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ビクトリアとマチルド

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 ロビンとは逆方向に一人走りする者が一人。
 ビクトリアだった。何かを振り払うように突き進む。

「ビクトリア! 止まりなさいな、ビクトリア!」

 追いかけるマチルドの声は無視。
 少女の疾走は止まらない。決して早くはないが足場の悪い中を怪我を恐れずに突き進むものだから冷静で臆病な者には追いつけない。幸い、あれだけ犇めいていた魔物にも出くわしていない。運ステータスが低い彼女にしては珍しくラッキーだった。
 しかし幸運はここまで。

「ビクトリア!!? 止まって、止まって!!」
「うっさい! さっきから嫌でも聞こえてるわよ!」

 そう返したばかりに足元が疎かになる。
 ずるり。
 まるで河童に足を掴まれたかのように身体が地底湖に引きずり込まれていく。もっとも西洋の水辺に河童のような妖怪はいない。たまたま濡れていて滑りやすくなっていた岩肌で転んだだけだった。
 それだけでもビクトリアの顔は引きつり絶望する。

「や、ば」

 ここは魔物が犇めくエキドナ。湖に落ちれば命の保証はない。人食いピラニアや巨大なナマズが潜んでいるかもしれない。また岩場が濡れていると独力で陸に揚がるのも困難になる。
 滑落。杖を立てようにもブレーキにはならない。
 目の前に美しくも不気味な湖面が近づいてくる。

「もう仕方ないんだから! アイスアロー!」

 マチルドが放った氷の矢が湖面を一気に凍り付かせる。

「んで!?」

 絶妙な運動神経のなさに着地した衝撃で額を氷にぶつける。

「大丈夫!? 怪我はない!? 一人で立ち上がれる!?」

 痛みの衝撃で過去の恨みを思い出す。

「……馬鹿テオにそり遊びに無理矢理誘われて、勢い余って投げ出されたことがあったわね……」

 氷が溶けてしまいそうなほどの思い出し怒り。

「……ふう、大丈夫そうね」
「大丈夫だけど大丈夫じゃないわよ。そっちまであがれそうにないし」

 鍾乳洞から垂れる水滴で坂はひどく濡れていた。

「待ってて、上がってこれるようにしてあげるから」
「ロープなんて持ってた?」
「そんな便利な物持ち歩いてないわ。でも大丈夫。あたしは魔法使いなんだから」

 そしてマチルドは深く集中したのちに、

「アイスウォールならぬアイステップ!」

 氷の魔法を応用し一瞬にして濡れて滑る坂に階段を作り上げた。

「へえ、やるじゃない」

 ビクトリアは素直に感心して階段を上り始める。

「ビクトリア!? 慎重によ!? 一歩ずつ慎重に! あなたはただでさえそそっかしいんだから!」
「子供扱いしないでくれる!? あたしはあなたが思ってるよりお姉さんなんだからね!」

 とは言いつつも慎重に、よちよちと階段を一段ずつ上がっていくビクトリアだった。





 杖先から出てくる弱火の炎にビクトリアは手のひらを目一杯広げて暖を取る。

「……もっとスマートな救出方法があったんじゃないかしら」

 上がり切るまでに氷に触れ続けていたためにすっかり体温が下がってしまっていた。

「あはは、あたしってば平凡な魔法使いだからさ、やれるのはやれることだけなのよね~。トニョだったら風魔法でもっと楽に助けられたでしょうね」

 マチルドは自嘲気味に笑った。

「……ごめん。助けてもらったのにこんな言い方ないよね」
「いいの、いいの。ビクトリアちゃんにはいつも助けてもらってるんだから」

 マチルドはこことばかりに、

「助けてもらっていたと言えばタンクのロビンにも──」
「それでも、私はあいつを許せない」

 温まった空気が再び氷点下に。

「……一度怒った女神様は頑固ねぇ」
「私は間違ってない。マチルドだって許せないでしょう?」
「そうね、あたしのビクトリアちゃんを傷つけたのは絶対に許せないわ」
「ひっかかる言い方があるけど、そうでしょう? あんな馬鹿、パーティにいるだけ邪魔、目障りなのよ。ずっと前から嫌いだった。嘘つきだし、弱くていつも傷だらけだし、スキンシップもうざいし、良いところなんて一つも」
「料理は美味しかったんじゃない?」
「……ぜんぜん。ちっとも美味しくなかった。あんなのに比べたら芋虫生でかじるほうがマシなんだから」
「あら、そうなの? 残念だわ、ここにちょうどロビンが作り置きしてくれた焼き菓子があったのに」

 マチルドが懐から焼いただけの質素なビスケットを取り出すとビクトリアの視線はばっちりとそこに定まる。

「お腹空いてきたし、あたしだけで食べちゃっおかな~」

 お菓子で釣ろうとするが、

「……いらない! あいつの作ったものなんておぞましくて視界に入るのも嫌!」
「……なんてこと!? ビクトリアに食欲で訴えても応じないなんて!?」
「私のことをなんだと思ってるの!?」
「食欲に忠実なエルフ」
「あんたもパーティにいられないようにしてあげましょうか?」
「そんで頼もしい仲間。どんなにひどいダメージを負っても、瀕死になっても諦めずに一生懸命に治してくれる優しい子」
「んなっ」

 マチルドは笑顔を浮かべて焼き菓子をビクトリアに差し出す。

「そろそろ身体が温まってきたでしょう。お茶にしましょう。コーヒー淹れるわね」
「……マチルド」

 お茶の支度を始める優しい仲間の名を呼ぶ。

「ん? なに?」
「……紅茶にして。砂糖なしじゃコーヒーは無理」
「あはは。わかった」

 ビクトリアは体力を戻すべく焼き菓子をかじる。
 思い出しくもない顔が浮かぶ。しかし困ったことに憎たらしいことにそれでも焼き菓子の味は、

「……美味しい」

 数分で紅茶が二杯できあがる。

「コーヒーじゃないの?」
「香りが混じるの嫌じゃない? コーヒーの味、香りが楽しみたいのに隣で紅茶で飲まれたりしたら台無しになると思うの」
「ごめん、気つかわせちゃったみたいで」
「気にしないで。紅茶の気分だったから」

 ビクトリアはビスケットを紅茶に浸け、ふやかしてから口に運ぶ。小麦の味に紅茶が染みて、触感も味覚もまるで違う食べ物のように変わる。
 以前の彼女であればこのような細やかな味の変化を楽しむことはなかった。趣向を凝らすこと、それに違いを見出し、楽しめることに幸せを感じていた。

「はあ、あたしたちのパーティの食事もとうとう貧相になってきちゃったわね……いや、お茶のような嗜好品があるのだって通常と比べれば恵まれた環境なんだけど」

 戦いの合間に、戦いの最中でもお茶を嗜んでいたマチルドが今や一口を唇を湿らす程度にまで節約していた。

「……今から弱音でどうすんの。ここからずっと先細っていくんだから」
「……ねえ」
「あいつを呼び戻すってのは反対だからね」
「違うしー。もっと違う話題ー」

 マチルドは唇を尖らせる。

「あんた、意外と子供っぽいわよね。最初会った時はもっと大人っぽくて妖艶な感じだったけど」
「あら、あたしのことそんな風に見ててくれたの?」

 ビクトリアは開けた胸元を見せつけながら側に寄る。

「最初だけよ。ちょっと近寄りがたいって感じだったけど今は鬱陶しい」

 男性からすれば煩悩を駆り立てる非常に魅力的な武器だが、女性からすればただの脂肪に過ぎない。

「そんな~! あたしはこんなにビクトリアちゃんとお近づきになりたいのに~」

 豊満な大人の胸で少女の顔を暴力的に包み込む。

「もう充分近寄ってるでしょうが! 離せ!」

 胸を平手打ちしてもマチルドは離れない。

「離さないわよ~。ビクトリアちゃんが話してくれるまで~」
「はああ!?」
「大所帯になってますます二人きりになる機会が少なったじゃない。せっかくの機会だし裸になっちゃいましょうよ」
「ははは裸!? あんんたそっちもいけたの!?」
「あ、裸になるってのは比喩的な意味でね? もうビクトリアちゃんってばおませさーん」
「このでかちち女ー! 弱ってるからってつけあがりやがってー! はなせー!」
「……離さないわよ。ビクトリアちゃんがどうしてそこまであいつを許せないのか聞かせてくれるまで」
「は、はあ? それはあいつが馬鹿だから当然でしょう」
「そうね、許せない気持ちはわかるわ。でもそれにしてもね、すっごく根が深く感じるの。何かあったんじゃないの? あたしが生まれる前よりずっと遠い過去。だけどあなたが忘れられない、捨てられない何かがあるんじゃないの」
「そんなの……あんたの気のせいよ」
「気のせいじゃない」
「気のせい」
「気のせいじゃない。話してくれるまで離さないからね。たとえドラゴンが襲い掛かってきたってあなたを離さないから」

 声色が本気だった。本気でやりかねないとビクトリアは悟る。

「……あんたには関係ないこと。聞いたところで何の意味もない。ダンジョンが攻略できるようになるわけでも、急に強くなるわけじゃない」

 ビクトリアの心の鍵は強固だ。それも長寿のエルフの、長年の錆が溜まった心の鍵。
 鍵がどこにあるか、どんな形をしているかも本人は忘れてしまっている。

「……ねえ、ビクトリアちゃん。言い忘れてたことがあったわ。さっきビクトリアちゃんをどう思ってるかって」
「……若いくせしてもうボケてるの?」
「言い忘れ、じゃない。あたしも照れくさくて言えなかったの。茶化してくれてもいいから、聞いてほしいな」

 ビクトリアは深呼吸して、意を決して言葉にする。

「あたしは、ビクトリアのことを親友だと思っている」

 その言葉は心の鍵に綻びを生んだ。

「……は?」

 当の本人は耳が良いくせして聞き返す。

「ビクトリアのこと! 親友だと思っている!」

 馬鹿正直に言い直す。馬鹿丁寧に聞こえるようにはっきりと大声で。

「聞こえてるわよ! 耳元を叫ばないで!」
「あ~言っちゃた~! 恥ずかしい~!」

 悶えるマチルドの体温は急上昇していた。それは心臓に耳を当ててる状態のビクトリアにもよくわかった。
 どんな魅惑で誘惑な殺し文句よりも恥ずかしかった。それもそのはず、多くの男を騙し欺いてきた彼女の嘘偽りのない本当の気持ちだったからだ。

「……そう思ってくれているところ悪いけど、私はあなたをそう見れない」

 一世一代のプロポーズさながらの告白は非情にも拒絶されてしまう。

「……これから死地へと向かう。お互いに無事でいられる保証はない。それに無事に帰ってこられたところで私とあなたは寿命が違いすぎる……そう思うと私たちはただのダンジョン攻略をする、いわばビジネスな関係がいたほうがいいと思うの。だから親友なんて特別な関係は……」

 ビクトリアは距離を置こうとする。自分を、マチルドを守るために。

「ビクトリア……」

 それはそれとしてマチルドの力が増す。

「うれしい~~~~!!! あたしをそこまで思ってくれるなんてーーーーー!!!」
「話聞いてた!? 馬鹿なの!? あなたも馬鹿なの!? 馬鹿マチルド!!」

 罵倒も構わずに頬ずりする。

「いいのよ! あたしが勝手に思ってるだけだから! あたしはあなたがあたしを思ってくれるとわかっただけでもうれしいわ!」
「はあああ!? 都合のいい解釈しないでくれる!!??」
「ちゅっちゅー! ちゅーしましょ、ちゅー!」
「い! い! か! げ! ん! に! し! ろ!」

 拘束から抜け、自由となった右手で杖を拾い、頭を叩き続ける。
 さすがにやりすぎたと判断したマチルドは解放する。

「あはは~! ごめん~! 唇は好きな人同士じゃなくっちゃよね~!」

 解放するが反省どころか後悔もしてない。

「あーっちくしょー!! 呪いさえなけりゃ攻撃魔法が使えるのに!! あのじじい!! 末代まで呪ってやる!!」
「ごめんごめん! ちゃんと痛いから! 杖で殴るのやめてってー」

 杖に遠心力を加えた一振りには重みがあった。

「そういえば呪いとかも事情はどうなってるの? ビクトリアがどうしてそんな目にあわなくちゃいけないわけ?」
「んぐ……それは……」

 痛いところを突かれたようで杖が止まる。

「……力になれるかわからないけど、呪いを解きたいなら協力する。ダンジョン攻略に役に立つからじゃなくて、ビクトリアが困ってるなら力になりたいわよ。だって、し、親友だから」

 まだ照れが残り、歯切れが悪くなる。

「…………ふぅ」

 ビクトリアは再び座り、ビスケットをかじる。バリボリと咀嚼し飲み込む。

「……いいわ。さっき助けてくれた借りもあるし特別に話してあげる」

 少女も過去を打ち明かすことを決心する。
 ここまで自分のために案じてくれた人は初めてだった。
 情に負けたわけではない。
 自分のために尽くしてくれる人に何かを返したかっただけだ。
 ただ、マチルドならわかってくれるかもしれないという期待はある。

「……ただし他の誰にも言わないでよ。破ったら絶交だかんね」

 そう前置き、忠告をしたのちに過去を打ち明ける。

 コーヒーの湯気がゆらりゆらりと揺らぐ。
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