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柳田産 猿と海月のミルト

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 昔々の話です。

 海月といいますと、透明のまあるいふろふろと漂う姿を皆さんは描かれるでしょうが、それは本来の姿ではありませんでした。かつての海月は、西方伝来の織物と見紛うほどのそれは見事な紋様の皮を持って、脚もピイと伸ばし、しゃんしゃんと海の底を歩き回っておりました。また、猿も海月と同じように、今はない長い長い尾を持ち背もピンと伸ばしておりましたし、顔の色は他の猿と同じように浅黒かったのです。


 ある年の大暑も過ぎようかという頃のことです。竜宮の王様の御后様はちょうどお産のころにございまして、ところがこの年は折悪しく非常に太陽の強い夏でありましたので、御后様のご容態はよろしいものではございませんでした。食の通りも悪くございまして、竜宮の女官達はたいへん心を砕いておりましたし、竜王は妻に何とかして世継ぎを恙無く産ませてやりたいと、東西南北方々の医者を竜宮にお集めになり毎刻のように次々と検診させられるのでした。
 大陸の方の海から来ました医者の言うには、腹の病には猿の肝が効くのでそれを煎じて飲ませるとよいでしょう、忽ち御后様のご容態も良くなられる次第でございます、とのことで、竜王は早速、家臣の海亀に猿の肝をとってくるようにと命じられました。

 亀が海辺につきますと、岩の上に一匹の猿が見えました。猿はちょうど、釣りのお師匠であります熊に教えられた尻尾での海釣りを試していたところでした。
「お猿さん、お猿さん」
亀が声を掛けました。しかし猿は、まさか海から声も聞こえるまいときょろきょろ辺りを見回しております。
「お猿さん、海です。海を御覧なさい」
亀の声に眼を向けますと、成程、海にぽっかりと小さな島が浮いて見えます。
「やや、島が喋っておるぞ」
「島ではございません。亀でございます」
猿は亀というものを生まれて初めて見ましたので、それはもう驚いてしまいました。
「お前は島のようだが喋っておる。しかも、海におりながら魚のようには見えぬ」
「そうでございましょう。亀といいますのはみな、このように甲羅を持っておりますし、魚とはまた違った生き物にございます。海には魚だけでなく、海老や蛸といったそれは珍妙な生き物から、くらげや珊瑚といったそれは美しい生き物まで、何でも棲んでおります」
猿はなにぶん好奇心というものが旺盛でありましたから、亀の話に聞き入っておりました。
「蛸というのはお前よりも珍妙か。くらげは雉よりも美しいか」
「はい。蛸はわたくしより珍妙な格好をしておりますし、くらげは、なにぶんわたくし陸の事は存じませんので比べようがございませんが、とにかく見事なものでございます」
猿がいくらか海に気を向けましたところで亀は言いました。
「お猿さん。実は折り入ってお頼みしたい事がございます。」
「この猿にか」
猿はいくぶん不思議そうに尋ねました。なにせ猿と言えば陸ではなにかと厄介者扱いされていたからです。
「是非ともお猿さんにお頼みしたいのです。お猿さんは陸の事を実によくご存知でしょう。海では実しやかに、そう囁かれております。実はその噂を御耳に入れられました、竜宮の王様が、お猿さんにお会いして是非ともお話を伺いされたいとおっしゃっています。」
亀にこうも言われますと猿は悪い気はしません。ですが、海の中に入るのはいくらか躊躇われます。亀は続けてこう言いました。
「お猿さん、海の中には草だって山だって、何だってありますよ。海底には昆布や若布が生い茂っていますし、あそこに見える富士より立派な山だってあります。竜宮に着けば、美味しい食べ物もたくさんございますし、若く美しい魚達の舞をご覧にいれます。竜王様とお話しいただけたらお礼だってたっぷり差し上げます」
さて、これを聞いた猿は、こんなに良い話はあるだろうかと手を叩いて喜びました。竜宮までどうして行くのかと尋ねますと、心配にはおよびません、私の甲に掴まっていてください、すぐにお運び申しますと、亀が背中を向けました。猿は亀に負われ竜宮へと向かいました。

 海に潜りますと、それは見事な景色です。銀に光る小魚の群れや、日の光にきらめく水面、波に揺られる海草、それから奇妙な生き物と、海は実に美しく面白いと、猿は驚嘆の声を上げました。それだけでなく、亀は、竜宮はもっと美しいものや面白いものに溢れておりますと、それは聞くだけで踊りだしたくなるような話を、丁寧に何度も話しました。
 竜宮に着きますと、立派な珊瑚の大門が建っており、周りでは背の高い昆布がうねっております。お屋敷に当たります大岩は、磯巾着というものや富士壺というものに覆われており、それは美しい様子でありました。

 中門にて亀にしばし待つよう言われた猿は、大人しく気をつけの姿勢で眼だけはきょろきょろとさせておりました。するとこちらへ、見た事もないような美しい生き物が歩いてくるではありませんか。大きな円い天蓋は朱や翠や藍で見事な紋様を編み出しておりまして、その縁には編みこまれた飾り紐が垂れています。足取りはしゃんしゃんとしており、歩けば鈴の音も響こうかというほどです。猿がその姿に見惚れ呆けておりますと、その生き物はついに猿の眼の前までやって来ました。
「もし」
天蓋の下から遠慮がちな声が漏れ出でました。その声音は猿が今までに聴いたことのない種類のものでありましたが、水滴が水面に落ちたときのようにとても澄んでおりました。
「もし、貴方様が陸からのお客様でございましょうか」
「如何にもその通りでございます」
猿は先ほどの亀とはうってかわって、実に丁寧に返事をいたしました。すると、その美しい生き物は続けてこう言います。
「わたくし、竜宮の女官にございます、くらげでございます。貴方様のご案内をさせて頂きますよう、竜王様より仰せつかっておりますが、どうしても貴方様の御耳に入れ申しておきたいことがございます」
その声はまるで他の者に聴き取られることを憚るかのように、大きな傘の下から細々と紡ぎだされておりますので、猿も思わず息を潜めました。
「竜王様が貴方様をここに呼ばれたのは、お話を伺うためでも、貴方様を持て成すためでもございません。竜王様は貴方様の生き肝を御后様に煎じて飲ませるために、貴方様を招いたのでございます」
それを聞いて、猿は顔の色を失くしました。このままでは生き肝を抜かれ、猿は死んでしまいます。くらげは、どうぞ今のうちにお逃げくださいと言いますが、ここは海でありますから、猿に逃げ場はありません。
「わたくしが貴方様を陸までお送りいたします。ですので、貴方様は陸に上がったら海辺から離れてくださいませ」
くらげはそう言いましたが、ここで猿を逃がしてしまいますと、くらげは竜王のお叱りを受ける事は必至であります。そのとき一つの疑問が猿の頭を過ぎりました。
「くらげさん、貴女は私を逃がすとおっしゃいますが、それでは貴女が竜王様のお叱りを受けるでしょう。今日このときばかりの縁である私を、どうして助けようなどと思うのですか」
猿が尋ねますと、くらげは大変申しにくそうに口を開きました。
「わたくしには硬い骨がございまして、魚のように優雅に泳ぐ事もできませんし、蛸や烏賊のようにたくさんの手足はあれど舞う事もできません。亀のように、誰かを乗せて運ぶ事も得手ではございませんし、同じように硬い甲を持つ蟹には兵隊にすらならないと馬鹿にされておりました。ところが今日、私と同じように真っ直ぐに伸びた貴方様の背筋があまりに美しく見えまして、わたくしはとても勇気づけられる思いだったのです。今まで通り竜宮にいて馬鹿にされるよりは、貴方様をお助け申してお叱りを受けるほうがよほど良いことに思えたのです」
くらげはこう言いますと、怪しまれる前に逃げましょう、気付かれてしまえばわたくしの泳ぎでは追いつかれてしまいます、と猿を急かしました。このとき、猿の頭に一つの妙案が浮かびます。
「くらげさん、お心遣い誠にありがたく存じます。ですが、私に一つ知恵がありますので、亀を呼んできてはもらえないでしょうか」
くらげは、非常に不安そうな顔をしておりましたが、言われたとおりに亀を呼びにいきました。

 暫くすると、亀がやってきましたので、猿はさも慌てたようにこう言いました。
「亀よ、私は大変なことをしでかしてしまった。大いに迂闊だった」
「お猿さん、一体どうされたのです」
「こんなお天気模様だったら持ってくるべきだったのだが、山の木に肝を引っ掛けて干したまま置いて来てしまったのだ。すぐにでも取りに戻らねば、心配で心配で、おちおち話などしておれない」
亀は、一度竜王様にお断りを入れてから陸に戻りましょうと言いましたが、こうしているうちにも、嵐に飛ばされてしまうかもしれないと、あまりの剣幕で猿が急かすものですから、亀は遂に言われるままに猿を負ってまた陸へと上がって行きました。
 陸へ上がりますと猿は素早く駆け出して、あっという間に木の上までするすると登ってしまいました。亀が、お猿さんお猿さん、肝はございましたか、無事なら早く竜宮に参りましょう、と言うのを聞いて、猿は笑いながらこう言いました。
「この身を離れて肝があるものか。煎じて飲まれるなど御免蒙る」
これを聞いて騙されたと知った亀は、たいそう怒りながら海へと戻っていきました。

 亀が竜宮に戻り、猿に逃げられた事を竜王に報告申し上げますと、亀はたいへんこっぴどく叱られました。折角竜宮の入り口にまで来ていた猿の生き肝が、今は遠く木の上です。しかしながら、なぜ生き肝の煎じ薬の事が知れたのだろうと竜王がおっしゃいますと、亀がくらげです、くらげの奴ですと言いましたので、竜王はくらげを呼びつけました。
 竜王がくらげに問いただしますと、くらげはあっさりと自分が猿に漏らした事を白状いたしました。竜王はこれをお聞きになると、たいそうお怒りになりまして、くらげの皮を剥ぎ、骨を抜き、また竜宮から追い出してしまわれました。くらげは美しい皮も、骨も無く、ふろろふろろと波に流されるだけの、いっそう惨めな姿になってしまいました。

 一方、陸の猿は竜宮で一目見たくらげの姿が忘れられず、もう一度会いたいと思っておりました。ですが、海は危険ですので入るわけにも行かず、また泳げるわけもなく、思案に暮れておりました。思案に暮れておりましたが、さすが猿も知恵者だけありまして、またしても妙案を思いつきます。自慢の尻尾で釣りをしようと思い至ったのです。もし、この長い尾をくらげが覚えていたら、もう一度あの美しく心優しいくらげに会えるかもしれない、そう思った猿は早速、海辺の岩に降りて尻尾を垂らしました。
 しかし、何もこの尻尾を覚えていたのはくらげだけではございません。そのころ、竜王に命じられ、魚と言う魚はちょうどその辺りの海を血眼になりながら、猿を探しておりました。そこに毛むくじゃらの、見事に長い尻尾が垂らされてきたので、やや、これはあの猿の尻尾に違いないと、魚たちはいっせいに食いつきました。これに驚いたのは猿です。くらげを釣ろうと思った尻尾に、鈴生りに雑魚が噛み付き引っ張るのですから堪ったものではありません。海に引きずり込まれまいと、岩に張り付き顔を真っ赤にして必死に踏ん張ります。魚たちも諦めません、よいこらしょどっこいしょと力を合わせて引っ張ります。
 幾刻ほど続いたでしょうか、遂に猿の尻尾は耐え切れず、ぷっつりと根元のあたりで切れてしまったのです。猿はもう恐ろしくなって、また一目散に木の上へと逃げていきました。
 猿の姿は、長い尻尾が短くなり、顔は踏ん張ったときのまま赤く戻らなくなり、更に長く尻尾を引っ張られたものですから腰まで曲がってしまい、今の猿の姿にすっかり変わってしまいました。

 さて、行く当ても無く海を漂っておりましたくらげですが、どの道行く当てが無いのならば、もう一度、一目でいいから猿の姿を見たいと海辺に向かって泳いでおりました。ところが慣れぬ体で、潮に流され、猿のいた海辺に着いたのはあれから二十日も経ったあとでありました。水面から顔を出し、遠くの木まで目を凝らしましたが、猿はすっかり姿が変わってしまっていたので、遂にくらげが猿を見つける事はありませんでした。またこのとき、猿も木の上から海を眺めておりましたが、すっかり姿の変わってしまったくらげに気づく事はありませんでした。
 このとき、水面にゆうらり浮くくらげだけが光の影の具合で、ちょうど海の中に月が出たようでありましたので、くらげの事を後に海月というようになりました。


 昔々に姿を変え、二度と会うこともできず、猿も海月も全てを忘れてしまったようでございますが、猿は水面に映った月を捉えようとし溺れてしまったという話もございますし、海月は今でもお盆の頃になりますと海辺へその姿を求めやってくるとのことです。
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