A Tout Le Monde

とりもっち

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Ⅰ. Wake Up Dead

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見覚えのある風景だった。
今なお残る中世の街並、ゴシック様式の尖塔に、石畳の道路。
ひしめき合う石造りの建物と、その隙間に続く薄暗い路地裏。
ロンドンより北に位置するスコットランド、その首都であるエディンバラの景色が目の前に広がっていた。
美しい街並は夜の闇に沈み、空からは冷たい雨粒が降り注いでいる。
静かに全身を濡らしていく雨の重さを感じながら、ジョシュアは何かを見つめていた。
路地に身を潜め、息を殺して。
人通りの絶えた歩道をまばらに照らす街灯、その仄かな明かりの下に揺れる白い影を。
視線に捕らえた瞬間、反射的に彼は走り出していた。
濡れた石畳の上を音もなく駆け出してから、自分が一匹の獣になっている事に気付く。
ああ、これは夢だと。
そう思いながらも獲物を求める殺意は止まらないまま。
襲い掛かる捕食者の気配に気付いた白い影が踊る様に逃げ回る。
追い掛け、爪で引き裂き、牙を突き立てた――瞬間、
「っ、は……!」
びくりと身体を震わせて、ジョシュアは覚醒した。
慌ててベッドから跳ね起きると、思わず口に手を当てる。
目覚める間際、確かに口内に広がった生温かい血肉の感触。
気が付けばまるで雨に打たれたかのように、ぐっしょりと全身が汗で濡れていた。
「また、か……」
夢だった事に安堵して軽く息を吐くと、小さく呟く。
それは一年程前から繰り返し見る悪夢だった。
深い溜息を吐いてから、のろのろと起き上がり、部屋を出ると外の井戸へと向かう。
冷たい水で顔を洗えば、火照った身体を吹き抜ける寒風が冷やしていく。
早朝、まだ真っ暗な地平には、数えるほどの明かりだけ。
遮るもののない平野に点在する民家と、聞こえてくるのは風の唸りと家畜の声。
エディンバラより北西に離れたこの小さな田舎村が、ジョシュアの故郷だった。
暖流のおかげで一年を通して気候は穏やかだが、緯度が高い為に日照時間は夏と冬ではかなりの差がある。
年が明けたばかりの今の時期、太陽が顔を出すのはまだ数時間も先だった。
身支度を整え、いつもの服に腕を通す。
灰色掛かった金髪に映える黒のキャソックに、首元には白いローマンカラー。
司祭の平服に身を包み、祭壇の前で祈りを捧げる。
それが神父であるジョシュアの日課だった。

朝の祈りを終えて、わずかな家畜を小屋から出すと、工具を片手に教会へと戻る。
前任者から受け継いだ村唯一の教会は老朽化が進み、村人からの寄付だけでは賄えず、ジョシュア自らが少しずつ直しているところだった。
今日も傾いた長椅子と格闘しながら、汗をぬぐい一息をつく。
その座り込んだ足元に落ちる万華鏡のような光の色彩。
見上げれば、ようやく昇った太陽の陽射しを受けて宝石のように煌めくステンドグラスがあった。
祭壇と十字架の他には装飾も何もない簡素な教会の、唯一自慢出来るものだと言えよう。
色鮮やかな輝きを見詰めながら、ジョシュアは初夏の陽光を脳裏に思い出していた。
緑に萌える芝生の上、降り注ぐフラワーシャワー。
祝福の讃美歌、軽やかなバグパイプの音色に重なる大勢の歓声と。
正装の参列者が魅せる色取り取りのキルト。
それよりも鮮やかな、純白のドレスを身に纏った花嫁と、黒いタキシード姿の新郎を。
よく見知った幼馴染同士の華やかな結婚式。
それは神学校を卒業後、村に戻った彼の司祭としての初仕事だった。
「――っ!」
唐突にぱちんと弾けるような音がして、我に返る。
同時に周囲がふっと暗くなり、照明が消えたのが分かった。
どこかの電気配線が焼き切れでもしたのだろうか。
古いのは建物だけでは無いのだ。
こればかりは修理を依頼するしかないだろう。
「はぁ……」
重い溜息を吐いて首を回す。
相手は分かっている。
ただ、気乗りがしないだけだ。
その原因が相手にではなく自分にある事も。
長い深呼吸をしてから、仕方なく電話機へと手を伸ばしたその時――、
「ジョシュア! いるか?」
入口の扉が開き、来訪者が顔を覗かせる。
聞き慣れた声に続く、長身の赤髪、柔らかな茶色の瞳と。
振り向いたジョシュアの視線の先に、今まさに電話を掛けようとした相手――電気技師でもあり、幼馴染でもあるアルバートが立っていた。
思い掛けない登場に一瞬硬くなった表情はすぐに緩み、
「……久しぶりだな」
変わらぬ友の姿にぎこちない笑みを浮かべる。
嬉しさと反面戸惑いの混じった不器用な笑顔は、それでも普段の神父を知っている者からすれば、随分と明るく見えた事だろう。
「お互いに忙しかったからな。……娘の洗礼式以来か」
アルバートの言葉に、数ヶ月前に行った幼児洗礼をジョシュアは思い出した。
結婚式の後、程なくして新婦の懐妊が判明し、今は愛する妻と子と共に幸せの真っ只中にいるはずの幼馴染を、祝福しないはずがない。
その一方で、胸の奥に渦巻く黒い感情をも確かに感じていた。
数年前に相次いで亡くなった両親の遺品整理や教会の補修で忙しかったのは事実だが、意識的に足を遠ざけていたのもあったのだ。
「それで、何か用でも?」
そっけなく言い放つジョシュアの言葉を気にも留めず、目の前まで歩み寄ったアルバートが、少し言い淀んでから声を落として呟く。
「……実は、妻の、ミアの事なんだが……」
名前を聞いてジョシュアはもう一人の幼馴染の顔を思い浮かべた。
茶色掛かった金髪と、深い湖面のような碧の瞳。
厳格なカトリック信者である両親のもと、同じく敬虔な信者として育った彼女を。
普段は物静かで穏やかな表情が、晴れやかな式の日ばかりは弾ける様な笑顔を見せていたのに。
――様子がおかしいと。
「それは……育児の疲れとかでは無いのか?」
今までにも気が塞ぐことはあったが、妊娠による不調だろうと気にしていなかったらしい。
それが子供が産まれてから余計に様子がおかしくなったのだと。
突然泣いたり喚いたり、ともすればぼうっと呆けたように反応が無くなるのだと言う。
結婚前までは欠かさなかった日曜のミサにすら出席しない。
この前の洗礼式でさえ、なんとか説き伏せて連れてきたという具合だ。
元々楽観的なアルバートが言うからには、余程の事なのだろう。
よくよく見れば疲れの滲んだ横顔に気付き、ジョシュアはそれ以上何も言わなかった。

しばらくの世間話の後、電気の修理に加え今夜の夕食への招待と、二つの約束を取り付けてから幼馴染は帰って行った。
すっかり父親らしくなった背中を見送り、静かに扉を閉める。
まだ小さかったアルバートの背中を、二つ年下のミアと一緒に追い掛けていた記憶を思い出し、ジョシュアは軽く笑んだ。
狭い世界で何も知らず無邪気でいられたあの頃を。
過疎の村に子供は少なく、同年代の遊び相手と言えば彼等だけ。
引っ込み思案な性格だったジョシュアにとって、明るく闊達なアルバートは同い年ながらも頼もしい兄のような存在だった。
ただの憧れに過ぎないと、そう言い聞かせていた感情が違和感を隠せなくなったのはいつだったろうか。
向けられる笑顔に、ちりちりと胸が痛むようになったのは。
だからこそ、アルバートを見るミアの視線にも気付いたのだ。
そして――ミアを見るアルバートの視線の変化にも。
自分がけして手に入れる事の出来ないものを、易々と手にした彼女に対し、何も思わないはずがない。
それなのに――。
「私に……それを頼むのか……」
様子を見がてら、夕餉に招かれてくれと。強引に押し切られてしまった。
気は進まなくとも、約束をしてしまったからには行くしかないだろう。
懐かしい思い出を苦さと共に飲み込み、ジョシュアは十字を切ると祭壇の前に跪いた。
「……神よ、慈しみ深く私を顧み、豊かな憐みに拠って私の咎を許して下さい」
誰にも知られるわけにはいかない。
邪まな想いが故に、許されるはずのない罪を重ねたのだ。
「悪に染まった私を洗い、……罪深い私を清めて下さい」
天のみが知る告解。
神に立ち返り、罪を許された者は幸いなれ。
「アーメン」
絞り出すようにこぼれた祈りは、石壁に冷たく響いて消えた。
 
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