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1.襲撃の夜
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最初に聞こえた時は歓声だと思った。
こんな夜遅くにふざけているのは酔っ払いくらいだろう。
夫が飲んだくれては牛の世話を忘れ、いつも喧嘩をしている隣人を思い出す。
それとも向かいの家に、兄弟の誰かが久しぶりに帰省でもした祝いの宴会なのだろうか。
誰かが叩きだした太鼓に合わせ、笛が鳴り、集まってきた人々が踊り出す、そんな光景は別に珍しくも無かった。
先の事を考えるよりも今を生きる、楽天的で陽気な黒人達の性質は、厳しい環境で必死に命を繋いできたからこそかもしれない。
気にせずに一度開いた瞼を閉じて、再び聞こえた声にまた開く。
耳をつんざくような女の人の金切り声。
これは悲鳴だ。
続いて聞き取れない叫び声と。
ただならぬ気配に空気がちりちりと揺れる。
壁の隙間から赤々とした火の粉が入り込み、炎に照らされた影が蠢く。
考えるより先にベッドから飛び起き、家の外へと向かった。
「な、んだ、これ……」
ぱちぱちと音を立てながら燃え盛る家々。
多くの建物が茅葺きの屋根や束ねた木の枝等で出来ているせいで火の回りが早く、まるで焚火の中にいるようだった。
綺麗なほどに揺らめく炎の中に、逃げ惑う人々の影が見える。
宙を舞う灰に白く染まる夜空の下、いたずらに鳴き声を上げる家畜達と。
そして、喧騒の中に響く乾いた何発もの銃声。
――村が、襲われている。
危険を訴える本能に反して身体は動かない。
受け入れ難い状況をただ呆然と眺めている僕を動かしたのは、診療所の方角から聞こえてきた地響きのような轟音だった。
「父さん、母さん……っ!」
弾かれるように走り出す。
あの場所には医者である両親がまだ働いているはずだ。
すれ違う人々を気にせず、真っ直ぐに村の中を突っ切り診療所へと向かう。
辿り着いた目の前には砲撃でも食らったかのように半壊した建物があった。
天井は崩れ落ち、壁は粉々に砕けて飛び散っている。
燃え上がる炎に巻かれ舞い上がる黒煙は雲のように。
左右を素早く見回してから、ひしゃげた扉の隙間から中へと潜り込む。
恐怖など感じなかった。
ただ両親の安否が気になった。
煙が立ち込める中、薄暗がりを手探りで進む。
不意に人の気配を感じて側のベッド下へと身を隠すと、垂れ落ちたシーツの隙間からそっと窺った。
寸刻を置いて黒い影が病室へと入り込み、ぐるりと周りを見回してから止まる。
逆光で表情は見えないが、こちらを見ている。そう思った。
鼓動が跳ねる。息が出来ない。
ゆらりと影が動く。
肩に掛けていた自動小銃を構えたのだと分かった。
――撃たれる!
ぎゅっと目を瞑り、次に来るはずの衝撃を覚悟したと同時に鳴り響く銃声。
撃たれたのだろうか。
構えた銃を下ろして影が去る。
硬直した身体はいまだ動かないが、何処にも痛みは感じられない。
そろそろと瞼を開き、目だけで自分の身体を確認する。
どうやら撃たれてはいなかったようだ。
では一体誰が――、
「……っ!」
そう思った瞬間、シーツの上から落ちてきた手に悲鳴をあげかけた。
力を失いだらりと垂れ下がった腕を伝い、ぽたぽたと流れ落ちる鮮血。
自分が隠れたベッドの上に患者がいたと知る。
そして撃たれたのは自分では無く。
目の前で死んだ。いや、殺されたのだ。
「あ、……あ、」
叫びたくなるのを必死で抑え、言葉にならない声を飲み込む。
早く両親を探さなければ。
震える手足を奮い立たせ、四つ這いのまま壁伝いに進んだ。
瓦礫を掻き分け、行く手を阻む塊を退けようとして、それが先程まで人だったものだと気付き、また悲鳴を押し殺す。
廊下を出て受付の方へ向かおうとした矢先、聞き慣れた声が呼び止めた。
慌てて振り向いた僕の目に映る白衣の人影。
「レイ! よくここに……っ」
走り寄ってきた母が首元に抱き着き、遅れて父が母と共に僕を抱き寄せる。
変わらない温もりに安堵した途端、張り詰めていた緊張が一時緩み、堪えきれず涙となって溢れ出た。
見る間に視界が歪み、泣きそうに笑う両親の顔が滲んで光る。
綺麗な父の金髪も、母の自慢の赤髪も、灰を被ってすっかり白くなっていたけれど、
――生きていた。
今はそれだけで十分だった。
束の間お互いの無事を喜んだ後、すぐにこの状況をなんとかしなければと気持ちを切り替える。
どうやら村を襲っているのは反政府勢力らしい。
植民地支配からの独立を果たした政府と、折り合いが付かなかった旧軍部が対立し今に至っているようだ。
国境付近の山岳地帯を根城にしている彼等は、度々村を襲っては殺戮と略奪を繰り返していた。
首都から遠く離れた村を政府軍が助けに来る頃には既に遅く、貧しいが故に顧みられることも無い。
捨て置かれた地域。
僕が住んでいるのはそんな場所だった。
悲鳴と怒号が飛び交う中、身を屈めながら陰から陰へと走り抜ける。
村の端まで来て、周囲を取り囲むようにして立つ何人もの影に足が止まった。
その手には松明が掲げられ、煌々と辺りを照らしている。
気付かれないように逃げるのは至難の業だろう。
小屋の壁に背中を凭れ、身を寄せ合って息を潜める。
焦げ臭さの混じった熱く乾いた空気に喉が灼けるようだ。
浅い呼吸に肩を揺らしながら、背後の炎と木立の先に広がる暗闇を交互に見る。
危険は承知でも、森の中に逃げた方が助かる可能性は高い。
それとも彼等が去っていくまで隠れているべきか。
否、小さな村に隠れられるような場所は既にもう無い。
軽く頭を壁に打ち付けながら、どうしようかと父が唸る。
不安を浮かべる僕の手を強く握り、覚悟を決めたように笑う母と。
急に声がして顔を向ける。
逃げてくる村人と、追いかける襲撃者。
立ち止まり構えた銃口が背中を狙った、その瞬間だった。
物陰から飛び出した父が村人を庇うように覆い被さる。
間髪入れず、火花を散らして放たれた銃弾がその背を撃ち抜いた。
「父さん!」
「あなた!」
二つの絶叫が同時に響く。
白地に咲き乱れる赤い花。
そのまま地面へと倒れ込んでいく様をただ凝視していた。
声に反応した銃口が次に僕達へと向けられ、
その隙をついた村人が白衣の下から這い出て反対側へと走り出す。
「母さん、駄目だ……っ!」
倒れた父の元へ駆け寄ろうとしかけた母の腕を引き、
後ろへと倒れ込むように逃れた僕の耳元を凶弾が掠めた。
小屋の壁へと突き刺さり、飛び散った木屑を纏いながらただ駆ける。
母も僕も泣いていた。
泣きながらひたすら逃げ惑っていた。
どうしようもない思いに混乱しながら。
きっとあの一瞬、父は目の前の誰かを助けることしか頭に無かったのだろう。
貧しい人にこそ医療をと、母国から遠く離れた途上国へと移り住み、無償で人々を助けてきたからこそ、最後まで人を救う為に迷いもしなかった。
最期まで医者であったのだ。
――父であることよりも。
そして僕と母だけが残された。
ただ一つとなった家族の手を強く握り締め、生きる為に藻掻く。
行く手を阻まれては、幾度も向きを変え、そして、知らず誘導されていたのだろう。
気付けば村の中心部へと追い詰められ、ついに足が止まる。
そこには生き残った村人が集められていた。
続々と銃を構えた反政府の兵士達が逃げないように周りを囲み、家畜を追い込むように切っ先で小突く素振りを見せる。
誰もが顔に不安や恐怖を滲ませ、手を取り、抱き合い、震えていた。
かしこから聞こえるのは、祈るような呟きとすすり泣きの声。
「レイ……」
ぎゅっと抱きしめられ、母の胸の中で目を閉じる。
速い鼓動とかすかに震える身体は僕だけではない。
およそ信じ難い現実は、受け入れるには感情が追い付かずに。
まるで悪夢のようだった。
それでも優しい声音に身を委ねて。
「おい、これで全員か?」
頭一つ背の高いスキンヘッドの男が輪の内へと一歩踏み込む。
シャツやランニングと言った服装ばかりの中、軍服のような身なりをしている事から、恐らくリーダーなのだろう。
傍にいた者からの耳打ち後、首を鳴らすような仕草をした彼は、無機質に僕等を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「ガキとその親だけ残して、後は殺せ」
それは言い慣れた台詞のように。
淀みなく放たれた言葉を聞き、色を失った村人達が一斉にどよめく。
我が身に起こる末路に気付いた者が抵抗を覚えるより早く、躊躇い一つない兵士達が命令に従って動いた。
まずは成人していない子供達が連行され、それに引き摺られるように親が続く。
残された者を円陣の中に押し遣ったかと思うと、掛け声も無く構えられた幾つもの銃が硝煙と共に血飛沫を撒き散らした。
周囲を震わす乾いた破裂音と断末魔。
思わず振り返った視界に、無数の銃弾を身に受けて崩れ落ちていく塊が映る。
驚愕に目を見開いたまま、あるいは苦痛に顔を歪めたまま。
まさに人がモノへと変わっていく瞬間だった。
次々と折り重なっていく犠牲者の一人を見て、あっと声をあげそうになる。
薄暗がりの一瞬でも覚えていた男の姿。
父が命を賭して救ったはずの村人が僕の目の前で息絶えていた。
「――っ!」
形容し難い思いが溢れ、一瞬で目尻が熱くなる。
胸に去来する虚脱感は狂乱の喧騒の中で揉みくちゃとなり、飲み下す隙さえも与えられず。
いつの間にか僕と同じくらいの少年少女だけが集められ、母の姿すらもいなくなっていることに気付いた。
皆が一様に心細さに震え、恐怖に表情を曇らせている。
狭い村が故にほとんどが顔見知りの中、歳が近いことから一番仲良くしている友の姿を見掛け、一目散に走り寄った。
「カリム、無事で良かった……!」
「お前こそ……っ」
驚きに見開いた目が安堵に緩み、白い歯を見せて破顔する。
お互いに抱き締め合い、暫し無事を喜び合った。
しかし、事態が最悪なことには変わりはない。
既に僕達の命運は、自分達の手からは離れているのだ。
転げ落ちていく石をただ眺めるしか術はない。
突として、空に向けられた短銃が銃声を響かせる。
空気が震え、一斉に視線が集まる先に、リーダーであろう背の高い男の姿があった。
「お前達に選択肢をやる。俺達の仲間となるか、死ぬかだ」
およそ二択とは言えない台詞を口にした後、部下へと何かを告げて、あとは任せたとばかりにその場を立ち去っていく。
僕とカリムは言葉に詰まり、ただ顔を見合わせた。
残酷な宣告に狼狽え、周囲がざわつき始めたその時、
「親がいる奴はこっちに来い!」
少し離れた場所からの呼び声にはたと静まる。
従うしかないのだろう。
心配げなカリムに軽く手を振り、呼ばれた方へと他の子供達と共に向かったその先、広がる光景に我が目を疑った。
地面へと突き立てられた木の杭が何本も並び、そこには捕えられた親達が縛り付けられている。
黒髪の中になびく母の赤髪。
殴られたのか砂埃で汚れた顔には血が滲んでいた。
ほんの数歩先、手を伸ばせば触れられる程の距離が果てしなく遠い。
思わず駆け寄りたい衝動に足が震えるも、堪えきれずに親の元へ近寄ろうとした子供達を、兵士達が銃床で殴り付けるのが視界の端に映り、なんとか耐える。
大きく息を吐いて気を鎮めると、真っ直ぐに母を見詰めた。
見返す同じ碧色の瞳が優しい光を放つ。
父譲りの金髪と母譲りの瞳の色は、僕の誇りだった。
愛すべき家族を前にして何も出来ない自分を呪う。
また泣きそうになり、ぎゅっと唇を結ぶだけ。
不意に、ただ立ち尽くすだけの僕等に兵士達が近寄って来たかと思うと、腰から抜き取った拳銃をおもむろに手渡してきた。
安全装置は外され引き金を引けば撃てる状態のそれを握らせると、ぐいと腕を掴んで伸ばされる。
銃身の延長線には、母の姿があった。
耳元に顔が寄せられ、放たれるただ一言。
「撃て」
頭の奥が真っ白になる。
眩暈を覚える意識の片隅で、分かっていたとばかりの諦観と。
生きる為に撃つか、撃たずに共に殺されるか。
あまりにも明確で残酷な選択を。
今、ここで、指先一つで答えなければならないとは。
知らず手が震えだし、照準が揺れる。
ああ、駄目だ。
我慢することに失敗した涙が瞬く間に溢れ、視界を見えなくしていく。
ぼやける景色の中に、けして消えない人影。
「ふっ、ぅ、無理、だよ……」
鼻声が掠れる。
伸ばした腕から力が抜けて落ち掛けた瞬間、響く一発の銃声。
それがまさに引き金とばかり、複数の音が続け様に響いた。
誰かが選択したのだと。
いまだ答えを出せない子供達の間に動揺が走る。
「……っ」
背中を銃の切っ先で突かれ、反動で前につんのめる。
早くやれとばかり急き立てる兵士達。
母はいったいどんな表情をしているのだろう。
肩口で涙を拭い、前を向く。
その顔は、優しく笑っていた。
「レイ、愛してる」
普段の何気ない日常の中に、寝る前のキスと共に、父と母に抱かれた温もりの内に、何度も繰り返されてきた台詞を。
拭ったばかりの涙がたちまちに再び溢れ、鼻水と混ざり、ぐしゃぐしゃになる。
何度も瞬きをして押し流す。
荒くなる呼吸でうまく息が吸えない。
両手で銃を握り締めた。
ひゅっと喉が鳴る。
「あああ――っ!」
叫び声と同時に硝煙を吐く銃口。
瞬きもしないで凝視していた。
記憶に焼き付けるように。
胸に銃弾を受けた身体が一瞬震え、反動で頭が揺れる。
ゆらりと向いた瞳から光が失われ虚ろになる刹那、唇がゆっくりと動き、言葉を紡ごうとしているのが分かった。
喉から血が溢れて声にならない。
それでも。
――生きて。
聞こえなくとも解った。
一度むせ返ると、そのまま糸が切れたようにがくりと項垂れる。
流れ落ちる赤い血と。
全てがスローモーションとなって見えた。
まるで無音映画の一場面のように。
この光景を、僕は一生忘れないだろう。
手から離れた拳銃がごとりと地面へと落ちる。
「ようこそ、親殺しのクズ共! 我等が同朋よ!」
周りの兵士達が銃を掲げ、歓声を上げる。
どっと沸き起こるシュプレヒコール。
背後では燃え尽きた建物がなおも燻ぶり、時折舞い上がった火の粉が煌めいては消えていく。
それは夜空に瞬く星にも見えて。
獣の遠吠えと虫の声、そしてどこまでも続く夜の静寂。
それが日常だった日々は――この日、終わりを告げた。
こんな夜遅くにふざけているのは酔っ払いくらいだろう。
夫が飲んだくれては牛の世話を忘れ、いつも喧嘩をしている隣人を思い出す。
それとも向かいの家に、兄弟の誰かが久しぶりに帰省でもした祝いの宴会なのだろうか。
誰かが叩きだした太鼓に合わせ、笛が鳴り、集まってきた人々が踊り出す、そんな光景は別に珍しくも無かった。
先の事を考えるよりも今を生きる、楽天的で陽気な黒人達の性質は、厳しい環境で必死に命を繋いできたからこそかもしれない。
気にせずに一度開いた瞼を閉じて、再び聞こえた声にまた開く。
耳をつんざくような女の人の金切り声。
これは悲鳴だ。
続いて聞き取れない叫び声と。
ただならぬ気配に空気がちりちりと揺れる。
壁の隙間から赤々とした火の粉が入り込み、炎に照らされた影が蠢く。
考えるより先にベッドから飛び起き、家の外へと向かった。
「な、んだ、これ……」
ぱちぱちと音を立てながら燃え盛る家々。
多くの建物が茅葺きの屋根や束ねた木の枝等で出来ているせいで火の回りが早く、まるで焚火の中にいるようだった。
綺麗なほどに揺らめく炎の中に、逃げ惑う人々の影が見える。
宙を舞う灰に白く染まる夜空の下、いたずらに鳴き声を上げる家畜達と。
そして、喧騒の中に響く乾いた何発もの銃声。
――村が、襲われている。
危険を訴える本能に反して身体は動かない。
受け入れ難い状況をただ呆然と眺めている僕を動かしたのは、診療所の方角から聞こえてきた地響きのような轟音だった。
「父さん、母さん……っ!」
弾かれるように走り出す。
あの場所には医者である両親がまだ働いているはずだ。
すれ違う人々を気にせず、真っ直ぐに村の中を突っ切り診療所へと向かう。
辿り着いた目の前には砲撃でも食らったかのように半壊した建物があった。
天井は崩れ落ち、壁は粉々に砕けて飛び散っている。
燃え上がる炎に巻かれ舞い上がる黒煙は雲のように。
左右を素早く見回してから、ひしゃげた扉の隙間から中へと潜り込む。
恐怖など感じなかった。
ただ両親の安否が気になった。
煙が立ち込める中、薄暗がりを手探りで進む。
不意に人の気配を感じて側のベッド下へと身を隠すと、垂れ落ちたシーツの隙間からそっと窺った。
寸刻を置いて黒い影が病室へと入り込み、ぐるりと周りを見回してから止まる。
逆光で表情は見えないが、こちらを見ている。そう思った。
鼓動が跳ねる。息が出来ない。
ゆらりと影が動く。
肩に掛けていた自動小銃を構えたのだと分かった。
――撃たれる!
ぎゅっと目を瞑り、次に来るはずの衝撃を覚悟したと同時に鳴り響く銃声。
撃たれたのだろうか。
構えた銃を下ろして影が去る。
硬直した身体はいまだ動かないが、何処にも痛みは感じられない。
そろそろと瞼を開き、目だけで自分の身体を確認する。
どうやら撃たれてはいなかったようだ。
では一体誰が――、
「……っ!」
そう思った瞬間、シーツの上から落ちてきた手に悲鳴をあげかけた。
力を失いだらりと垂れ下がった腕を伝い、ぽたぽたと流れ落ちる鮮血。
自分が隠れたベッドの上に患者がいたと知る。
そして撃たれたのは自分では無く。
目の前で死んだ。いや、殺されたのだ。
「あ、……あ、」
叫びたくなるのを必死で抑え、言葉にならない声を飲み込む。
早く両親を探さなければ。
震える手足を奮い立たせ、四つ這いのまま壁伝いに進んだ。
瓦礫を掻き分け、行く手を阻む塊を退けようとして、それが先程まで人だったものだと気付き、また悲鳴を押し殺す。
廊下を出て受付の方へ向かおうとした矢先、聞き慣れた声が呼び止めた。
慌てて振り向いた僕の目に映る白衣の人影。
「レイ! よくここに……っ」
走り寄ってきた母が首元に抱き着き、遅れて父が母と共に僕を抱き寄せる。
変わらない温もりに安堵した途端、張り詰めていた緊張が一時緩み、堪えきれず涙となって溢れ出た。
見る間に視界が歪み、泣きそうに笑う両親の顔が滲んで光る。
綺麗な父の金髪も、母の自慢の赤髪も、灰を被ってすっかり白くなっていたけれど、
――生きていた。
今はそれだけで十分だった。
束の間お互いの無事を喜んだ後、すぐにこの状況をなんとかしなければと気持ちを切り替える。
どうやら村を襲っているのは反政府勢力らしい。
植民地支配からの独立を果たした政府と、折り合いが付かなかった旧軍部が対立し今に至っているようだ。
国境付近の山岳地帯を根城にしている彼等は、度々村を襲っては殺戮と略奪を繰り返していた。
首都から遠く離れた村を政府軍が助けに来る頃には既に遅く、貧しいが故に顧みられることも無い。
捨て置かれた地域。
僕が住んでいるのはそんな場所だった。
悲鳴と怒号が飛び交う中、身を屈めながら陰から陰へと走り抜ける。
村の端まで来て、周囲を取り囲むようにして立つ何人もの影に足が止まった。
その手には松明が掲げられ、煌々と辺りを照らしている。
気付かれないように逃げるのは至難の業だろう。
小屋の壁に背中を凭れ、身を寄せ合って息を潜める。
焦げ臭さの混じった熱く乾いた空気に喉が灼けるようだ。
浅い呼吸に肩を揺らしながら、背後の炎と木立の先に広がる暗闇を交互に見る。
危険は承知でも、森の中に逃げた方が助かる可能性は高い。
それとも彼等が去っていくまで隠れているべきか。
否、小さな村に隠れられるような場所は既にもう無い。
軽く頭を壁に打ち付けながら、どうしようかと父が唸る。
不安を浮かべる僕の手を強く握り、覚悟を決めたように笑う母と。
急に声がして顔を向ける。
逃げてくる村人と、追いかける襲撃者。
立ち止まり構えた銃口が背中を狙った、その瞬間だった。
物陰から飛び出した父が村人を庇うように覆い被さる。
間髪入れず、火花を散らして放たれた銃弾がその背を撃ち抜いた。
「父さん!」
「あなた!」
二つの絶叫が同時に響く。
白地に咲き乱れる赤い花。
そのまま地面へと倒れ込んでいく様をただ凝視していた。
声に反応した銃口が次に僕達へと向けられ、
その隙をついた村人が白衣の下から這い出て反対側へと走り出す。
「母さん、駄目だ……っ!」
倒れた父の元へ駆け寄ろうとしかけた母の腕を引き、
後ろへと倒れ込むように逃れた僕の耳元を凶弾が掠めた。
小屋の壁へと突き刺さり、飛び散った木屑を纏いながらただ駆ける。
母も僕も泣いていた。
泣きながらひたすら逃げ惑っていた。
どうしようもない思いに混乱しながら。
きっとあの一瞬、父は目の前の誰かを助けることしか頭に無かったのだろう。
貧しい人にこそ医療をと、母国から遠く離れた途上国へと移り住み、無償で人々を助けてきたからこそ、最後まで人を救う為に迷いもしなかった。
最期まで医者であったのだ。
――父であることよりも。
そして僕と母だけが残された。
ただ一つとなった家族の手を強く握り締め、生きる為に藻掻く。
行く手を阻まれては、幾度も向きを変え、そして、知らず誘導されていたのだろう。
気付けば村の中心部へと追い詰められ、ついに足が止まる。
そこには生き残った村人が集められていた。
続々と銃を構えた反政府の兵士達が逃げないように周りを囲み、家畜を追い込むように切っ先で小突く素振りを見せる。
誰もが顔に不安や恐怖を滲ませ、手を取り、抱き合い、震えていた。
かしこから聞こえるのは、祈るような呟きとすすり泣きの声。
「レイ……」
ぎゅっと抱きしめられ、母の胸の中で目を閉じる。
速い鼓動とかすかに震える身体は僕だけではない。
およそ信じ難い現実は、受け入れるには感情が追い付かずに。
まるで悪夢のようだった。
それでも優しい声音に身を委ねて。
「おい、これで全員か?」
頭一つ背の高いスキンヘッドの男が輪の内へと一歩踏み込む。
シャツやランニングと言った服装ばかりの中、軍服のような身なりをしている事から、恐らくリーダーなのだろう。
傍にいた者からの耳打ち後、首を鳴らすような仕草をした彼は、無機質に僕等を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「ガキとその親だけ残して、後は殺せ」
それは言い慣れた台詞のように。
淀みなく放たれた言葉を聞き、色を失った村人達が一斉にどよめく。
我が身に起こる末路に気付いた者が抵抗を覚えるより早く、躊躇い一つない兵士達が命令に従って動いた。
まずは成人していない子供達が連行され、それに引き摺られるように親が続く。
残された者を円陣の中に押し遣ったかと思うと、掛け声も無く構えられた幾つもの銃が硝煙と共に血飛沫を撒き散らした。
周囲を震わす乾いた破裂音と断末魔。
思わず振り返った視界に、無数の銃弾を身に受けて崩れ落ちていく塊が映る。
驚愕に目を見開いたまま、あるいは苦痛に顔を歪めたまま。
まさに人がモノへと変わっていく瞬間だった。
次々と折り重なっていく犠牲者の一人を見て、あっと声をあげそうになる。
薄暗がりの一瞬でも覚えていた男の姿。
父が命を賭して救ったはずの村人が僕の目の前で息絶えていた。
「――っ!」
形容し難い思いが溢れ、一瞬で目尻が熱くなる。
胸に去来する虚脱感は狂乱の喧騒の中で揉みくちゃとなり、飲み下す隙さえも与えられず。
いつの間にか僕と同じくらいの少年少女だけが集められ、母の姿すらもいなくなっていることに気付いた。
皆が一様に心細さに震え、恐怖に表情を曇らせている。
狭い村が故にほとんどが顔見知りの中、歳が近いことから一番仲良くしている友の姿を見掛け、一目散に走り寄った。
「カリム、無事で良かった……!」
「お前こそ……っ」
驚きに見開いた目が安堵に緩み、白い歯を見せて破顔する。
お互いに抱き締め合い、暫し無事を喜び合った。
しかし、事態が最悪なことには変わりはない。
既に僕達の命運は、自分達の手からは離れているのだ。
転げ落ちていく石をただ眺めるしか術はない。
突として、空に向けられた短銃が銃声を響かせる。
空気が震え、一斉に視線が集まる先に、リーダーであろう背の高い男の姿があった。
「お前達に選択肢をやる。俺達の仲間となるか、死ぬかだ」
およそ二択とは言えない台詞を口にした後、部下へと何かを告げて、あとは任せたとばかりにその場を立ち去っていく。
僕とカリムは言葉に詰まり、ただ顔を見合わせた。
残酷な宣告に狼狽え、周囲がざわつき始めたその時、
「親がいる奴はこっちに来い!」
少し離れた場所からの呼び声にはたと静まる。
従うしかないのだろう。
心配げなカリムに軽く手を振り、呼ばれた方へと他の子供達と共に向かったその先、広がる光景に我が目を疑った。
地面へと突き立てられた木の杭が何本も並び、そこには捕えられた親達が縛り付けられている。
黒髪の中になびく母の赤髪。
殴られたのか砂埃で汚れた顔には血が滲んでいた。
ほんの数歩先、手を伸ばせば触れられる程の距離が果てしなく遠い。
思わず駆け寄りたい衝動に足が震えるも、堪えきれずに親の元へ近寄ろうとした子供達を、兵士達が銃床で殴り付けるのが視界の端に映り、なんとか耐える。
大きく息を吐いて気を鎮めると、真っ直ぐに母を見詰めた。
見返す同じ碧色の瞳が優しい光を放つ。
父譲りの金髪と母譲りの瞳の色は、僕の誇りだった。
愛すべき家族を前にして何も出来ない自分を呪う。
また泣きそうになり、ぎゅっと唇を結ぶだけ。
不意に、ただ立ち尽くすだけの僕等に兵士達が近寄って来たかと思うと、腰から抜き取った拳銃をおもむろに手渡してきた。
安全装置は外され引き金を引けば撃てる状態のそれを握らせると、ぐいと腕を掴んで伸ばされる。
銃身の延長線には、母の姿があった。
耳元に顔が寄せられ、放たれるただ一言。
「撃て」
頭の奥が真っ白になる。
眩暈を覚える意識の片隅で、分かっていたとばかりの諦観と。
生きる為に撃つか、撃たずに共に殺されるか。
あまりにも明確で残酷な選択を。
今、ここで、指先一つで答えなければならないとは。
知らず手が震えだし、照準が揺れる。
ああ、駄目だ。
我慢することに失敗した涙が瞬く間に溢れ、視界を見えなくしていく。
ぼやける景色の中に、けして消えない人影。
「ふっ、ぅ、無理、だよ……」
鼻声が掠れる。
伸ばした腕から力が抜けて落ち掛けた瞬間、響く一発の銃声。
それがまさに引き金とばかり、複数の音が続け様に響いた。
誰かが選択したのだと。
いまだ答えを出せない子供達の間に動揺が走る。
「……っ」
背中を銃の切っ先で突かれ、反動で前につんのめる。
早くやれとばかり急き立てる兵士達。
母はいったいどんな表情をしているのだろう。
肩口で涙を拭い、前を向く。
その顔は、優しく笑っていた。
「レイ、愛してる」
普段の何気ない日常の中に、寝る前のキスと共に、父と母に抱かれた温もりの内に、何度も繰り返されてきた台詞を。
拭ったばかりの涙がたちまちに再び溢れ、鼻水と混ざり、ぐしゃぐしゃになる。
何度も瞬きをして押し流す。
荒くなる呼吸でうまく息が吸えない。
両手で銃を握り締めた。
ひゅっと喉が鳴る。
「あああ――っ!」
叫び声と同時に硝煙を吐く銃口。
瞬きもしないで凝視していた。
記憶に焼き付けるように。
胸に銃弾を受けた身体が一瞬震え、反動で頭が揺れる。
ゆらりと向いた瞳から光が失われ虚ろになる刹那、唇がゆっくりと動き、言葉を紡ごうとしているのが分かった。
喉から血が溢れて声にならない。
それでも。
――生きて。
聞こえなくとも解った。
一度むせ返ると、そのまま糸が切れたようにがくりと項垂れる。
流れ落ちる赤い血と。
全てがスローモーションとなって見えた。
まるで無音映画の一場面のように。
この光景を、僕は一生忘れないだろう。
手から離れた拳銃がごとりと地面へと落ちる。
「ようこそ、親殺しのクズ共! 我等が同朋よ!」
周りの兵士達が銃を掲げ、歓声を上げる。
どっと沸き起こるシュプレヒコール。
背後では燃え尽きた建物がなおも燻ぶり、時折舞い上がった火の粉が煌めいては消えていく。
それは夜空に瞬く星にも見えて。
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それが日常だった日々は――この日、終わりを告げた。
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