A Tout Le Monde

とりもっち

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Ⅳ.Symphony of Destruction

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二月に入り寒さが増す。
数日前から降り続く長雨で地面は重たくぬかるみ、暗い雨雲が立ち込めた空は太陽を忘れてだいぶ久しい。
肌に纏わりつくような湿気を含んだ空気はまるで、淀んだ水の底にいるようだった。
誰もが春が来ることを忘れてしまうような陰鬱な景色の中、重苦しい雰囲気を打ち払うかのように金属音が鳴り響く。
定刻を告げる教会の鐘の音。
その響きだけが確かに進む時の流れを教えてくれるのだ。
霧雨を震わせて届いた振動にふと顔を上げる。
濡れるのも気にせず、家畜小屋の藁を入れ替えていたジョシュアは、教会の扉を開けて中へ入っていく人影に気付いて手を止めた。
主が中にいない事が分かったのだろう、少ししてまた外へと出てきた人影に向かい声を掛ける。
「アルバート!」
「ジョシュア、悪い……今すぐ来てくれ!」
慌ただしく駆け寄ってきたかと思えば、開口一番の言葉に面食らう。
あまりの切羽詰まった様子に気圧されたジョシュアは、アルバートに手を引かれるがまま、再び自宅を訪ねる事となったのだった。

ぬかるみの道を足早にひた走る。
全身を濡らしてやっと辿り着いた先には明かりすら点いていなかった。
ずぶ濡れのコートを脱ぎ捨て、燭台の光を頼りに寝室へと促される。
揺れる炎がベッドに横たわる人影を映し出し――その姿にジョシュアは声を失った。
「ミア……なの、か……」
およそ一ヶ月ぶりに再会した幼馴染の変わり様に。
艶やかだった金髪は老婆のように色褪せ、落ち窪んだ眼孔に大きな瞳だけがぎょろっとこちらを睨む。
血の気の失せた肌と瘦せ細った手足は、まるで死人を思わせるようだった。
あまりの有様に拳を握り締める。
胸の内に一気に感情が溢れて頭が追い付かない。
彼女への憐れみもあったが、それよりも己が愛する者をこのような状態に陥らせたままのアルバートに対しての怒りもあった。
振り向きざま、握り締めた拳を胸に叩き付ける。
「見せるべきは私ではなく、医者だろう!」
もっと早くにそうするべきだった。
襟元を掴んで詰め寄るジョシュアに、アルバートが悲しそうに首を振る。
尚も口を開き掛けて、弱々しく聞こえてきた掠れ声に、二人共が視線を向けた。
「アル……、ジョシュと……二人きり、に……」
わずかに手を上げて外を指差す。
ミアの言葉にアルバートは一瞥をジョシュアに向けると、無言で部屋を後にした。
静寂が戻った室内にただ立ち尽くす。
はぁっと息を吐いてその白さに気付いたジョシュアは、妙に部屋が寒いのを感じた。
確かリビングでは暖炉に火があったはずだった。
にも関わらず、まるで外と同じくらいに空気が冷えている。
見れば仰向けに寝ている口元からも白い息が漏れていた。
カーテンをきちんと閉め直し、振り向いてふと、腰までめくれた布団に気が付く。
「ミア、寒いだろう」
直そうと手を伸ばした瞬間、唐突に強い力で腕を掴まれジョシュアは動転した。
思わず放そうとするも、細い腕に似合わぬ力でびくともしない。
困惑するジョシュアに向け、歯を見せずに口だけでミアがにいっと笑う。
「……っ!」
ぞくっと背筋に怖気が走る。
まるで魅入られたように身動きが出来なくなっていた。
手首を掴んだ手がゆっくりと動き、開いた胸元へ差し入れる。
掌に伝わる柔らかな肌の感触。
ゆっくりと揉みしだくように押し付けてから、吐息のように声を漏らす。
「ねぇ、彼がどんな風に私を抱いているか、……知りたい?」
谷間から抜いた手を、服の上を滑らせるようにして下半身へと誘う。
もう片方の腕が背中に回り、ジョシュアを優しく抱き留めた。
「……教えてあげる」
耳元に掛かる熱い息に眩暈を覚える。
強く瞼を瞑って歯を食いしばると、
「やめろ!」
渾身の力を振り絞り、ジョシュアは叫んだ。
弾けるように跳ね起きると、勢いのまま床の上へとへたり込む。
呆然と見つめるその顔はすっかり青褪めていた。
ベッドから見下ろすようにして、くつくつとミアが嘲笑う。
耐え切れずに外に出ようと扉に向かったその背中に。
「私……全部、知っているのよ」
何ら感情のこもらない声が響く。
咄嗟に振り向いたジョシュアが見たものは、まるで何も無かったかのように布団を被り静かに眠るミアの姿だった。
微かに聞こえる寝息を前に、ただ茫然自失に立ち尽くすだけ。
果たして、それは彼女の台詞だったのか、それとも他の何かだったのだろうか。
混乱する意識の中で、不思議にも何故かそう思ったのだった。

すっかり疲弊した様相でリビングへと戻ってきたジョシュアに、アルバートは何も言わずにスコッチのグラスを手渡した。
ぐいと一気に飲み干してから、
「やはり、……医者に見せるべきだと思う」
再び告げる言葉に、またも首を振ってみせる。
尚も言おうとジョシュアが口を開いたちょうどその時、突如、重い物が転げ落ちるような重低音が家中に響き渡った。
雪崩のような轟音が止むや否や、二人顔を見合わせてから一目散に寝室へと走る。
扉を開け放った先、目を疑うような光景に絶句するしかなかった。
地震か竜巻にでも襲われたように、家具が倒れあるいはひっくり返り、床の上には割れた窓ガラスの破片や、棚の中の荷物が散乱している。
頑丈なはずのベッドは足が折れ、吹っ飛んだように壁に寄り掛かっていた。
「……これでも、医者に見せろと?」
硬い表情のまま、酷く落ち着いた口調でアルバートが呟く。
その隣で、目の前の現実を見せ付けられてもまだ、すぐには受け入れられずに。
「こんな事が……」
あるはずはない、あってはならない。あるとしたらそれは、神の御業とは対極の――。
そこまで考えてジョシュアは己の範疇を超えていると考えるのを止めた。
それ以上の言葉を失くして押し黙る。
「ミア!」
不意に咳込むような音が響き、投げ出されたマットの上、倒れ込んでいる妻に気付いたアルバートが慌てて駆け寄る。
「げほっ、ぁ、かはっ、」
四つ這いの姿勢で髪を振り乱し、激しくえずく。
ぼたぼたと口元から、濁った血混じりの吐瀉物が零れ落ち、瞬く間にシーツを赤黒く染めていった。
「……ミア!」
悲痛な声を上げて、背後から悶える背中を抱き締める。
アルバートの腕の中、一段と暴れ狂う様はただの獣にしか見えずに。
虚ろに見開かれた瞳には、彼女の意思などもはや無かった。
逃れんとばかり振り回す手がアルバートの肌を裂き、服を切り破る。
傷付けられてもなお、放そうとしないその背に幾筋もの血が滲んで。
あまりの尋常ではない光景に打ち震えながら、ジョシュアは思い出したかのように懐の十字架を取り出すと、慣れた台詞を無我夢中で唱え始めた。
「――天にまします我等の父よ、願わくは御名をあがめさせ給え」
それは常日頃より繰り返されるミサでの祈りだった。
「御国を来たらせ給え、御心の天になる如く、地にも成させ給え」
十字架を翳して綴られる言葉に、唸り声を上げてミアが顔を向ける。
下からねめつける真っ黒な瞳に気圧され、一瞬詰まりながらもなんとか続ける。
「我等の――日用の糧を今日も与え給え、我等に罪を犯すものを我等が許す如く、我等の罪も許し給え」
震える手を伸ばして十字架をその額へと押し付ける。
ひときわ甲高い金切り声を上げ苦悶に歪む表情に、祈りの言葉が効いているのだとジョシュアは理解した。
片方の手で十字を切り、声に力を込める。
「我等を試みに合わせず、悪より救い出し給え!」
「ミア!」
渾身の力でアルバートの腕から逃れた身体が床の上に崩れ落ちる。
嫌々するように頭を左右に振りながら、びくびくと全身を痙攣させてからしばらく。
固唾を飲んで様子を窺うアルバートの足元で、ゆっくりと動きを止めたミアはそのまま眠りについたようだった。
その穏やかな表情に二人共が安堵の息を吐く。
静けさを取り戻した室内には、窓から降り込む雨飛沫の音だけが微かに響いていた。

暖炉の炎の前で座り込む。
まざまざと突き付けられた現状に、ただ圧倒されていた。
パチパチと爆ぜる火の粉を見つめるばかりの沈黙。
その均衡を破ったのはアルバートだった。
「ジョシュア……お願いだ」
言わんとする事が分かり、金髪が横に振れる。
今にも叫びそうな衝動を抑えた声で、尻込みするその両肩を掴み、再度懇願する。
「お前にしか、頼めない! ……だから」
真っ直ぐに向けられる視線に、蒼い瞳を苦し気に伏せてジョシュアは口篭もった。
「……悪魔祓いなど、私には、……無理だ。それにバチカンの許可が、」
「そんなもの、待てるわけないだろ!」
逃げ腰の返答に、アルバートが食い気味にがなり立てる。
激昂に肩を揺すられるまま項垂れるだけ。
食い込む指先の強さに顔をしかめながら、これ以上は無理だと悟る。
愛する者の悲痛な訴えをどうして拒絶出来ようか。
「……分かった」
しばらくの逡巡の末に顔を上げ、重い一言を吐き出す。
ぱっと表情を緩めて安堵を浮かべるアルバートに、ジョシュアはゆっくりと頷いて返した。
内心で切り捨ててしまえぬ己の甘さを嗤う。
けして彼女の為などでは無い。身勝手な感情故の。
だからこそ、気付かない振りをしながらも、奥底では理解していた。
これは罰なのだと。裁かれる時が来たのだと。
この事態を引き起こしたのが恐らくは自分自身に他ならないと。
――全て承知の上に。
幼馴染の顔を今一度見返す。
準備をしてからまた出直すと告げてから、ジョシュアは彼の家を後にした。
 
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