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5.譚詩曲 ーballadeー
しおりを挟む海岸線を右手に、ひたすらに自転車をこぎ続けた。
途中、何かを踏んでしまったのかパンクしてからは、乗り捨てて自分の足で歩き続けた。
夜通し歩き通して、海辺の公園でようやく足を止める。
人目を避けるように植え込みの中に座り込んだ。
コートのフードを目深に被る。
玄関にあった父の物をそのまま着てしまったが、中がパジャマだけだから寒くて仕方がない。
吐き出した白い息の行方を目で追いながら、ゆっくりと気持ちを落ち着かせる。
火は隣家に及ぶ前に無事消されたのだろうか。
それよりも、父はあのままどうなったのだろうか。
もしかしなくても、自分は――人殺しなのではないか。
ぶるっと身震いする。
誰かの助けを待つだけだったはずの立場が、一転断罪される立場となっている事に気付く。
もしニュースにでもなっていたら、捕まってしまうかもしれない。
怖かった。ただ怖かった。
その場から動けず、日中はずっと隠れて過ごした。
水飲み場のおかげで喉の渇きは潤せるが、空腹だけは誤魔化せずに。
寒さと、ひもじさと、何も出来ない自分の惨めさと。
あんなにも逃げ出したかったあの日常でさえも、まだマシだったのでは無いかと思えるほど。
後悔すらも感じながら、ただ寒さに震えて蹲るだけだったそんな時――。
「おい、坊主。……家出か?」
突然に声を掛けられて思わず跳ねるように後退る。
顔を上げれば、サイズの合わないダウンを着た年配の男の人が僕を覗き込んでいた。
手にしているカップ酒を一口飲むと、ついて来いとばかり手招きをしてみせる。
薄汚れた風体からして、いわゆるホームレスなのだろう。
警察や補導員みたいな感じではないと分かり、緊張しつつも後について行けば、公園から少し離れた港の外れまで連れて来られる。
目の前に広がる草むらの向こう、大きな橋脚の下にブルーシートと廃材やトタンで出来た小屋とも呼べない代物がいくつか見えた。
「……腹、減ってるだろ」
正直、大人を信用するのは怖かった。
けれど、耐え難い空腹を満たせるのならば今はどうだっていい。
それほどまでに追い詰められていたのだ。
迷いを捨てて、飢えた犬のように男の後に続く。
「そこで座って待ってな」
指差された手前には、焚火台代わりの一斗缶から暖かな炎が上がっていた。
かじかんだ掌を広げて待っていると、湯気を立ち昇らせたカップ麺の容器を手渡される。
遠慮するなとばかり割り箸をぐいと押し付け、にやりと口端を上げて笑う男に、頭を下げてから僕は熱いのも気にせず貪るように食べ始めた。
後にも先にもこの時ほど美味しいと感じた食べ物を僕は知らない。
訳ありなことは分かり切っていたから、何も言わない僕に彼も何も聞いてはこなかった。
代わりに自分の身の上話を酔った勢いで聞かせてくれた。
かつては結婚をして一人娘がいたこと、職を失ってからはずっとこの生活なのだということ、笑いながら語る悲喜こもごもをただ静かに聞くだけ。
日雇い仕事で留守の間は、人のいない時を狙って海岸沿いをあてもなく歩いた。
ただ無為に過ぎていく日々、これが果たして自由なのだろうか。
ずっと世話になっているだけなのも心苦しかった。
冬の寒さは厳しさを増し、季節の流れを嫌でも感じさせる。
年が明けたのを知ったのは、炎の前で二人並んで暖を取っている時だった。
対岸の向こうに突然上がる花火の光と、遅れて届く太鼓のような音。
カウントダウンのイベントでもやっているのだろうか。
夜空を彩る大輪を眺めながら、新年の訪れを知る。
「……明けたなぁ」
何の感慨も無く呟く声に、そうですねと返す。
しばらくの沈黙の後、やけにばつが悪そうな表情を向けた彼は、言い淀むようにがしがしと頭を掻きむしってから、片手を伸ばすと僕の手の上へと重ねてきた。
「坊主、行くあてが無いんなら、ずっとここにいていい。……その代わり、」
言いながら、指を絡めるように手を握る。
その感覚には覚えがあった。
「――っ」
そろそろと引き寄せられた手が、男の股間へと導かれる。
服の上からでも分かるほどに形を変えたそれを。
面倒を見てやる代わりに自分を求められているのだと、一瞬で理解する。
眩暈を覚えた。
すぐにでも振り払って立ち去ってしまえばいい。
拒絶したとしても、おそらく彼は追い縋って来ないだろう。
それなのに――動けなかった。
手を放そうとしないのを肯定と受け取ったのか、呆然としたままの僕へ男が顔を近付ける。
「んっ、……ふ、」
ざらついた唇が触れ、強引に舌が割って入る。
口周りにチクチクと刺さる無精髭と。
息をする間もなく口を塞がれ、苦しさに仰け反った身体を床の上へと押し付けられた。
尚も唇を貪りながら、手だけが下穿きを擦り下ろす。
外気に触れて一気に冷える肌の上、這い回る男の掌は熱い。
息を荒げて見下ろす興奮した顔付きは、幾度となく相手をしてきた客達のそれと同じで。
ああ、またか。
父から逃げてもまた、同じことをしている自分を内心で嘲笑う。
結局、僕にはこれしかないのだ。
「ぅ、ああっ……」
されるがまま抱えられた両脚の間に男の身体が押し入る。
慣らしていないままに穿たれ、痛みに呻いた。
それもすぐに喘ぎに変わる。
相手の首に手を回し、ねだるように腰を押し付けて求めた。
これは対価だ。
父の命令ではなく、自分から望んでの事なのだと、そう納得させながら。
翌朝、いつも以上に男は優しかった。
甲斐甲斐しく朝食を用意すると、とっておきのカイロを僕に手渡し、額にキスをしてから仕事へと出ていく。
遠ざかる後姿に手を振って見送りつつ、これで良かったのだと思う。
ただ世話になるだけだった時に比べれば罪悪感は薄れていた。
その代わりに、何か取り返しのつかない事をしてしまったような背徳感を感じていた。
何をする気も起きず、小屋の中で拾って来た雑誌をただ読んで過ごす。
男が帰って来たのは夕焼けが辺りを染め始める頃だった。
「お帰りなさ、……っ」
気配に気付いて顔を上げ、息を呑む。
いつものように酒を片手に帰ってきたその後ろに続く数人の影を。
戸惑い見上げるだけの僕を家主の背後から肩越しに覗き込んでくる男達は、誰もが彼と同じような風体をしていた。
じろじろと舐め回すような視線の意図に気付かない程に鈍くはない。
「悪いな、坊主。……つい自慢しちまった」
決まりが悪そうに頭を掻いて苦笑しつつも、悪びれる色など浮かんではいない表情を呆然と見つめる。
さぁっと血の気が引いていくのがありありと分かった。
上着を脱ぎ捨てた男達が中へと入ってくる。
「なぁ、俺達とも仲良くしてくれよ」
野卑な笑い声が響く中、肩を掴まれ押し倒される。
浅黒い手がパジャマを引き千切っていくのを視界の端にとらえながら、僕は長い夜の始まりを絶望的な気分で感じていた。
およそ女の人と縁が無かったであろう彼等は、さながら飢えた獣のように。
久しぶりの獲物に興奮して求める勢いに手加減は無かった。
前も後ろも代わる代わる乱暴に突っ込まれ、犯され、意識が飛びそうになれば叩かれて目を覚まさせられる。
おそらくろくに風呂にも入っていない男達との行為は、精神的にもきつかった。
垢で汚れたものを咥えさせ、汗臭い身体を密着させては容赦なく中へと吐き出していく。
まるで自分が内側から汚され腐っていくようだった。
始めは数人だけだったはずが、気付けばブルーシート越しに順番を待つ影は列を成して。
途中、耐え切れずに外へと飛び出して、敢え無く引き戻される刹那、火の傍で座って眺める男の表情に愕然とした。
それは――客から金を貰い、リビングから僕が抱かれる様を眺める父の姿と全く同じだったのだ。
飽きもせず夜通し続いた狂宴は空が白んでようやく終わりを告げ、満足そうな顔をした男達が上機嫌にぞろぞろと各々の場所へと帰っていく。
打ち捨てられたゴミのように、白濁に塗れたまま横たわるだけの僕を残して。
仲間と朝食にでも行ったのか、男の姿も消えていた。
何も考えられずにただ錆びたトタン屋根を見上げるだけ。
身体中が軋むように痛い。手足の感覚も無い。
「っ、ふ、ははっ……」
繰り返される滑稽な喜劇に、気付けば声を上げて笑っていた。
ひとしきり笑ったところで、深く息を吸い込む。
本当に、馬鹿馬鹿しい事この上ない。
何もかもが――。
「…………もう、いいかなぁ」
呟いてまた笑った。
投げ出していた身体を無理矢理に起こして、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。
冷え切った肌は寒さも感じずに。
裸のまま草むらを突っ切り、対岸に掛かる橋へと足を進めた。
通り掛けの堤防の上、一糸纏わぬ僕の姿を見た釣り人がぎょっとする様につい頬を緩めて。
朝の早いこの時間に人も車も少なく、誰に見咎められることもなく橋の真ん中へと辿り着く。
手をかけてよじ登ると、欄干の上に立ち尽くした。
両手を広げて明けていく空を仰げば、朝焼けに薄れていく月の姿が。
同じように僕も消えてしまえば良い。
静かに目を閉じて息を吐く。
頭をゆっくりと落とせば、従うように身体もふわりと宙に浮くのを感じた。
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