A Tout Le Monde

とりもっち

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Ⅴ.Die Dead Enough

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使っていなかった客間のベッドへとミアを運び、向かい合わせに椅子へと腰掛ける。
薄い掛布団がかすかに上下するのを確かめながら、こうして穏やかに眠っている寝姿が、束の間の安らぎだと思い知っていた。
背もたれに体重を預けて深い溜息を吐く。
何もかもが覚めない悪夢だった。
今はただ、神父である友に一縷の望みを託すより他は無い。
だとしても、果たして本当に祓えるのかどうか。
そもそもが悪魔の仕業なのかどうかすら確信は無かった。
どうしようもない無力感に苛まれながら、アルバートは無意識の内に眠りへと落ちて行った。

鳥の囀りで目を覚ます。
固まった身体をなんとか起こし、大きく伸びをしてから、窓から差し込む薄日に朝が来たのだと知る。
肌を突き刺す冷えた空気と、糸を張ったような静寂。
ぶるっと身震いをすると同時に吐いた息が白い。
「……雪、か」
外に目を向けたアルバートが意外そうに呟く。
窓の向こう側、ちらちらと舞う白い風花。
いつの間にか長く降り続いた雨は雪へと変わり、ガラス越しの景色を白銀に染め上げていた。
冬の季節はそれなりに冷えるとは言え、雪が降ることはそう無い。
降り積もった光景を物珍しそうに眺めてからふと、
「……ミア?」
何気にベッドへ視線を向け、誰もいない事に気付く。
慌てて家中を走り回り、娘の無事をひとまず確認してから外へと飛び出したアルバートが目にしたのは、裏口から森の方へと続く足跡だった。
新雪の上に点々とつけられた痕跡を辿って走る。
白く霞む地平の先、ぼんやりと浮かび上がる白い人影。
その幽かな輪郭は、今にも銀世界に溶け込んでしまいそうな程に。
足を取られながらもなんとか追い付いたアルバートは、ようやく視界に捉えたミアの様子に我が目を疑った。
一糸纏わぬ素肌に薄いガウン一枚だけを羽織り、風に揺らめき歩く後ろ姿。
それはまるでウェディングドレスを身に纏った花嫁のようだった。
「っ、何をやってるんだ!」
コートを肩に被せて冷えた身体を抱き留める。
頭を掻き抱くアルバートの腕の中、崩れ落ちるように縋り付いて。
「あ、っ、ごめんなさい……!」
堰を切ったようにミアが泣き叫ぶ。
大丈夫だとばかり両頬を包む手を払い除け、尚も頭を横に振りながら。
「違うの、そうじゃ、……ごめんなさい……っ」
涙で濡れた瞳は焦点が定まらず、目の前のアルバートを見ようともせずに。
悲痛に顔を歪め、泣きじゃくる両肩を為す術もなく強く抱き締める。
耳元で繰り返される哀願は、いったい何に対してか、はたまた誰に向けてのものなのか。
分からずともただ――許しを乞う彼女の真意が違う所にある事だけは感じていた。

ミアをベッドに寝かせてから、散らかったリビングに一人座る。
食器が積まれたシンクに、服が溜まった洗濯籠。
いくら拭いても消えない壁や天井の黒い染みが、どうにか日常を取り繕おうとするアルバートの努力を嘲笑う。
男手一つではもう手一杯だった。
照明代わりの蝋燭が不自然にゆらゆらと揺らぐ。
どこか淀んだ重たい空気は、冬の天気のせいだけでは無いのだろう。
外界から閉ざすように降り続ける白雪の中、鞄を手にジョシュアが戻ってきたのは、ぐずるエリーシャをやっとで寝かし付けた後だった。
ストールに積もった雪を掃い、いつにも増して固い表情で室内へと上がり込む。
互いに顔を見合わせてから、
「…………頼む」
アルバートの精一杯の言葉に、ジョシュアは無言で頷いてみせた。
薄暗い廊下を進み客間へと入る。
扉を開けると同時、
「あら、二人ともどうしたの?」
投げ掛けられた声に、寝ているとばかり思っていた二人は思わずその場に立ち尽くした。
上半身を起こして出迎えるミアの姿は、顔色こそ戻ってはいないが、いつもと変わらぬ柔らかな表情で微笑んでいる。
記憶と違わぬ穏やかな雰囲気に、ぐっと込み上げそうになる感情をアルバートは必死で抑えた。
これはまやかしだと。けして元に戻ったわけでは無いのだと。
散々思い知らされていたからこそ。
出鼻を挫かれそうになりながらも気を取り直す。
「ミア……ごめんな」
引き攣った笑みを浮かべ、訝し気に見上げる瞳に向けて一言告げる。
背後のジョシュアに振り向いて促すと、アルバートは用意していたロープでミアの両手足をベッドへと縛り付け始めた。
「アル? ……っ、何するの!?」
突然の行動に動揺して叫ぶ。
泣きそうに眉を歪め怯える様は、つい手を緩めてしまいそうな程に憐れで。
どちらの顔もが苦渋に満ち、それでも手に込める力を弱めはしなかった。
「嫌っ、やめて!」
逃れようとする身体を二人掛かりで押さえ付け、しっかりと結わえていく。
泣き叫ぶ声はやがて懇願に、そして次第に罵倒へと。
「お願い、放して……、……放せ、放せぇっ!」
縛られた手足はそのままに、首だけを起こして咆え立てる。
眉間をしかめ睨み付ける相貌にもはや、普段の面影は消えていた。
獣の如くに歯を剥き出し、呻く喉奥からは低いしゃがれ声が掠れ出る。
「お前にこの女は救えない! ……何も知らぬ愚かな、愚図で鈍間で、腐った豚共め!」
響き渡る哄笑。
ぎらついた視線がアルバートとジョシュアを交互に射抜く。
冴え冴えとした空気に伝播していく狂気。
「全部知っているぞ! ……醜く憐れな、穢れた魂、罪深き聖職者よ!」
捻じれる程に首を回し、彼女の顔をした者が呪詛にも似た台詞を吐き出す。
尚も暴言を吐き続ける口を塞ぐべく、ジョシュアは持ってきた鞄から聖書を取り出した。
十字架を握り締め、怖気づく己を奮い立たせる。
「……曙の子、地上の灰よ、神の恩寵を失った汚れた者、お前は許される。この身体を離れれば救われる。神の子の魂から離れよ!」
祈りの言葉を叫び、真っ直ぐに彼女を見詰める。
深い湖の色だった瞳は金色を帯び、禍々しい別の意志を宿していた。
全てを見透かされるかのような恐怖を感じ、無意識に後ずさる。
「ジョシュア!」
「っ、――お前は、彷徨う怒れる魂、彼女を解放しろ! 去れ、悪霊よ!」
アルバートの声に我を取り戻したジョシュアが、聖水を振り掛けて声を張り上げる。
飛び散った水滴が白い煙を上げて肌を焼き、呼応してミアの口から地鳴りにも似た咆哮がほとばしった。
痛みに手足をばたつかせ、ベッドが壊れんばかりに悶え狂う。
泣き叫ぶ悲鳴、床を叩き付ける騒音に、部屋全体が割れるような振動音。
前触れも無く落ちた壁時計や額縁が、床の上に砕け散らばる。
「あぁっ、お願い、やめて! ……アル、助けて!」
「耳を貸すな!」
苦し気に眉根を寄せ、涙ながらに訴える妻の姿に、思わず駆け寄りそうになるアルバートを、今度はジョシュアが呼び止めた。
すんでのところで立ち止まり、頭を抱えて膝から崩れ落ちると、
「もう……やめてくれ……」
震える声で小さく漏らす。
苦しむ姿を前に、いつまで己の無力さを突き付けられるのか。
打ちひしがれるアルバートを愛する者の顔で悪魔が嗤う。
高らかな笑い声が響く中、どうしようもない絶望的な空気が漂っていた。
笑みを貼り付けたミアの顔が、今度はゆっくりとジョシュアの方を向く。
「……この女を救いたければ、お前の罪を告白するがいい」
勿体ぶった口調でゆっくりと告げられる台詞。
ぴくりと肩を震わせて頭を上げたアルバートは、ジョシュアの表情が一気に青褪めていくのを目にした。
ぎり、と歯噛みをした口端が引き攣る。
十字架を掲げた腕が細かく震え、明らかな動揺を示していた。
「一体、……何の、事だ?」
「違う! ……これは彼女の言葉ではない!」
問い詰める言葉に重なる弁明。
立ち上がり踏み出した一歩に併せて、ジョシュアが後ろへと一歩下がる。
思い詰めた形相を見れば、どちらの言葉が嘘なのかは明白だった。
何が起こっているのか、もう何もかもが分からない。
ただ、自分の知らない何かが二人の間にある事だけは理解できた。
「ジョシュア!」
激昂する感情を抑えきれずに声を出す。
母に叱られた子供のように怯え硬直する様は、普段の泰然たる姿からは想像出来ぬ程に哀れで。
憐憫を打ち捨てて尚も詰め寄るアルバートの背に、正気に返ったミアの声が響いた。
「ごめんなさいっ……! 私が、全部悪いの!」
痛ましい声で泣き叫ぶ。
咄嗟に身を乗り出したジョシュアが、何かを訴えようとするより先に、
「あなたの子供じゃないのよ!」
「やめろ!」
同時に被る叫び声。
それでもミアの言葉は、はっきりとアルバートの耳に届いていた。
頭を殴られたような衝撃が走る。
時が止まったようだった。
一瞬にして様々な思いが脳裏を駆け巡り、破裂寸前になる。
夜中に娘を見下ろしながら呟いていた独り言を。
母親譲りの碧に混じる蒼の瞳を持つもう一人を。
そして恐らくはこれがミア自身の不貞では無い事を。
自ずと導き出された結論を、戦慄く唇から紡ぎ出す。
「まさか……お前が、……ミアを……」
敬虔なカトリック信者である彼女にとって、無理矢理とは言え夫以外との行為は許されるものでは無かっただろう。
きっと言えぬままに、今度は子を孕んでしまった事に気付いた時、どんなに怖ろしかっただろうか。
彼女にとっては堕胎すらも罪なのだから。
「どうして――っ!」
喉が詰まって言葉が出ない。
真実が暴露された今、これ以上はもう、悪魔祓いを続ける意味も理由も無い。
零れそうになる涙を乱暴に拭うと、アルバートは手足を結んでいたロープを解き始めた。
ぐったりと横たわるミアを抱き上げようとして、その腕を逆に掴まれる。
はっと目を見開いた次の瞬間、有り得ない力で身体を投げ飛ばされていた。
どんっと壁にぶつかり、崩れ落ちる。
「こんな阿婆擦れと結婚したなど、つくづく馬鹿な男だ!」
ゆらりとベッドに立ち上がった人影が、首を回して甲高く嗤い声を上げる。
床の上に這いつくばったまま、かろうじて頭をもたげるだけのアルバートに向けられる嘲笑。
無力さに顔を引き攣らせ、何か言いたげに開いた唇が口惜しさに歪む。
侮蔑を浮かべて見下ろす金の瞳を視界に映し、――そのままアルバートは意識を失った。
その姿を見届けた後、ついと愉しそうな嘲笑がぴたりと止む。
静まり返った室内には、この一連をただ凝視するしか出来なかったジョシュア一人が。
倒れ込んだ友に駆け寄りもせず、その視線はベッドの上へと向けられていた。
「……あれが私だと、……知っていたのか」
口端を震わせて苦々しく言葉を絞り出す。
それは式を終えてからしばらくの事だった。
用事でミアがエディンバラへと出掛けるのを知った時、はからずも抱いた衝動を抑えきれずに跡を付けたのは。
小雨が降り頻る夜半、ホテルに向かうであろう彼女を襲ったのだ。
白いコートを翻して逃げる背後から、捕まえ路地裏へと引き摺り込み、無理矢理に犯した。
街灯の光も届かない雨空の中、フードを深く被り、声も出さなかった。
恐らくは犯人が自分だとは分かっていないはずだ。
それでも産まれてきた子を見て何かを感じたのだろうか。
果たして彼女が一体どこまでを分かり得たのかは分からなかったが、最早どうでも良かった。
彼女に対する一抹の憐れみも罪悪感も消えてしまった今、吐き出されるのは醜い感情だけだった。
「ずっと、……憎んでいた! ただ、女だから、……女と言うだけで……っ!」
恋仲へと発展していく二人の関係を見せ付けられる辛さに打ちのめされながらも、それでも離れられない己の未練がましさと、友として祝福する事の出来ない己の未熟さと。
どうしようもなく思い詰めた末の暴挙は、度を越した腹いせで終わるはずだったのに。
まさか子供を孕むまでとは想定していなかったのだ。
「笑わせるな! 暗く、陰気で、つまらないお前など、たとえ女だったとしても誰が相手になどするものか!」
憎悪を隠さず視線を向けるジョシュアを、心底馬鹿にした眼差しで罵倒する。
全てが虚言か、たとえそれが本音だったとしても。
「…………もういい、黙れ!」
残った聖水を全て振り撒き、十字架を握り締めて叫ぶ。
己が対峙するべき存在を、ジョシュアは改めて真っ直ぐに見据えた。
理不尽に傷付けられ、恐怖と罪悪感に囚われた挙句に、弱さに付け込まれ悪魔に憑依されてしまった哀れな魂を。
今や楚々として美しかった面影は失われ、白い肌には黒く血筋が浮かび上がっている。
醜く歪んだ彼女の形相は、彼自身の醜さの顕れに他ならないのだ。
聖水の飛沫を受けた身体が、灼ける痛みにのたうち回り、操り人形のようにガクガクと不自然に痙攣する。
獣の咆哮を上げる口からは白い泡が噴き出していた。
「父と子と聖霊の名に於いて――汝を追放するのは神だ、逃げられない! 汝を退かせるのは神だ、服従せよ! 汝を追い出すのは神だ、穢れたる悪霊よ、彼女を解放しろ!」
躊躇なく救いの言葉を唱える。
飛び掛からんとした身体が何かに阻まれるように押し戻され、折れ曲がる程に背を仰け反らせる。
バキバキと関節が悲鳴を上げるほどに波打ち、まるで地の底から轟くような絶叫が響き渡った。
断末魔の如き雄叫びは次第に細く掠れ、消えると同時、がくんとミアの身体が膝から崩れ落ちる。
おもむろに頭からシーツの上へとうつ伏せに倒れ込み、――そのまま動かなくなった。
後に響くのは、ジョシュアの乱れた息遣いだけ。
「っ、……祓った、のか……」
しばらく固唾を飲んで静かな横顔を窺う。
青褪めた頬に少しばかりの血の気が戻り、薄く閉じた唇からは規則的に吐息が漏れ出していた。
柔らかな表情からはもう悪魔の気配は感じられない。
安堵の息を大きく吐き出し、後退って壁に背を預けて座り込む。
せめてもの束の間、今だけは考える事を放棄して、ジョシュアは静かに目を閉じた。
 
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