶりの運動に少しばかり疲れていた。
部屋の中ではあまり運動できなかったし、しようとすると全力で止められるので仕方ないといえば仕方ないのだが、ああそれにしても、疲れた。
しかしこの疲れっぷりは本気でまずいな、これからは反対を押し切ってでも部屋の中で運動するべきかもしれない。
私はそんなことを思いながら、ゆっくりと開かれるドアを見つめていた。
そのドアが全部開かれて、ここまで連れて来てくれた人たちはささっと道を開ける。
私もそれに習って壁に寄ろうとすると、あなたは違います、とでも言わんばかりのメイドさんにそっと背中を押された。
え、何。どうすればいいのだ。入ればいいのか?
そう尋ねたいが、言葉も分からないし、皆私に向かって頭を下げてしまっているのでどうしようもない。
私はドアの前でぴったりと固まり、どうしよう、と部屋の中へ目を凝らした。
そこには3,4人ほどの男の人と、2人のメイドさんがいる。
私が動かないせいか、2人のメイドさんがわざわざ廊下まで出てきて、そっと私の手を取った。
それに促されて、ゆるゆると部屋の中に入ると、扉が閉められる。
え、何で閉めるの!と思ったが、それと同時にやけに煌びやかな衣装を身に纏った男の人がこちらに寄ってきて、手を差し出した。
きょとんとする。
どうしろと?という意味で彼を見やって、私はその人がとんでもない美形だということに気付いた。
何だこれ、人形か。そう思っても仕方のないほど整った顔は、やはり人形のように無表情で、ぴくりとも動かない。
私はその整った顔を失礼なくらいにじっと見つめてから、差し出された手に首を傾げて見せた。
その人は私の理解の悪さに焦れたように、今度は「手を」と低い美声で言葉を紡いだのだが、私にやはっぱり理解できない言葉だった。
何言ってるか分からない、という意味で首を傾げる。
そうしてから淡く微笑しているメイドさん2人にヘルプの視線を送ったが、彼女たちもやはり人形のように綺麗に微笑んだまま動こうとはせず、私は「ここは人形の国なんだろうか」なんて思った。
部屋の中にいる、軍服を着込んだ男の人2人はそれぞれ対照的な表情を浮かべていたものの、やっぱり動かなかったし、もう一人神父さんみたいな服を身に纏ったおじさんも動かない。
えー、ちょっと、どうすればいいの。
思いっきり顔を歪めたが、ヴェールがかけられているせいで誰にもその表情は分からないことだろう。
どうすればいいんだろうと悩みつつも、私はとりあえず「おて」をしてみた。ぽすんと、差し出された手に自分の手を重ねてみたのである。
すると彼は少しだけ、ほんの少しだけ安堵したように息を吐き、私の手を軽く握って、自分の方へと引き寄せた。
うおっと、なんて心の中だけで口にしながら、彼の隣に並ぶ。
何が起こるんだろうと心底疑問に思ったが、彼はまるでお姫様でも扱うような丁寧な動作で、そっと私をテラスの方向へと導いた。
今日のこの白いドレスといい、目の前の男の人といい、まるで王子様の結婚式のようだな、ワッハッハ。
私は軽い気持ちでそう思いながら、促されるままにテラスへと出て、そうして言葉を失った。
テラスから見下ろす先には、物凄い、それはもう物凄い人の群れがあったのである。
その人の群れは、隣の男の人と私が姿を見せた途端に、それまでも十分騒がしかったが、もっともっともっと騒がしくなった。
口々に何かを叫んでいるが、何を言っているのか分からない。
すごい熱気に、私は「もしかして処刑でもされるんだろうか」と気絶しそうになった。
しかし、よくよく辺りを見渡せば、むしろお祝いムードである。もしかしてさっきから聞こえてくる言葉は、何かを祝福する声なのだろうか。あ、っていうか、今朝からずっと風に乗って聞こえてきていた声は、これだったのかもしれない。
ああしかし、ここはちょっと高い。
私は高所恐怖症なのだ。足がかくかくしてしまう。早く部屋に戻りたい。
そう思いつつ、ちらりと横の男の人に視線を向けると、彼は「手を」とさっきと同じ言葉を口にした。意味は分からないが、あ、もしかして今のこの短い言葉で「手を繋ごうぜ!」という文になるのだろうか!
初めてこちらの世界の言葉を学んだ気がする!と私はこんなときだというのに、ちょっぴり感動した。
よし、じゃあ繋ごうではないか、ともう片手も差し出すと、怪訝な視線を向けられる。
違うのか!と私は恥ずかしくなった。
慌てて繋いでない方の手を引っ込めると、彼は空いたほうの手を群集に振って見せた。
わあっと、物凄い声が上がる。
何なんだろう、この人。もしかして今からコンサートでも行われるのだろうか。この人はスーパーアイドルなんだろうか。しかしマイクが無いからアカペラ歌手ということだろうか。
そんなことを考えつつ、隣の彼を見つめると、お前も振らないかと言うような視線を向けられる。
何で、と思いつつ、彼の動作を真似て小さく手を振ってみると、再び物凄い歓声が上がった。
え、ちょっと、私は音痴だから歌は無理だからね。コンサートは無理だからね。楽器も弾けないからね。
熱狂ぶりが恐ろしく、すぐに手を引っ込めた私に、けれど彼は更に手を振るようなことを促してくる。
ええ、だから、無理だって。歌えないし、楽器も無理だし。
そう思ったものの、彼の無言の圧力は怖い。私は渋々手を振って、それに上がる歓声にやけに緊張した。
そうして手を振って1分も経った頃、どこかでラッパの音が鳴った。
幾重にも重なるその音に、私は「やっぱり今からコンサートが行われるのか」と自分の考えが正しかったことに満足した。
観衆はラッパの音と共に静まり返っていくし、やっぱり今からアカペラのコンサートなのだ。
そう思いつつ静まっていく観衆を眺めていると、いつの間にか緊張感の溢れる静けさが満ちていた。
見渡す限り、人、人、人。という人の海の中、けれど声を発するものは誰一人としておらず、鳥のぴーひょろろろ、という平和な鳴き声だけが私の耳をくすぐる。
そんな静けさの中、後ろからゆっくりとした動作で神父さんらしきおじさんがテラスの端へと上がってくる。
私は「あ、この人が歌うのか」と思い、そっとテラスから下がろうとしたのだが、隣の男の人は動かないし、ついでに手も離してくれなかった。
え、ちょっと、私は歌えないってば。
焦りながらそう思ったが、隣の男の人はやっぱり無表情で目下の観衆を見下ろすだけで、私の手を離すことも私と一緒にテラスから下がることもしない。
えええ、どうすればいいの。
私の焦りとは相反するように、穏やかな、それでいて誇らしげな声が、神父様の喉から紡がれ始める。
どうやらそれは歌ではなく、何かの挨拶みたいな言葉のようで、私は「今ならまだ間に合う!下がらせて!」と繋いだ手をぐいと自分の方へと引き寄せようとした。
けれどそれはならぬというほど強い力で手を掴まれ、逃げることもできない。
私はヴェールの奥で、泣きそうになった。
そして妙に長く感じる口上が途切れる。
同時に隣の彼が短く一言を発した。
そうして神父様からもう一言。
今度はしばらく無言のときが続き、どうしたんだろうと首を傾げると、小さく手を引かれた。
な、何なのだ。いきなり手を引いてきた彼に、何をするんだと視線を向ければ、彼は視線で何かを促してくる。
私は超能力者ではないんだから、そんなことされても無理なのだ。言いたいことがあるなら、私の知っている言葉で何かを言え。
そう思った私の正面で、彼は小さな声で何かを口にした。
うん?何だって?
「イーア」
「いーあ?」
ぽつりと呟くと、そうだと頷かれる。
神父様はもう一度、さっきと同じ言葉を口にした。
それと同時に隣の彼が「さあ言え」と言わんばかりに顎をくっと上げるものだから、私は首を傾げながらも「いーあ」と言葉を口にしたのだ。
その声はどうやら目下の群集にまで届いたらしい。何て地獄耳なのだ。
私の返事と共に、静まり返っていた群集は再び物凄い歓声を上げた。えー!何でー!
何。何なのだ、これ。
私の知らないところで何かとんでもないことが進んでいる気がする。
混乱した私を落ち着けるように、落ち着いたよく通る声で、神父様が何かを口にする。
それと同時に隣の男の人はそっと私の手を引き、テラスの中央、もうちょっと身を乗り出せば落ちて死ぬんじゃないかと言うほど前に私を誘った。高所恐怖症の私には恐怖である。
あああ、どうしよう。怖い。足がかくかくする。
彼は私に向き直り、そっと私の顔にかかったヴェールを退けた。
う、何をする!と思わず目を瞑ってしまう。
ヴェール越しではなく見つめる先には、やっぱり人形のように整った顔があって、一瞬だけそれに見とれた。
彼のくすんだブロンドの髪は長く伸ばされていて、途中で結んであるものの、その長さは背中の中ほどまではあろうかという長さである。
男子たるもの短髪!と常日頃から思っているが、だがしかしこのくらいに美人だと髪が長くても許せてしまう。
瞳は深い青色をしていて、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
そういえば中学の頃、青い目から見た世界はやっぱり青いのだろうか、なんて思ったことがあったな、なんてどうでもいいことを思い出す。
男にしては白い肌に、薄らと色づく唇。すっと通った鼻筋も涼しげな切れ長の目も長い睫毛も、やっぱり作り物めいた美しさだ。
あまり上品ではない口調で、すっげえ美人、と私は思った。
それにしても、いったい何が起こっているのだろうか。
さっき歓声が上がって、その歓声の波がずっと後ろの方まで届くと、再び群集は静まり返ってしまった。
今度こそコンサート開始か、と思ったのだが。
大きな節くれだった手で、そっと顎を持ち上げられ、そして綺麗な顔が近付く。
ぽかんとしながらその静かな動作に目を奪われた私の唇に、花びらが触れたような、かすかな柔らかい感触がした。
え、と固まって、数秒。観衆がわあっと声を上げるその前に、私は「ぎやああああああああー!」と悲鳴のような奇声を上げ、しゅばっと後ずさった。
静まり返った広場。
人々はみんなぽっかりと口を開け、固まっているようだった。
テラスの隅でさっきまでにこやかに、そして誇らしげに微笑んでいた神父様は、笑顔のまま固まっている。上手く状況を理解していないようだ。
唇を合わせていた正面の男の人が、私の大声に呆然とこちらを見下ろすのを憤然と睨み付け、私は『この、ど変態!乙女の敵!』と自分だけしか分からない声を上げる。
ファーストキスを奪われた悲しみを、ぐっと握った拳に乗せた。
そうして、私は生まれて初めて、一切の遠慮もなく、さっき初めて会ったばかりの男の人の顎に―――だって彼はあまりにも身長が高くて頬まで拳を届ける自身がなかったのである。―――硬く握った拳を打ち込んだのだった。
エルヴェール国、次代の第一王位継承者、シュヴェルツ・フォン・エルヴェール。
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