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Ⅵ. loveless
しおりを挟む週末、いつもより少し遅れて帰ってきた男は約束通りにワインを手にしていた。
荷物を脇に置くと作業着を性急に脱ぎ捨て、下着だけとなってベッドに上がり込む。
温もりを確かめるように胸に顔を埋めるその髪を、青年が優しく掻き抱いて。
「……お帰り」
鼻をつくオイルと煙草の臭い。
嗅ぎ慣れた体臭と。
汗ばんだ背を撫でながら、自らの下半身が疼くのを青年は確かに感じていた。
幾度となく繰り返された行為に、望まずとも慣れてしまった己を自嘲しながら、嫌悪にしかめる表情を気取られぬよう、男の肩口に唇を落とし、両脚を広げて劣情を誘う。
無骨な手が腿を押し広げ、続いて入口に押し当てられる感触に打ち震えるまま。
その先に与えられる快楽を待ちわびるよう、見上げる顔が切なげに歪むと同時、先走りを潤滑油代わりに男は青年の奥へと一息に腰を進めた。
「ぅ、……はっ……あぁっ」
背をしならせて喘ぐ。
続け様に打ち付けられる衝撃に耐えながら。
淫らな声を上げ乱れる青年の姿は男を興奮させるのには十分だった。
乱暴に肩を掴んでうつ伏せにさせると、骨ばった腰を両腕で抱え込むようにして深く突き上げる。
ずん、と最奥を抉る衝撃と、内臓を突き破る程の痛み。
「いっ、やめっ、――――!」
限界を超えて押し入る感触に青年がたまらず叫ぶ。
込み上げる嘔吐感。
目尻に涙を滲ませながら、頭を振り懇願する姿を男は気にも留めずに。
「んー、……もう少し、だ」
暴れようとする身体を抑え込み、下腹部を優しく撫でてやる。
自らを犯すその輪郭を分からせるように。
そのまま容赦なく最奥を蹂躙した男は、ぶるぶると身を震わせて精を放つと、ようやく青年を解放したのだった。
煙で薄く曇った室内に換気扇の音が響く。
いまだぐったりとシーツの上に倒れ込んでいる青年を尻目に、一服を済ませた男は上着だけを羽織ると、棚の引き出しを開けて何かを探し始めた。
雑多な小物の中に埋もれていたコップを見付けると、埃塗れのそれに軽く息を吹き掛け、服の裾で染み付いた汚れを拭う。
続いて買って来た袋の中から手に取った物を、男はこれ見よがしに青年の目の前へと置いてみせた。
暗く光る黒褐色の瓶に、チリ産と書いた安っぽげなラベル。
待っていたとばかり、がばっと起き上がるその手にコップを渡すと、中身をなみなみと注ぐ。
たちまちに満ちる濃い赤紫が縁を濡らして。
「……ありがとう」
思わず零した青年の呟きに、男がふっと口端を歪める。
ワインを飲むにはあまりにも色気が無かったが、十分だった。
表面が揺らぐ度、ふわっと漂う独特の香りと、鼻をつくアルコールの匂い。
久しぶりの感覚に痺れたように、眉根を寄せながらも満足そうな笑みを浮かべる青年と。
ベッドの上には酒の肴。
あとは他愛も無い話があれば、それだけで気持ち良く酔えるだろう。
長い夜の予感に、青年はそっと目を細めた。
***
ささやかな宴は夜が更ける頃にやっと終わりを迎えた。
床の上には食べ終わったつまみの袋と、空いたワインボトルが転がっている。
静かな室内に大きないびきを響かせている主は、一枚の毛布を占領して深い眠りの中にいた。
その隣で窮屈そうに身を屈めている影が、そろそろと身体を起こす。
音を立てぬようそっと足を下ろし、気配を窺うようにしながらベッドから降りると、尚も顔は寝ている相手に向けたまま身を屈め、暗がりの中、手探りで何かを探す。
見付けたそれを両手で握り締めると、大きく頭上に振りかぶり――そこで動きは止まった。
ワインボトルを手に構える青年と、露知らず寝息を立てる男。
それは青年がやっと手にした千載一遇の好機だった。
従順を装い心を開かせたところで油断を誘う。
計画はいたってシンプルだった。
男がどれだけ酒に弱いのかが心配だったが、普段飲んでいる量からして、強くは無いと踏んでいた。
案の定、飲み慣れないワインに男は早々に酔い潰れてしまい、この時ばかりは自分の酒の強さに感謝したのだった。
このまま振り下ろせば全て終わる。
なのに――。
ピクリとも動かない両腕を掲げたまま、ギリと歯を噛み締める。
待ち望んでいた瞬間になって今、人の命を奪う事に躊躇を覚えたのだ。
あれだけ虐げられても尚、迷うとは。
己の甘さと弱さに呆れるより他は無い。
強く目を瞑って開いた瞬間、青年は男と目が合うのを確かに感じた。
「っ、――――!」
何も考えられなかった。
反射的に振り下ろした両腕に、酷く鈍い衝撃が伝わったような気がした。
大きく息を吐いて後ろへと倒れ込む。
尻餅を付いて見上げた先、黒い人影がゆらりと蠢くのが見えた。
「お、……ま、え……っ」
片手で頭を抱えながら、低く唸る声は呪詛のように。
もう片方の手が殺意を込めて青年へと伸ばされる。
「あ、あああぁああ――!」
無我夢中でその手を振り払い、勢いのまま掴んだ鎖を男の首へと巻き付ける。
叫んでいるのか泣き喚いているのかもう分からない。
ただ力いっぱいに鎖を引き続けた。
ドタドタと暴れる振動がやがて痙攣に変わり、顔と言わず身体と言わず殴り付けてくる拳がついには力を失うまで。
割れるような耳鳴りが消え、静寂が戻る。
忘れていた呼吸を思い出して、青年は大きく咳込んだ。
強張った身体をゆっくりと緩め、視線だけをそっと下に向ける。
足元に転がる大きな塊を。
無意識に手を離れた鎖が高い音を立てて落ち、飛び跳ねるように後退した。
本当に――やったのか。
凝視したまま、じりじりと足を伸ばし爪先で小突く。
鈍く跳ね返る感触に。
「……あ、っは、……ははっ、」
確かに動かない事を理解した青年の口から、乾いた笑い声が上がる。
笑いながらも悲痛に顔を歪め、両手で顔を覆う。
深く長い息を吐き出してから顔を上げた青年は、もう平静を取り戻していた。
落ち着いた動きで男の荷物を漁り、鍵を探し出す。
手探りで首元の錠を外したかと思うと、勢いよく首枷を床の上へと投げ付ける。
重く響く振動と金属音。
弧を描き落ちる鎖の軽い音がその後に続いて。
それは長らく青年を苦しめていた呪縛から解き放たれる音だった。
薄汚れたシャツを脱ぎ捨て、乱雑に積まれた山から自分が着ていた服を拾い上げる。
ゆっくりと袖に手を通しながら、青年は始まりのあの日を思い出していた。
赤の他人によって奪われる理不尽さを知らなかった己を。
同時に、知らなかった頃に二度と戻る事が出来ないとも。
今思えば、未だ何も失ってなどいなかったにも関わらず、何故自ら命を捨てようなど思ったのだろうか。
緩んだ服のサイズが、監禁生活の間に痩せた身体を思い知らせる。
与えられた苦痛も恐怖も屈辱も、けして忘れる事は出来ないだろう。
それでも、逃げる事を選び、こうして自由を再び手にしたのだから。
今度こそ自分の選択に従おうと。
両脚に力を込めて立ち上がる。
触れたドアノブを回しながら扉を開いた――瞬間、
「――――っ」
真っ白な光に視界が奪われる。
目が眩む中、迷わず外へと足を踏み出した。
瞼の裏の明るさに慣れてから、何度か瞬きをして目を開き、
「……あぁ……」
視界いっぱいに広がる景色に息を呑む。
果てなく続く青空の下、朝陽を浴びて燦然と輝く山々の新緑。
澄んだ空気に響く鳥のさえずりと。
枝葉は生命力に満ち溢れ、初夏の陽射しに青々と萌える。
外界から切り離され、死んでいたに等しい青年の目に映る、活き活きとした世界の姿。
「ぅ、……っふ、ああ、」
自然と涙が流れ出す。
ただただ、美しかった。
それは生きているだけで良いのだと、全てを肯定するように煌めいて。
ふと視線を横に向けて、少し離れたところにある母屋に気付く。
昔ながらの家屋、その奥に。
男の言う通りならば、今なお残されたままの惨劇を。
振り返って、粗末なプレハブ倉庫を見て、青年はぞっとした。
もうここには死しか残っていないのだと。
奥歯を噛み締め、背を向ける。
弱った足腰を奮い立たせると、青年は迷いのない足取りで山道を下り始めて行った。
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