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6.小夜曲 ーserenadeー
しおりを挟む音もなく沈んでいく。
冷たさも何も感じない。
暗闇に包まれるように落ちて、落ちて、落ちて。
融け消えていくはずの意識が――出し抜けに浮上する。
はっと目を開けて、眩しさに何度も瞬いた。
明るさに視界が慣れるに合わせて、意識もはっきりとしていく。
丸いシーリングライトの天井と、視界の端に映る無地のカーテンは、明らかに僕の部屋と違うことだけを教えて。
反対の方向へ首を傾げて、息を呑んだ。
寝ている僕の傍ら、椅子に座りパソコンに向かっている見知らぬ誰かを。
動いたせいでベッドが軋んだのだろう、ぱっと振り返った相手と視線が合う。
「――っ!」
反射的に壁へと背中を押し付けて身構える僕に向け、目の前の青年は困ったような苦笑を浮かべてみせた。
笑顔を崩さずしげしげと眺めてから、
「……よし! 元気そうだな」
安心したように破顔した表情は、かつての友の笑顔にも似て。
とは言え、すぐに警戒心を解けるはずも無い。
壁際で固まったまま、柔和な笑みを浮かべる彼の表情をじっと窺う。
「それにしても、驚いたなー」
続く言葉をただ黙って聞くだけ。
どうやら橋に向かう途中の堤防で釣りをしていたのが彼だったようだ。
すぐ近くを裸のまま通り過ぎていく僕を見て、随分驚いたに違いない。
ついには欄干から身を投げた光景を目撃してしまったのだから、見過せるはずも無く、慌てて川底から救い上げ、迷った挙句自分の家へと連れてきたのだと言う。
助けられた事については何も思わなかった。
話を聞きながら、自分は死ねなかったのだと、それだけを思った。
「今はまだ寝てろ。……な?」
諭すように言われ、改めてまだ全身が疲労している事に気付く。
そろそろと布団を被り直し、頭まで隠して目を閉じた。
温かな寝床は久しぶりで、泣きそうになる気持ちを必死で堪える。
瞬く間に眠気に襲われた意識は、またゆっくりと暗闇に沈んでいった。
再び目を覚ますと青年の姿はなく、サイドテーブルにコンビニ弁当とメモが置いてあるのに気付く。
窓の外からはごみ収集の機械音が聞こえてきて、丸一日寝ていた事が分かった。
部屋の主は大学が冬休みだからと、バイトをフルで入れてしまったようで、夜になるまで帰って来ないらしい。
誰もいない事にようやく安堵して、部屋の中を見回す。
ゲームやアニメの人形が並んだ机と、本棚には教科書に紛れて漫画本が乱雑に並び、ドア横のキッチンは片付けられていない食器や鍋が積まれている。
どうやら家事はそこまで得意ではないようだ。
いかにもな学生の一人暮らし、と言った様子に普段の暮らしぶりが窺えた。
ベッドに腰掛けたまま、これからどうするべきか考える。
今のうちに出て行った方が良いのだろうか。
だとしても、行くべきあてもない。
思い悩んだ末、溜息を吐いて顔を上げる。
ひとまず今やる事は――。
時計が夜の八時を回った頃、ようやく鍵の開く音と共に彼は帰ってきた。
疲れた様子を見せながらも、笑顔でコンビニのビニル袋を掲げて見せる。
「飯にしようぜ。好きなもん分からないから適当に……って、うぇっ!?」
ごそごそと弁当を取り出してふと、キッチンを見た横顔が驚きに固まり、思わず笑った。
使った状態で放ったらかしだった台所が綺麗に片付けられていたのだから、びっくりするのも無理はない。
帰りを待つ間、やる事も無かった僕は、出しゃばらない程度にキッチンの後片付けと部屋の掃除をやっていたのだった。
気が付けば整えられている部屋の様子に、驚きながらも嬉しそうに彼が笑う。
勝手なことをするなと怒られるのではないかと、内心不安に思っていたが、歓迎されたようで安堵した。
食事が終わった後には風呂を済ませ、二人並んでテレビを見る。
穏やかに流れる時間は、もし年の離れた兄がいたならこんな風なのだと思ってしまう程に。
楽しそうに画面を見る様子を横目でそっと盗み見る。
きっと優しい人なのだろう。
凍えるような冬の川から、僕を助け出したのだから。
それでも――甘えるだけの自分を許す事が出来ない。
心地よい温かさに飲まれながらも、一方で心の奥底では拒絶していた。
こんな平穏が自分に与えられるはずはないと。
無条件で受け入れられるなどあるはずがないと。
それならばいっそ、先に対価を支払ってしまえばいい。
意を決して彼に向き合うと、俯いたままスウェットの中へと手を差し入れる。
下着を引き下げながら、片手で取り出したものを咥え込もうとした刹那、
「ちょっ、ま、――!」
困惑するような叫び声と同時に頭を押し上げられて、敢え無く手を放す。
戸惑いに目を向ければ、赤くなった顔をぶんぶんと横に振ってから、
「いや、えっと、俺……その、彼女いるし、」
しどろもどろに口ごもりながら、仕切り直すようにわざとらしく咳払いをする仕草に。
やんわりと断られた挙句、フォローされているのだと気付いた瞬間、恥ずかしさが一気に込み上げてきて跳ね上がる。
「っ、ごめんなさい……!」
そのままの勢いで土下座する。
明らかにやり方を間違えてしまったのだ。
ごめんなさいを繰り返す僕に、相手のとりなす声など聞こえてはいない。
自分に出来ることはそれしか無かった。
それが違ったのなら一体どうしたらいい。
ただ狼狽え、頭を床に擦り付けるだけ。
「大丈夫だから!」
耳元に響いた強い声にやっと顔を上げれば、泣きそうに歪んだ表情がそこにはあった。
ゆっくりと伸びてくる腕に、反射的にびくっと肩が震える。
身構える僕の髪に触れた手はとても優しくて。
そのまま抱き締められた力の強さに身を任せるまま、応えるように彼の背中に手を回し、肩口へと顔を埋めた。
もう一度聞こえた「大丈夫」の言葉に、今までずっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。
張り裂けんばかり溢れ出した激情に飲み込まれて、何も考えられなくなる。
――この日、僕は赤子のように声を上げ、ひたすらに泣きじゃくったのだった。
ひとしきり泣き疲れて、ぼうっとする。
急激な眠気に瞼が重くなり、目の前が霞みだす。
微睡みに沈む中で記憶に蘇るのは、先の父との息苦しい生活。
果たして、こんなにも穏やかな休息が訪れる日が来ると思えただろうか。
背中に触れる体温を感じながら、その夜は今までになく深い眠りについた。
翌朝、まだ気まずさの残る僕に、彼はいつもと同じ態度で接してくれてほっとする。
改めての自己紹介の後、敦史と名乗った彼にあつ兄と呼んでも良いかと聞けば、照れ臭そうに頭を捻ってから屈託なく笑って。
こうして始まった生活は、冬休みが終わるまで何事も無く過ぎて行った。
バイトに向かうあつ兄を見送り、遅くに帰ってくるのを出迎える。
部屋の片付けや食事の準備の合間に見るテレビやネットの情報は、いつだかの放課後、理科室で友が語った話の中に聞き覚えがあった。
流行りのゲームや音楽、大衆文化の面白さ、尽きぬ世界の広さを。
そして初めてまともに触れた世間は、どれだけ僕が歪だったかを今更に炙り出すのだ。
そんな僕を何も聞かず受け入れ、実の兄のように、時には父親のように、ただの子供として扱ってくれる事には感謝しかない。
あの日、賑やかな食卓で見た家族の団らんを思い出す。
どれだけ望んでも手に入らなかった温かな絆を、やっと手にする事が出来たような気がした。
いつものように布団をベランダに干してから、脱ぎ捨ててある寝間着用のトレーナーを拾い上げる。
畳もうとして、ふわっと鼻についた匂いに手を止めた。
「……っ」
気が付けば無意識に握り締めていた。
顔を埋めたままソファに座り込み、まだ残る体臭にとっくに消えた体温を思い出す。
よく笑う顔を、少し癖毛の短髪を、父とは対照的な薄い胸板を。
「あつ兄……」
ずん、と痺れるような重たい感覚が下から沸き上がる。
じわじわと身体の奥から這い上がる痺れは、やがて意識までを侵食していくように。
自然と伸びた片手が、下穿きの中で窮屈そうに形を変える自分自身を握り込む。
「っは、……ん、」
あとはもう無我夢中だった。
耳に聞こえるのは、ぐちゃぐちゃと湿った水音と、自分の押し殺した吐息だけ。
手の中に白濁を吐き出してからようやく、熱が引いて目が覚める。
汚れた掌を呆然と眺めて、戸惑いながらも納得した。
この行為の意味するものを。
「そっか……」
――好きなのだと。
遅れて自覚した感情を、ぽつりと呟いた。
同時に浮かぶ疑念。
果たしてこれが本当に恋情なのだろうか。
与えられた優しさに、無条件の憐憫に、例えば刷り込みの親に雛鳥が懐くように、ただ絆されただけではないのか。
たとえ勘違いの感情だとしても、それでも良かった。
自分はちゃんと人を好きになれるのだと。
初めて抱いた未熟な熱情を、僕はそっと胸の奥へと受け入れたのだった。
顔を合わすのが恥ずかしくて、バイトからあつ兄が帰って来てすぐにお風呂へと逃げる。
湯船に浸かる僕の耳には、彼女と楽しそうに電話する声が聞こえてきていた。
付き合いが長いようで、遠慮のない会話内容から仲の良さが窺える。
前に見せてくれた写真からも、似合いの恋人同士という言葉以外浮かばなかった。
どう足掻いても端から僕の入る余地など無いのだ。
それなのに――好きになってしまうとは、おこがましいにも程がある。
ぶくぶくと泡を吐きながら湯船の底に頭ごと沈む。
すぐに弾け飛んで消える泡は、気付いた瞬間に終わっていたこの恋と同じで。
初恋と失恋を一度に覚えた自分を嗤う。
軽やかな笑い声をBGMに、決意を秘めて目を閉じた。
このまま家族ごっこを続ける事も出来ないのなら――もう、ここにはいられないと。
寝静まった深夜、鍵を新聞受けに落として家を出る。
今までの感謝を綴った置手紙一枚を残して。
アパートの階段を下りて道路まで出てみれば、街灯に照らされたガードレールの向こうにたくさんの街明かりが広がっていた。
その更に向こう、海から吹き上げる風が勢いよく通り過ぎていく。
冷たさに目が沁みて瞼を細めれば、あの日身を投げた橋の輪郭が遠くうっすらと浮かんで見えた。
思い出を焼き付けるように、一度アパートを振り返る。
脳裏に浮かぶ面影を、叶わなかった想いと共に記憶の底に沈め、再び前を向いた。
「……ありがとう」
貴方のくれた優しさのおかげで、僕はまた歩き出せる。
傷付いていた身体も心も、どんなに慰められたことか。
だからこそ、分かってしまった。
本当に助けて欲しかったのは、まだ幼かった時の自分だったのだと。
母に見捨てられ、父の暴力に震え、客の被虐に泣いていた僕を、その時にこそ助けが必要だったのに。
これから先、どんなに優しくされようと、愛されようと、あの時の自分は永遠に救われないままなのだ。
助けて欲しかった。寂しかった。痛かった。怖かった。愛されたかった。
それがもう叶わないと知る。
「っ、あぁ……」
止め処なく涙が溢れ出す。
ただひたすらに悲しかった。
消えない傷と虚しさを抱えてもなお、生きていくのだと。
ならばせめて、どうかこの先の僕が泣くのも、笑うのも、全部自分の責任であるように。
祈りと願いを込めて天を仰げば、広がるのはいまだ真っ暗な夜空だけ。
それでも、必ず夜明けは来るのだと――今ならそう確かに思えた。
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