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1.綺想曲 ―capriccioー

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やわらいだ残暑が夏の終わりを告げ、ひぐらしの鳴く声が草むらの虫の音に取って代わる。
少しずつ早まっていく夕暮れ。

――僕の嫌いな季節が訪れる。



近付いてくる足音に気付いて、望遠鏡から顔を離した。
振り向くと同時に理科室の扉が開き、担任の真山先生が顔を出す。
「樋口、いい加減暗くなったから帰りなさい」
そう告げるだけ、僕の返事も待たずに立ち去っていく。
小さく溜息を吐いて窓に顔を向ければ、とっくに陽が落ちた空は闇色にすっかり染まっていた。
部活動も終わっているのだろうか、校舎内には他の生徒の気配もない。
「帰るしかない、か……」
これ以上は粘れそうにないのを悟り、仕方なく帰り支度を始める。
もっと日が長い時期ならば、まだ今頃は夕焼けに赤く染まっているくらいだった。
暗くないのを口実に、家に帰るのを遅らせることが出来たのに。
「だから……嫌いだ」
つい泣きそうに歪んだ表情を、頭を振って誤魔化す。
大きく息を吐いて気を取り直すとランドセルを背負い、重い足取りで僕は家路へと着いたのだった。

点々と街灯で照らされた道をうつむきながら歩く。
最後の路地を曲がり顔を上げれば、一階のリビングに電気が点いているのが見えた。
普通だったら温かな家族の団らんを示すはずの光が、僕にとっては違う意味を持つ。
父がもう家に帰っているという警告灯に他ならないのだ。
「……ただいま」
小さく呟きながらドアを閉めると、一目散にそそくさと階段を上る。
部屋のノブに手を掛けたところで、
「おい」
背後から飛んで来た重い声に、僕は動きを止めるしかなかった。
振り向きたくない気持ちを無理矢理に押し殺し、強張った身体を後ろに向ける。
階段の横にたたずむ父の姿。
明らかに苛立ちを湛えた雰囲気に恐怖しかない。
「祐輔」
その有無を言わさぬ支配者の声を。
ただ一言で足りるのだ。
それだけで僕の足は階段を下りる。
まるで見えない鎖で引っ張られる罪人のように、足元まで引き摺り出されるのだ。
「……お前、シャツを洗ってなかっただろ」
「えっ、あ、それは、――っ!」
言いかけた瞬間、胸を突き飛ばされて言葉が詰まる。
一瞬遅れて、どん、とランドセル越しの背中にぶつかる強い衝撃と。
「口答えする気か!」
壁を背に逃げ場のない頭上から、続けざまに拳が振り下ろされる。
咄嗟にかばった腕に鈍い痛みを感じながら、
「っ、ぁ、ごめんなさい! ごめんなさい!」
なおも激昂し拳を振るい続ける父に向け、ただひたすら呪文のように繰り返すだけ。
天気が悪かったから洗えなかったのだと、言い訳したところで無駄だろう。
理由もなくただ怒りたくて怒っている相手には、何を言っても意味は無いのだから。
飽きるまで続く怒号と、悲鳴のような嘆願は、さながら滑稽な喜劇のように。
今更、慣れた心は舞台上に僕だけを残して、遥か遠くから静かに見下ろすのだ。
それは夜空に浮かぶ月の高みにも似て。

ひとしきり暴れて気が晴れたのか、今日は飯抜きだと言い残してリビングへと父は戻っていった。
どうせあったところでカップ麺がいいところだから、別に問題は無いけれども。
部屋に戻り、隠していたお菓子を夕飯代わりに空腹をしのぐ。
ほとんど食べる物を与えられなかった夏休み中を思えば何てことはない。
骨が浮くほど痩せた身体は、二学期が始まったばかりの頃より幾分マシになっている。
学校の給食は僕にとっては大切な命綱なのだ。
明日のメニューを楽しみに宿題を済ませ、いざ寝ようとしかけてふと自分の汗臭さに気付く。
電気代が勿体ないからと言う理由で、毎日入れないのだから仕方ない。
それでも今日のように帰宅が早い日には沸いている事が多かったから、風呂に入るべく階下の様子を探りながらそろそろと階段を下りる。
テレビの声が漏れ聞こえる先に、ソファに座る大きな背中が見えた。
足音を立てないように後ろを通り抜け、無事浴室に滑り込むことが出来た僕は、大きく肩で息をついたのだった。

「……っ」
先程拳を受けた両腕がお湯にしみて、小さくうめく。
赤く腫れた肌は、それでも明日の朝にはきっと治っているだろう。
首まで湯船に浸かり、目を閉じる。
何も考えずにぼうっとしていたから、つい気付くのが遅れてしまった。
半透明の浴室ドアの向こうに突然現れた黒い影。
身構えるより先に扉が開き、裸の父が先客などお構いなしにと入ってくる。
出口を塞がれ完全に出るタイミングを失ってしまった僕は、身をすくませたまま浸かり続けるしかない。
無言で髪と身体を洗う様子を横目で窺う。
学生時代にスポーツをしていただけあって、体格はいい。
父の分厚く盛り上がった筋肉と胸板に対し、自分の身体のなんと貧相なことか。
来年には中学校に上がると言うのに、身長も体重も同世代と比べれば随分と足りないのは、充分食べていないのだから当然だろう。
この歴然とした体格の差は、二人の力関係をそのまま表していた。
シャワーで泡を洗い流した身体がこちらを向くと同時に、入れ替わりに出ようと立ち上がりかけて、
「おい」
またもやの一言に動きを止める。
父が入ってきた時点で、もう僕には逃げ場など無かったのだ。
きゅっと口をつぐみながら、分かり切っていたことだと納得させるだけ。
どん、と拳で横の壁を叩き、顎でしゃくってみせる指図に、
「……はい」
かろうじて返事をすると、のろのろと浴槽を出る。
壁を向き両手をつくと、腰を突き出すような姿勢を取ってみせた。
すぐさまお尻を左右に押し広げられる感触と、間髪入れずにその真ん中へと宛がわれる熱を。
「っう、……あぁ、っ」
ずぶずぶと狭い通路をこじ開けるように突き刺さる楔。
幾度となく侵入は許してきたが、押し入る瞬間だけはいつまでも慣れない。
抱きかかえるようにして押し付けられる腰が、容赦なく胎内を抉る。
背中に落ちる熱い鼻息、荒い息遣いと。
ごんごんと打ち付けられる度に、頭が壁にぶち当たる。
衝撃を骨にまで受けながら、振り回される自分の身体をまるで人形のようだと思った。
何も感じないで済むように、瞼を閉じる。
意識を切り離してしまえば大丈夫、なのに――。
「あ、はっ、……んんっ」
散々弄ばれた身体は、どこが弱いのかさえも父には既にお見通しなのだ。
前立腺を執拗に先端で嬲られ、萎れていた僕自身が少しずつ頭をもたげる。
「なぁ、祐輔。感じているところ悪いが、……これはお仕置きだから、な」
「え、――っ!」
耳元で揶揄する声が響いたかと思った瞬間、強い力で引き倒される。
一瞬にしてひっくり返る視界。
叫ぼうとした声は言葉にならず、がぼがぼと泡を吐き出すだけに終わる。
慌てて振り回した手が頭を掴む腕に気付いてやっと、浴槽の中に顔を突っ込まれているのだと分かった。
縁に手をかけ、無我夢中で上体を起こそうと力を込めるもびくともしない。
見開いた目の前は立ち上る泡で白く揺らぎ、水を吸った鼻の奥がキーンと痛む。
突っ伏した格好で水中に沈められ、無様に足掻く僕の抵抗をものともせず、尚も犯し続ける父と。
きっと己の欲を吐き出すまで止めはしないだろう。
息を止めて残り少ない酸素で耐える。
苦しさに強張る身体が刺激となっているのか、中を穿つ速度が増して。
「ぅ、……っく」
内臓を深く突き上げる程に打ち付けた父が、満足気な嘆息と共に胎内へと精を放つ。
びくびくと余韻を残した雄がゆっくりと抜かれた後、ようやく僕は水中から引っ張り上げられたのだった。
絶え絶えに喘ぎ、咳込みながらも必死で呼吸を整える。
大きく肩を上下しつつ顔を上げてみれば、入れ替わり湯船に身体を沈める父はもう僕を見てはいなかった。
ぐったりと疲弊した全身を奮い立たせ、浴室を後にする。
濡れた髪もろくに拭かず、裸のままベッドへと倒れ込んで。
これくらい何でもないと。とっくに慣れたはずだと。
感情に蓋をして、何も考えないように目を閉じる。
明日が来ることさえも、今は考えたくなかった。

母が僕を置いて出て行った三年前、平穏な日常は終わりを告げたのだ。
残された父の激情を受け入れた時から始まった悪夢の中、誰にも聞こえない声で独り鳴き続けている。
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