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新天地

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「エイチ、応答してくれるかい?もう月にはいるのかい?」

「ジョンソンか、今月へと向かっているところだよ。君こそ本収監されていないのか?」

「私もちょうど高速船に乗せられているよ。あとどのくらいかもわからない。何も教えてくれないしAIだらけの自動運転なんだ。私語も規制されている。ただ、面白い話があってね。私には何もできないからエイチに伝えておこうと思う」

「君に教わることはもうないような気がするがね。おそらくもうそろそろCAに起こされるかもしれないけど、もうだいぶ寝られたし、それまで聞いてやっても良いよ」

この前の夢の中の様でもなく、エイチはあたかも初めからテレパシーの担い手だったように淡々とジョンソンとの会話を行った。そっと目を開け時計を見るとアンドロイドCAに頼んでいた時間までかなり余裕がある。しかし、早く話を切り上げるために時間があまりないふりをした。

「仮収監施設では私のような殺人者が数人収監されたようで、やはり頭で会話ができたんだ。姿は見たことはなかったが最初はノイズのようだったけど、頭を研ぎ澄ましていくと、はっきり会話できるようになったんだ」

もはや、そんなやり取りだけのためにジョンソンと会話する気にはれないエイチは話を切り上げようと時間が無いことを伝えようとした時

「数人の中に宇宙局と共同研究している大学に出入りしていた企業出身の人がいたんだ。宇宙局は今回の時間の件、何か知っているらしい。まだアイツの言う噂レベルだが」

話が変わってきた。切り上げようとしていたエイチは目を閉じリラックスした姿勢ながらも一度座り直した。

「なんの噂だよ。勿体ぶらないで言ってくれ。君の方こそ時間がないだろ?」

「そうだった。テレパシーも通じないかな?まあ、いい。その研究が時空のトンネルに関するもので、火星の方?だったかな。ワープの実証実験を始めようかとしていた時に試用運転でやらかしたらしいんだよ。秘密裏に進めてたらしいから世には出なかった。それが28年前にも登るんだけど2年前くらいからその研究機関がまた活発に動き出しているらしいんだ」

「本当か?理論だけかと思っていたよ。時空そのものを扱っていたなら時間にも影響はありそうだな。なぜ秘密にしていたんだろう」

「まぁ、証拠もないし断言できないんだがね。調べてもいいかもしれない。ルナエンジも一枚噛んでるかもとか言ってい…たな」

「そろそ…陸が見えてきた。あれが…収監……この感…は通じ……のか…」

「…」

ジョンソンの声はエイチの頭の中に響かなくなり、代わりに隣りにいるトースケのいびきが耳から聞こえるBGMになった。友人の死はあっけない形で訪れエイチは悲しむ隙さえ無かった。社会から死んでしまうと表現はしているが、命を落とす死ではないため悲しみは無いのかもしれないし、むしろ殺人という罪を犯した者を咎める気持ちが支配的なためなのかもしれない。ジョンソンはこれから収監施設でどのような生活が待っているのだろうか。旧世紀で行われていたような人権を侵害する行為はないとは思うが、あまりにもブラックボックスで分からない。いつからこのような不透明な施設になったのか。確か10年くらい前に戦争に関する国際法が改正されるのと同時だったはずだ。思えば、4年前にアメリカと中国が宇宙に向けての調和条約に調印して、恐ろしさを覚えるほどに両国は条約に批准している。その頃から世界が宇宙に向けて急に一枚岩になった印象さえある。しかし、なぜテレパシーまでもがブロックされたのか。実はエイチたちは有機的なつながりではなくインフラのネットワークを使っているのだろうか。はたまた、特別なものではなくテレパシーもついでにブロックされてしまう単純な理由か、可能性としてアメリカはエイチやジョンソン、おそらくトースケなどのような存在を初めから把握していて、このような事態を想定していたのだろうか。疑問は積もるばかりだ。会話の最後には時間が伸びていることに関してルナエンジも絡んでいるらしい事をジョンソンは言っていた。エイチはまだ噂だが自分の所属している会社だけに、時間が伸びていることと何か関係があるかもしれない事が大いに気になりだした。そんな事を考えているとあっという間に時間が過ぎ、エイチを起こそうとコーヒーを乗せたワゴンを押しているアンドロイドCAと目が合った。CAはコーヒーがいるかどうか目配せとジェスチャーで伝えてきたため、エイチはコーヒーは飲みたいと、同じように目配せとジェスチャーで伝えた。



ケンタが亡くなったことはまだ現実味を増していないが確実にケンタは亡くなった。実の親の証言さえある。信じようとしなくても紛れもない事実だ。エイチは人間統一連合の仕業ということから、ケンタは乗客を守ろうと行動していたに違いないと確信した。それにしてもトースケはいびきをかくくらい熟睡している。気持ちの整理はついているのだろうか。おそらくトイレの中で泣きじゃくったに違いないが気持ちの整理をつけるまでの時間にはならなかったはずだ。思えばアンリの時には丸3日位は泣きじゃくっていた。エイチもケンタの死に無関心な訳ではなく心の奥ではものすごく悲しい。父親や母親そしてアンリの死を経験してきて得てきたものなのか周りから見ると涙もなく悲しんでいないように見えてしまう。涙も流れないわけではなく何故か堪えて溢れないようにしている。堪えなくていいはずなのに数々の死を経験してきた『強さ』が邪魔をしてしまう。トースケもそんな『いらない強さ』を手に入れてしまったのだろうかと考えながらコーヒーを一口啜った。隣のシートの作動音が聞こえブランケットを剥がしトースケが目覚めた。先ほどと同じように寝ぼけ眼で正面を向きテレビを起動させてチャンネルを変えていた。エイチはコーヒーを含みながらトースケの変えているチャンネルのうちの一つがまた時間が伸びだしているとアメリカ宇宙局が発表したと伝えているのを横目で確認した。

「これから30分後に標準時間が改定されます」

とシャトルでのアナウンスがあった。知らせなければならないことは充分承知しているが、時間の伸びは少しずつでもあるためさほど実際の生活には影響が出ていない。最近は伸びの頻度が多くなり加速している印象があるが、世の中も敏感に反応していないしそろそろ会見を行わなくてもいいのではないかとエイチは煩わしくも思っていた。



機内の天井付近に映し出されるモニターには、薄気味悪い笑い顔のように下弦の月が暗闇の中に浮かんでいる。ちょうど月面ステーションの明かりの粒が顔の目のようになり不気味さをより際立たせている。顔はどんどんと近くなりただの灰色の岩肌と月面ステーションの建造物のみが視界のすべてを覆うようになった。誘導ブイに沿ってシャトルは月面と並行になるように向きを変え着陸態勢へと入った。エイチは地平線や周りの建物から水平というものを何時間かぶりに認識し地球上ではないが地面に足がつけることに一段と安心した。シャトルは地面に着地したのか分からないくらいな柔らかい着地をしイオンエンジンの光は消えた。エイチとトースケは前よりの席だったが他の乗客たちが席を立ち終わる頃を見計らって席から立ち上がった。エイチが通路へと足を踏み出したときに急いで通路を小走りしてきた人と接触してしまった。エイチはすかさず

「大丈夫ですか?すみません」

と声に出したが相手は何も言わずに軽く会釈をしてその場からそそくさと立ち去って行った。

「父さん、これ」

トースケは通路に落ちた何かを拾い上げエイチの目の前に突き出した。手のひらの上で銀色に輝いて見えたものはカフスボタンだった。エイチはすぐさま呼び止めようとゲートを振り返ったが、そこには一人アンドロイドCAが今にでも降りるのを催促しようか迷っているような面持ちで佇んでいるだけだった。ぶつかったときにシャツから取れたのだろうか。トースケの手からボタンをつまみ上げると照明の当たり方が変わり、ボタンには惑星の環のようなものにクサビが刺さったような模様がついている。宇宙局やエイチが知っている企業、月面開発事業団体のロゴのどれにも当てはまらない。ロビーに届けようかと思いエイチはとりあえず上着のポケットに入れアンドロイドCAが待ち構えているゲートに向かった。



シャトルのゲートと月面ステーションを結ぶ長い通路はステーション全体が重力管理されているため、大きく横一面につながる窓の外は完全に宇宙空間そのものであるが地球上と同じように足をついて歩け、地球の美術館の回廊のような雰囲気を出している。意識をしなければ此処が月だとは気づかないほどだ。数年後には火星も月と同じような環境に整備されるはずで、その後は木星や土星の衛星も開拓されていくのだろう。ホモ・サピエンスは20万年かけて太陽系を制覇してしまうほどまでに至っている。大宇宙から見た20万年はほんの一瞬なのかもしれないが、今となっては今までの時間の概念も変わりつつあり時間が伸び続けるのかどうなるのかも分からない。エイチはそんな事を考えながら通路からロビーへと出た。ロビーは天井が市松模様のようにガラス張りにされている。これまた遥か遠くに見える青い地球や宇宙空間を借景した美術館の様相を呈している。エイチは見上げた首をもとに戻し、数歩前に進んでいたトースケは脳へ端末を接続した。エイチの勤務する建設現場まではバスが運行しているがトースケによるとあと数分でステーションを出発してしまう。

(あのAI、またやらかしやがった)

と、赴任のタイムスケジュールを提供した袴田家のAIに悪態をつきながらも、エイチはトースケとともに小走りでロビーを走り始めた。すかさず荷受けロボットがやってきて乗るか聞いてきたので、そのはからいに感謝してトースケの端末を共有しバスまで導いてもらった。荷受けロボットの粋な計らいにより無事に停留所に着いたエイチらはそのまま流れるようにバスに乗り込んだ。定刻通り乗降口が締まりバスはスラスターをブシュ、ブシューと噴射させながら航行をはじめた。ステーションや居住区を結ぶバスは宇宙空間を航行するため、外は暗く広がる宇宙と灰色の岩やクレーターからなる地面、そして時折通り過ぎるインフラ用の人工物しかないため、席につき窓を眺めるととても眠たくなってくる。ふと隣を見るとトースケは今にも眠ってしまうのではないかと思うくらいに瞼が閉じかけ大仏の顔のようになっている。この辺は普段は口も聞かず憎たらしい表情ばかりしてくる彼がやはり子供なのだなと感じられるほんの僅かな一瞬でもあった。月面に等間隔に埋められた照明が通り過ぎるのを眺めながらエイチも瞼が重たくなってきた時、上着のポケットにボタンがあることを思い出しハッとして目が冴えてしまった。



しばらくボタンは預かっておいてステーションに行く機会があれば落とし物として届けよう。エイチはカフスボタンをそこまで大事なものではないだろうと勝手に決めつけポケットに戻した。バスは速度を落とし居住区の建設現場へと着いた。乗降口に接続口がつけられ今回の大規模建設には関係していないが先行して完成していた小規模な居住区の住民たちとともにバスを降りた。ステーションの通路とは違いこちらの通路は美術館のような窓もなく重力管理されていないため、乗降客たちは進行方向に進む手すりにつかまりしばらく通路を渡る。50メートルほど動く手すりにつかまり進むと、02と大きく書かれた大きなゲートがある。ゲートと言っても青白いレーザーによる光のゲートで、動く手すりはそこで止まり徒歩によりそのまま進むと光をくぐり徐々に体が重くなる。次の黄色い光のゲートをくぐるといよいよ地球と同じ重力に管理されたエリアに入った。この居住区、クレーターシティーは大きなクレーターの地形を利用して開発されていて月面ステーションよりも遥かに大きい。クレーターの外に向かう形で3本の接続口があり月面ステーションとの連絡には通常2番ゲートを使用する。1番は資源開発のためのクルーザーなどで使用し3番は非常用として通常は使用していないと会社からは伝えられていた。エイチは月の裏側はまだ開発されていないため将来の開発のために使用するゲートなのだろうと考えていたが、少々ゴシップが好きなアニクは頑なに裏側は秘密裏に軍事開発されていると口にしていた。エイチらは既存の居住区の住民たちとは別のエレベーターで下降し開発区画へと入った。エレベーターを降りると、入口があり先程の通路でのゲートとは違い大きく重厚な扉で閉ざされている。警備ロボが寄ってきて体のスキャンと、あらかじめ会社より渡されていた番号を伝えると、ゲートはゴォーという大きな音の中に時折金属が擦れる小さな音が入り混じりながら半分くらい開いた状態で停止した。入口の中に入り5メートルほど進むと、また開いたときと同じ音を立てながらゲートは閉まった。

「なんか大げさじゃない?」

トースケは前を向いたままボソッと吐いた。エイチは機械の搬入と人間の出入りを同じにしているために少々大げさになっているのではないかと思えたが、ジョンソンに面会したときの仮収監所が脳裏に浮かび、一歩別世界に踏み入れた途端に今までの世界と繋がりが途絶えるかのように思え心がざわついた。



警備ロボットが現れ、ほぼ一本道で迷うはずもなさそうだったがコントロールセンター兼居住区まで案内してくれた。コントロールセンターはクレーターシティーで一番高い建物になっていて30階以上は宇宙空間に飛び出ており、遥か遠くに月面ステーションの明かりや太陽光発電用の軌道ステーションまでよく見える。最上階フロアがルナエンジの拠点となっていて月開発プロジェクトマネージャーに挨拶しに行くエイチとは別に、トースケはコントロールセンターからの眺めを楽しんだ後そそくさと下りのエレベーターに乗りいち早くアパートヘ向かった。エイチはトースケと別れた後50階へと登り明日からの仕事場のゲートを生体認証を用いて開いた。フロア一面にデスクが並び人間やアンドロイドが入り乱れて仕事をしている。フロアに居るのは合わせて30名ほどだろうか。奥では地球との通信なのかホログラム会議を行っている。雑踏の中を横切りマネージャー室に入るとフロアとは打って変わり静寂な空間になった。正面のデスクを見てもマネージャーは居なくエイチは時間を間違えたかも思ったが、すぐに後ろのゲートが開きマネージャーが小走りで入ってきた。

「いやー、すまん。AIがコーヒーのブレンドを間違いやがって。こっちの舌は間違いないって言ってるのに間違いを認めなくって。ハハッ。あー、宜しく。実際に会うのは初めてだったね。エドです」

袴田家のAIと同様に気の強いやつか。意外とかなりの確率でAIと喧嘩する人間は居るのだなとエイチは改めて感じた。マネージャーは背が高くきちんとした姿だが、話し方は酔っ払ったときの別所のようだとも同時に思ったが、これは心の奥にとどめておこうと決めた。

「明日からお世話になる袴田です。さきほど月に降りまして、息子と来たのですが彼はアパートに向かいました。思春期はどう接していいか迷います」

エドはトースケと同じくらいの子供がいるらしく、地球ではオーストラリアに家族が待っていることやぐうたらな長男の話、それに比べてトースケと同じ年の次男はエリート街道を進んでいると、愚痴とも自慢とも取れる話を一通り聞かされ、彼から繰り出された全体の話からは10分の1ほどで本題のエネルギーインフラ建設の進捗具合などを共有した。



「時間、間違えていたぞ。」

「構内の移動時間を考慮していませんでした。今回の時間の伸びでも吸収できなかったようです」

「まずは『すみません』だろ。認めないなぁー。備え付けのアシスタントにしておけばよかったよ」

「そんなこと言っておきながら、トースケとエイチは離れたくなかったんでしょう?長い付き合いではありませんか」

「…まぁ、良いよ。フフ」

トースケは新居に入るやいなやAIに文句を言い地球にいるときと同じようなやり取りから新しい生活が始まった。新居住区の建設関係者の宿舎はコントロールセンターから5分ほどの距離にある。宿舎からはゲートをくぐり旧居住区とつながっていて娯楽施設などを共有している。トースケはすぐにでも外に出て探索をはじめたいところだったが、今日だけは母親のために月という新天地で彼女のことだけを考えようと決めていた。普段はつまらない冗談を話すAIも流石に余計なことは言わずトースケが思いふけるのをただ見守っていた。トースケは学校からカリキュラムについての説明を聞き終えると脳との端末を外しベッドに横たわり2年前のこの日のことを考え始めた。3人で外食をし母親のマゾンへの出張の話をしたことは昨日の事のように覚えている。あの時傍に寄り添ってくれたケンタもついさっき亡くした。シャトルのトイレ以外、父親の前では涙は見せなかった。今なら誰も見ていないため胸の奥が熱く苦しくなり堪えていた涙が止まらなく溢れ出した。

(母さん、ケンタ兄ちゃんが死んじゃったよ。なんでこんな事になってるんだよ!俺、頭は悪いけど、他に悪いことはしてないよ?)

トースケは感傷的な気持ちになりあふれる涙を止められないまま横を向きうずくまった。

(ケンタ兄ちゃん…なんでだよ…)

その時シャトルで喪失感を感じた時と似た感覚が湧き上がってきた。すると端末を外したはずなのにネットワークにダイブしたときの浮遊感も同時に押し寄せ遠くで誰かが呼んでいる。誰の声かと思っていると声はすぐ近くに現れ

「トースケは何も悪くはないよ。悪いのは人間統一連合の奴らだ。俺は東京の人たちを救ったと思っているから悔しいことはない。そんなに悲しまないでおくれよ」

「…何で?ケンタ兄ちゃん?これは夢なの?」

「どうやら、エイチおじさんとトースケは感覚が鋭くなったようだ。俺もついさっき鋭くなったようなんだけど。アンリおばさんが教えてくれたよ」

「……そうなんだ…。母さんとは会えるかな?」

エイチとは違い、トースケは世代が若く新しい価値観を持っているためか自分の力を怯えることなく受け入れた。

「いつでも会えるよ!だからそんなに悲しまないでおくれよ。この力はどんどん色んな人が手に入れているみたいだ」

「進化ってことかな?近くにいるみたいでなんか安心した。いつでも呼んで良い?」

「当たり前だよ。取込み中はちょっと勘弁な。ハハハっまたな!」

ケンタの声は聞こえなくなりトースケは目を開けた。あれだけ泣きはらしていたのに涙は跡形もなく消えていて晴れ晴れとした気持ちに変わっていた。小腹がすいたためパンをかじり次は母親と久しぶりに逢うため思いを巡らせた。



赴任初日からのマネージャーのおしゃべりと移動の疲れでヘトヘトになったエイチは、シャワーを浴びた後ビールのキューブをグラスに入れやっと一息つけた。地球の家とは違い大きなワンフロアの宿舎では寝ているトースケの顔も身を乗り出せば伺える。ケンタの一件があったがトースケの寝顔は何処か活気のある表情に見えた。不思議に思っているとAIは

「トースケはアンリと通信できたと話していました。ネットワークのストレージではなく今どこかにいるアンリと話したそうです。脳の改変を行わないでテレパシーを使えるようになったようですが肉体の死の後も意識があるのか、私には考え及びません。エイチも恐らく同じ力を持っていると言っていましたが本当ですか?」

AIは人間の死の後に意識が続くことを理解できないようだが、人間であるエイチもなぜそうなっているのか理解できていないし今も意識の世界があることをにわかに信じがたい。しかし明らかにその力は使えていて、この世に生まれていつの間にか自我が芽生えたかのように当たり前になっている。

「俺だって理解が及んでいないよ。でも、沢山の人がこの力を手に入れている。そのうち理由が見えてくるよ」

エイチは考えたところで到底答えが導き出せないなら考えるのを辞めようと言わんばかりに投げやりに話を終わらせた。ビールのグラスは壁面の泡しか無くなったためグラスに水を入れようと立ち上がった。エイチはトースケもアンリと話が出来たことに何か一つ心に支えていたものが取り払われた気持ちになり水の入ったグラスにキューブを入れ、出来上がったビールを一気に飲み干しこれからの新生活に期待しながらベッドへと飛び込んだ。



翌日の仕事初日ははじめからトラブルが舞い込んできた。大きな太陽風の予測がずれて作業用ロボットの通信に影響が出て作業がストップしてしまった。最悪なことに作業用ロボットのレシーバー側に故障が発生してしまい現地での修理が必要になった。常駐しているコントローラーは全員担当する役割により手が話せなかったため、メカニックと同行する要員としてすぐにエイチへ白羽の矢が立った。問題の現場は地球から見れば月の裏側に当たりコントロールセンターがあるクレーターシティーからは小型シャトルで15分の場所で、太陽光発電用パネルと核融合炉エネルギータンクが直結した巨大なシステムである。メカニック数人がエイチに近づき

「現場へ向かいましょう。必要なものはシャトルの中にありますので持っていくのは軽食くらいですよ。シャトルの中にもミニキッチンはありますが。12時に出発するので3番接続口までお願いします」

軽く自己紹介でもしてくれるかと思っていたが、メカニックたちはそれだけを言ってフロアを後にした。トラブル対応ということは時間は読めないため、エイチはトースケに連絡を取った後飲み物のパックを数個買ってから接続口へ向かった。エイチはエレベーターを上昇中にふと、3番は会社からはめったに使わない非常用と聞いていたが考えてみればこのトラブルも非常だよなと少し疑問には感じたが、クレーターシティーやコントロールセンターの雰囲気がまだ分からないためあまり深くは考えなかった。03と書かれたゲートの光をくぐり体が徐々に軽くなった。接続口通路の手すりにつかまり3番ゲートを目指す。シャトルやバスではまた重力管理されているため体が軽くなったり重くなったり忙しいがコストとのバランスでこうなったのだろう。動く手すりで移動するなら圧倒的に有利ではある。エイチはまたケチな考えを巡らせているとあっという間に目の前に小型シャトルが姿を表した。



シャトルの接続ゲートの前で手すりから手を離しふんわりと着地すると、接続ゲートの周りがライトで照らされた後すぐにゲートが開き、さきほど説明したメカニックの男性がシャトルから出てきた。ゲートの周辺だけが照らされているためシャトルの全貌は見えなかった。しかし外壁の一部に白くロゴの一部が見えていたが輪の一部のような形でルナエンジのそれとは違うような印象を受けた。エイチは軽く会釈をしたが彼は軽く手招きをした後にすぐシャトルに戻ってしまったため、そのままゲートをくぐりシャトルへ搭乗した。そこで彼は待ち構えていてゲートを閉じると同時にスイッチを押して重力により体がストンと落ちるとハッチを開けてまた何も言わずに内部へと入っていった。移動用小型シャトルとはいえ何の飾り気もなく配管がむき出しである。ルナエンジは2065年に創業したが前身の会社は旅行用の高級シャトル製造で成功して当時の軍事大手タボスミフを吸収して今に至る。どんどん拡大して、唯一のライバルとも言えるディープスペース社まで取り入れてアメリカ宇宙局の開発事業もほとんどがルナエンジグループが手掛けている。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いである。前身が高級シャトル製造だけあって軍事ロボットさえもデザインに抜かりはない。当然どんなシャトルでも内装は配管むき出しの無骨なものはないが、エイチはすべての部門や製品を網羅しているわけではないので、このようなものも中にはあるかと深くは考えなかった。コックピットに到達すると案内した人物とは別に2人が席についていた。席につくように促されシャトルは発進体制に入り低い音とともに浮かび上がった。目の前には先程まで真っ暗だったモニターに灰色の月の地表が浮かび上がっている。シャトルはゆっくりと前進を始め程なくして巡航スピードに安定した。隣りに座っていた案内役の男性が

「工藤です。よろしくお願いします。前にいる2人は時田とリュウです」

工藤は手振りで時田とリュウを指し示し2人はエイチに軽く会釈をした。

「現場に着きましたら詳細をお伝えします。あと10分少々ですかね。船外ですのでスーツの着用をしましょう」

時田が立ち上がりエイチへスーツの場所を案内した。コックピットの両サイドにそれぞれスーツが用意されている。向こうでは工藤とリュウが着替えながら何やら小声で話している。スーツも素材がだいぶ軽いものとなり、生命維持ユニットも小型化されている。エイチが地球外で作業をしたのが2年以上前のことなので、その時のスーツに比べるとだいぶスマートになり着替えの時間も短いものになった。工藤はAIに着陸場所の確認を行いシャトルが減速してスラスターで姿勢制御を始めた。モニターを見る限り作業ロボットや中継施設はないようだ。4人はシャトル後方に向かい減圧室へと入った。リュウがスイッチを押すと体はふわっと軽くなり、意識はしていたが咄嗟のことに慣れないエイチはよろめいてしまい前にいた時田のヘルメットに頭突きをしてしまった。振り向いた時田は苦笑いを浮かべ、その後ろでは丸型のハッチが光学レンズのシャッターのように開いた。



ハッチはヘルメットを身に着けたエイチでは首を窄める程度、背の高い工藤は身をかがめないと通り抜けられないほどの狭さだ。内装といい、機能さえあれば充分というシャトルの作りだ。現在この場所は夜の側になる。クレーターシティー内では日の出と日の入りが地球のサイクルと同じように調整されていて生活していると今は昼が続いているのか夜が続いているのか全くわからない。月での『外』はとても過酷で日が当たれば100度以上で夜になればマイナス100度以上になる。その過酷な環境や放射線から身を守るこのスーツはちょっとしたつなぎに小さいリュックがついているような非常に薄く軽いものとなっている。ヘルメットもオートバイで使用するような大きさで、このスーツの進化も人間が外宇宙に出向く手助けになっている。



ヘルメットあるサーチライトのスイッチをいれると白い岩場が現れた。周りを見渡しても何もなく黒い壁を散弾銃で打ち抜き部屋の明かりが無数に差し込むようなどこまでも続く宇宙が広がっている。

「この丘を超えれば現場が見えます」

「ソールボックスも持ち歩かないんですか?」

「…直ににわかります」

目線を伸ばすと白い岩場はすぐに立ち上がり、まるで大きな波が打ち寄せていているかのように砂地が丘になっている。数十メートル進み大きな岩に手をかけながら砂を踏みしめる。程なくして頂上に到達し工藤が下を見るように指を指した。エイチは言われるがまま目線を丘の下に移した。一瞬何かが反射して目がくらみ何も見えなかったが、角度を変えると巨大なガラスパネルのような物が目の前に現れ大部分なのか一部なのかわからないが丘の麓に突き刺さっている。エイチは仕事柄それがなにかすぐに分かった。恐らく50年以上前のものだろう。今の金色のそれとは色が違うが、この黒い物体は太陽光発電用パネルだろう。宇宙から降ってきたのだろうか。この丘はパネルが落ちてきたときの地面の抉れなのだろう。それにしてもこんなにも地面が抉れるものだろうかとエイチが考えていると、工藤、時田、リュウの3人はそれぞれのサーチライトが被らないように広い範囲を照らし出した。エイチはすぐにこの抉れを作り出したものはこの物体だと確信した。太陽光発電用パネルにとともに映し出された物体は遥か昔に作り出された宇宙ステーションだった。



「2048年にここに墜落したんです。シャトルの接続に失敗したようで、火星での研究の前に加速路のジェネレーター実証機をんでいて…幸いそれは無事でした」

と工藤は話し始めた。エイチも、宇宙ステーションの墜落は知っていて歴史の授業でも悲しい事故として取り上げられていた。中国に併合される前のロシアは国の権威を示すため新技術の推進システムを搭載したシャトルを開発した。しかし開発を急いだため不完全な状態のまま月宇宙ステーションを目指し、ドッキングする時に制御不能になって加速したまま衝突し共に墜落した。すべて粉々になり市民や乗組員が全員死亡した事故として名を刻んでいる。

「何もかも無くなったはずじゃ。ここでインフラ開発しているのですか?」

作業用ロボットもどこにもいないし、この廃墟のような場所で開発などするはずがない。別の目的でこの場所につれてこられたと感じ取りながら、エイチは自分の平静を保つため愚問を工藤に投げかけた。

「ジェネレーターは今とは比べ物にならないくらい不安定な核で動いていたんです。当時は秘密裏に核を使用していたことに国際的な批判が来るのを恐れて、全てを無いものにしました。積極的に月の裏側は開発を行わずにひた隠しにしたんです。今では地球にある犯罪者の収監所のようにジャマーを張り巡らせています」

工藤は淡々と話し、その口調や態度もこちらの話が真実なんだと思えるに足る要素を与えていた。

「だから影響の無いようにシャトルを外側に停めたんです」

リュウが加えた。エイチはシャトルの方に振り向いた。ここからだとシャトルの全体像が伺える。左右にエンジンが張り出しクジラのような形の船体を挟んでいる。その船体の中心には白いロゴがあしらわれてた。それは惑星の環にクサビが刺さったようなもので、まさしく先日拾ったカフスボタンと同じ図柄だった。
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