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4.諧謔曲 ーscherzoー

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翌朝は熱も引いていて、普通に登校することが出来た。
それでもやけに頭が重いのは、昔の悪夢を思い出してしまったせいかもしれない。
普段よりぼうっとしながら一日を過ごす。
僕に何があろうと無かろうと、クラスの中は今日も変わらず同じだった。

「樋口、ちょっと来なさい」
休憩時間に担任に呼ばれて廊下へと出る。
次の言葉を待つ僕の腰を軽く叩き、
「……血が出ているから、保健室で絆創膏を貼って貰いなさい」
僕の太腿を指差すと、それだけを告げて教室へと入っていく。
首をひねって足の裏側を見てみれば、開いた傷口から薄く赤い血が滲んでいた。
ベルトで叩かれた傷が思いの外深かったようだ。
言われた通りに保健室へと向かいながら、細く溜息を吐く。
父や客から受けた暴力の痕や傷が隠し切れないことは今までにも何度もあった。
ハーフパンツの制服のせいで余計に目立つのだ。
ただの怪我だと誤魔化せばクラスメイトは疑いもしなかったが、先生ならば気付いてくれるかもしれない。
助けを訴えたかった反面、みっともない自分を知られるのも怖かった僕は誰にも言えずに、ただ手を差し伸べられるのを待つだけだった。
ようやく声を掛けられたのは、いつものように飲んで暴れた父に顔面を殴られ、痣を作って登校した時だ。
さすがに気付いた担任は手当てこそしてくれたが、気遣う言葉の後に続いた台詞が僕に何も言えなくしたのを覚えている。
怪我の理由を喧嘩だとはなから決めつけた上、多少の怪我は男の勲章だの、自分も昔は近所のガキ大将と喧嘩してボコボコにされただの、子供ならば多少の怪我など当たり前とばかり。
それは僕の怪我が大したことではない、問題にするほどのことではないと、大事にまでして自分が責任を持ちたくはないのだと、そう暗に示していた。
そのくせ見過ごすまでは出来ない後ろめたさから理科室の鍵を開け、今日も絆創膏一枚程度の優しさで気遣う振りをする担任の卑怯さを。
重かった頭がくらくらとさらに重さを増す。
早く放課後になればいい。
屈託のない明るく勝ち気な笑顔を思い出す。
彼の明るさが僕を唯一暖めてくれるのだ。

けれど、待ち望んだ放課後の理科室に先客はいなかった。
今日は何か用事でもあったのだろうか。
自分でも思う以上に気落ちしながら望遠鏡をセットしていると、不意に背後から扉の開く音がして勢いよく振り返る。
「貴之、遅か――、えっ……と」
そこには同じクラスの女子が一人立っていた。
知っているのは名前くらいで、ろくに話したこともないはずだ。
俯いた顔は前髪に隠れてよく見えず、反応に困って立ち尽くす。
「あの……、これ、樋口くんに!」
ぱたぱたと足早に近付いたかと思うと、手が届くぎりぎりのところで封筒を渡される。
僕が受け取るやいなや、そのまま踵を返して彼女は廊下へと逃げるように走り出て行ったのだった。
あまりの唐突な出来事に、しばらくぽかんと呆けたまま。
ふっと我に返って、手の中の封筒をゆっくりと開く。
手紙の内容は、さっきの女子から僕への告白だった。
卒業間近のこの時期に、想いだけでも伝えたかったのだと書いてある。
彼女をよく知らない僕からすれば、何も思うことは無かったし、どうするつもりもない。
同じく彼女も僕をよく知らないはずなのに、一体どこに惹かれたのだろうか。
それよりも彼が来なかったことの方を残念に思いながら、手紙を鞄へと仕舞い込む。
この時点で僕の中では終わっていたはずのこの一件は、後日予想外の展開へと繋がることとなったのだった。

年の瀬が近付き世間が忙しなくなる。
校内の雰囲気も、近付く冬休みにどこか浮足立っているようにも感じられた。
僕にとっては学校と言う逃げ場がなくなるのだから、憂鬱さが増す以外の何ものでもなかったけれども。
そんなある日――寒さに手をかじかませ、当番である校舎裏の外廊下を箒で掃除していた時だった。
視界の端に人影を認めて顔を向けると、クラスの男子三人が向こうから近付いてくるのが見えた。
真っ直ぐにこちらへと歩いてくる様子からして、どうやら僕に何か用があるらしい。
気付かない振りでこの場から離れるにはもう距離も無く、諦め気分で箒を動かすだけ。
「なぁ、樋口! ……ちょっと話があるんだけど」
乱暴な口調で声を掛けられ仕方なく振り返れば、しかめ面で無遠慮に僕を睨み付ける坊主頭がそこにいた。
髪型からして少年野球でもしているのか、年の割には大きな身体を自分でも分かっているからこその強気な態度で向かってくる。
そしてどうやら彼を見守るように背後に立つ二人は、単なる付き添いらしい。
「お前さぁ、……告白、されただろ」
言い難そうに続いた言葉の意味が分からずに一瞬戸惑うも、いつだかの放課後の記憶を思い出して、あぁと声を漏らす。
けれど、とっくに忘れていた告白を思い返したところで、目の前の相手と結び付かず怪訝な顔をしていたのだろう。
「……なんでお前なんだよ……」
不服そうに口ごもりながら愚痴をこぼすように呟く姿に。
なるほど、と合点する。
きっと彼はあの女子生徒が好きだったのだと。
自分が選ばれなかった事を、告白の相手が僕だった事を、そしておそらく返事すらしないで捨ておいた事を、何もかもが気に入らなかったのだと理解する。
そして同時に思い知らされた。
恋に恋するような幼い恋愛ごっこを、それよりもまだ淡い未熟な感情を、純粋さを。
そんな子供っぽい恋すら覚える前に、僕は剥き出しの醜い大人の欲望をぶつけられたのだ。
どうしようもなく自分が汚いものに思えて、胸の内に不快感が湧きおこる。
込み上げる吐き気をなんとか飲み込み、ただ一言。
「……ごめん」
かろうじて返すと、逃げるようにその場から駆け出した。
反発するどころか謝る僕の言葉に拍子抜けした彼と、困ったように顔を見合わす二人を背後に残して。
相変わらず周りの世界は綺麗なままで、――ただ僕だけが唯一の汚濁だった。

終業式の日を迎え、ついに冬休みが始まる。
さすがの今日は居残る事も出来ず、いつもより早い下校時間で帰るしか無かった。
憂鬱な気分で教室を出た僕を、聞き慣れた声が呼び止める。
振り向けば、ランドセルを肩に引っ掛けて廊下を走ってくる貴之が見えた。
「このあと、うちに遊びに来いよ!」
息を切らせながら肩を並べると、決定事項とばかりに目を合わせて笑う。
いつも通りの強引さに今日ばかりは甘えて、分かったと頷いた僕に彼はまた笑った。

見慣れない景色を新鮮に感じながら道を歩く。
住宅地の中にある僕の家とは違い、彼の家は商業地の中にあるらしい。
静かな裏道とは真反対の、賑やかなメイン通り沿いを人と擦れ違いながら進んだ。
これが彼の毎日見ている風景なのだと想像しながら。
「俺の家、ここな!」
急に肩をつつかれてハッとする。
ただいま、と声を出しながらドアを開けた貴之が、玄関先で立ち尽くす僕に入るよう促して。
よくある一軒家だが、土間の上には何台もの自転車と三輪車に加え、砂遊びの道具だろうか、いろんなおもちゃが積み上げてあった。
「えっと……おじゃまします……」
初めての訪問に緊張しながら中に入った瞬間、
「お兄ちゃん、お帰りー!」
「あー、誰かいるー!」
「お友達だー!」
バタバタと騒がしい足音と共に甲高い声が響き渡り、思わず怯む。
靴を脱いで上がる貴之の周りをまるで子犬のようにじゃれつく妹三人と。
足に纏わりつきながら、ちらとこちらを見る視線に愛想笑いを浮かべれば、恥ずかしいのかきゃーきゃー笑いながら飛ぶように階段を上って逃げて行った。
「……な、うるさいだろ?」
彼女達の勢いに圧倒される僕に向け、貴之がまんざらでもない表情でにやりとする。
なるほどこれは確かに、と苦笑するしかない。
「貴之、お帰りなさい」
静かになったところで、リビングからまだ小さな赤ん坊を抱いた母親が顔を出す。
どうやら四人目の妹のようだ。
あやしながら、いらっしゃいとの歓迎に会釈して返す。
そのまま貴之の部屋でゲームをしたりして過ごしていたが、入れ替わり立ち替わりで妹達が乱入してきたのは言うまでもなかった。

得てして楽しい時間ほどあっと言う間に過ぎていくのは何故なのだろう。
敢えて時計を見ないようにしていたが、暗くなった窓の外に嫌でも遅くなった時を知る。
そろそろ帰った方が良いのだろうか。
迷いながらも帰りたくない気持ちが顔に出ていたのだろう。
「せっかくだから、夕飯食べて行けよ」
思いも寄らない提案に、またも僕は甘えたのだった。

残業で遅くなると言う父親の席だけが空いて、家族が食卓に集う。
大きなテーブルに七人が座る光景はさすがに圧巻だった。
目の前に並べられたいくつもの料理は、久しぶりに見る誰かの手料理で。
給食とはまた違い、家族の健康と好みを考えながら作られたであろう食事はそれだけで十分に素晴らしい。
つたない動きで一生懸命食べる姿や、話す方に夢中で手が止まっている姿を、つい食べるのも忘れて眺める。
家族団らんと言うのは、きっとこんなものを言うのだろう。
温かなスープの湯気が顔にあたり、じんわりと目尻が痺れる。
これが貴之の日常なのだと。
仲良く言い合いを始める兄妹喧嘩を微笑ましく見つめながらも、心のどこかでモヤモヤとした昏いものが渦巻くのを確かに感じていた。
その感情が何なのか分かっているからこそ、考えないようにして箸を口に運ぶ。
温かな食事はどこまでも胸に沁みて、泣きたくなる気持ちを必死で抑えながら。

「じゃあ、またな!」
にこやかに手を振る貴之の後ろで妹達も口々にバイバイと声を上げる。
応えるように大きく手を振って、賑やかな玄関を後にした。
まだ車の多い通りを足早に進み、静かな住宅地へと景色が変わってきたところで、耐え切れずに足を止める。
考えないようにしていた思いが、ついに溢れてしまった。
「――っふ、」
和気藹々とした家族の光景。
その中で楽しそうに笑う貴之を。
どうしてそれが僕ではないのだろう。
あの家族の輪の中に一員として、どんなに僕もいたかったか。
与えられなかった温もりを、当たり前のように享受している彼を。
羨ましいと、妬ましいと、思ってしまう自分が許せない。
「ぅ、ああっ……」
大きく吐き出した息と共に涙が零れ落ちる。
ふらふらと電柱に寄り掛かり、崩れるように座り込んだ。
そして思い知るのだ。
彼が彼である事も、僕が僕である事も、そこには何の意味も違いも無い。
それは残酷なまでに、ただ――そうであっただけなのだ。
「…………はぁ……」
夜空を仰いで深呼吸をする。
冷たい空気が昂った感情を冷やすのを感じながら、乱暴に涙を拭い、手をついて立ち上がる。
結局、僕は僕以外になれはしないのだ。
だからせめて、彼には綺麗な世界だけを見ていて欲しい。
ささやかな願いを口にして、また足を踏み出す。
いつもの見慣れた道を黙々と歩き、やっと家へと帰り付いた僕は、明かりの点いていない窓を見て安堵の溜息を吐いた。
この時間でまだ帰って来ていないのは、きっと会社の忘年会でもあったのだろう。
楽しかった反面、今日はいろいろと疲れてしまっていたから、すぐにでも寝てしまいたい。
父の帰宅を待たずに、僕は早々にベッドへと入り込んだのだった。

どれくらい寝ていたのだろうか、ドアが乱暴に開く音と突然点けられた部屋の明かりに目を覚ます。
慌てて上体を起こすと、煙草と酒の臭いを纏わせた父が傍に立っていた。
水をかけられたように一気に背筋が冷える。
何か言おうとするよりも早く、がつんと頭に衝撃が走り、
「……誰が先に寝ていいと言った」
続けて剣呑とした声が鼓膜に突き刺さる。
「っ、ごめんなさい……」
咄嗟に頭を下げた僕を見て拳を下ろした父は、まぁいいとばかり息を吐いて上着を脱ぎ捨てると、おもむろにベッドへと上がりこんで来た。
二人分の重さにベッドがぎしと軋む。
胸を押されて布団へと倒れ込むまま。
すかさず覆い被さるように圧し掛かってきた上体が、首元に顔を埋める。
耳にかかる熱のこもった酒臭い息と。
パジャマの上からまさぐる手が下半身へと伸びて。
刹那、脳裏に浮かんだのはさっき見たばかりの光景だった。
幸せに満ち溢れた家族の食卓。
僕に向けられる無邪気な貴之の笑顔が。
「――っ!」
まるで汚いものを見るかのように嫌悪に歪む。
蔑んだ瞳が向けられた先に、犯され喘ぐ自分が見えた。
もしもこんな醜い姿を知られてしまったなら――もう友達でいられるはずがない。
どうしようもないとしても。
せめて。
せめて今日だけは。
「……嫌だっ……!」
身を捩ってベッドから転げ落ちる。
頭を振って抵抗を示す僕を、怒りに満ちた目で父は睨み付けてきた。
ゆらりと目の前へと立ちはだかる大きな影。
「おい、……何だその態度は」
暴発寸前の感情を抱えた重い声が響く。
たとえどうなろうと、どうしても。
「今日だけは……嫌だ!」
はっきりと言い放つ。
真っ直ぐに僕が見返すのと、父がブチ切れるのはほとんど同時だった。
吠えるような唸り声と共に、伸ばされた両腕が首を締め上げる。
そのまま壁へと押し付けられ、尚もぎりぎりと食い込む両手を引き剝がそうとするも、びくともしない。
酸欠で目の前がチカチカと光る。
必死で周囲を探る手に硬い物が触れ、とっさに掴んだ勢いのまま振りかぶった。
ぶつかる鈍い衝撃と、何かが壊れる金属音。
手の中で砕けたそれはどうやら目覚まし時計だったらしい。
「こ、……の、クソガキが……っ!」
痛みでよろめいた父が怒りに身を震わせる。
殺意すら感じるほどの憤怒を向けられ、咄嗟に力の限り突き飛ばした。
体勢が不十分だったせいか、踏み止まれずに後ろへと大きな音を立てて頭から倒れ込む。
そして、それきり父は動かなくなった。
「っ、はっ、……父さん……?」
肩で大きく息をしながら床の上に転がったままの身体をしばらく眺める。
気を失ってしまっただけなのか、それとも――。
急激に怖くなり、呼吸をしているかどうかも確かめずに部屋を飛び出してから、階段を下りたところで立ち尽くす。
頭が混乱して纏まらない。
いったい何をどうすれば良いのか、頭の中が真っ白で動けなくなった僕の視界に、リビングに出したばかりの電気ストーブが映った。
いまだ思考停止したままの意識に、囁きかける冷静な声。
全部消してしまえと。
あとはもう無意識に身体が動いていた。
スイッチを入れたストーブに毛布を被せる。
やがて焦げ臭い臭いと共に橙色の炎が上がり出したことを確認すると、僕は自転車の鍵を手に家の外へと逃げ出した。
そのまま振り返りもせず一心不乱にペダルをこぎ続ける。
しばらくして遠くから聞こえてきたサイレンの音に、一度振り返った。
背後に遠く立ち上る煙と、夜空を照らすようなオレンジの光。
視線を戻せば街の灯りと漆黒の夜空。
また強くペダルを踏みしめる。
今はただ、遠くへ。
どこか遠くへ行きたかった。
月は雲に隠されて、地上には消え切れない僕だけが。
取り残された僕にはもう――きっと夜明けが来ることは無いのだ。
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