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プロローグ 聖女に悪魔が舞い降りる

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 勇者シーザーと聖女アガサは石畳の街路を走る。

「おい、急がないと品切れなっちまうぞ! これから行くレストランのピザは絶品なんだ!」

 シーザーは足が遅いアガサの手を引く。
 彼が身体を動かすたびに身を纏う白銀の鎧がガシャガシャと音を立てる。
 一方のアガサは麻色のローブと軽装。

「そんなに引っ張らないで、足がもつれちゃう……!」

 赤レンガに彩られた町を二人の若者が駆ける。遠くには丘の上に白い城が建っている。
 ここは美しい徳の国ヴィトク。
 尺虫のように湾曲した石橋を渡る。橋の下には小川が流れている。オールを持った船頭がゴンドラを減速させてくぐっていく。
  二人はとある広場にたどり着く。市場が開催されて人で賑わっていた。商人と買い物客だけでなく、大道芸人やストリートミュージシャンもチャンスを掴もうと張り切っている。

「いけね。人ごみにでちまった」
「他に道はなかったの?」

 二人はとある理由で目立ってはいけない。
 なぜなら、

「おお! そこにいっらっしゃるは勇者様と聖女様じゃないですか!」
「本当だ! 我らが救世主! シーザー様! アガサ様!」
「今日はお二人でどちらまで? どうです、お暇ならお茶を」
「まちなさい! 抜け駆けは許さないから! 聖女様、ドレスをお探しならばぜひ私のところに。絶品のケーキもご用意しております」

 市場の賑わいとは少し方向性が違う熱を帯び始めていた。

「まったく人気者はこれだから困るぜ。アガサ、ちょっとごめんよ」
「え、ちょっと、まって」

 シーザーはひょいとアガサを抱きかかえる。

「はははっ。昔から軽いのは変わらないんだな。今日はたくさん食べて太ろうな」
「ちょっと幼馴染でもそういうデリケートな話やめてよね」
「ははは。そうだな」

 右手で背中を、左手で膝を支える力が強まる。

「すまんな! 今は見ての通り忙しいんだ! 買い物はまた今度だ! 必ずまた来るぞ」

 すると買い物客の女性たちから黄色い歓声が上がる。

「きゃー! シーザーさまー! すてきー!」
「わたしもお姫様だっこされたーい!」
「こっち見てー! 手を振ってー! ウィンクをしてー!」

 シーザーはサービス精神が旺盛だ。

「っはっはっはー! お安い御用さ!」

 バチコーン。
 情熱的なウィンク。

「あぁ、なんてこと、立ち眩みが」
「あなた! しっかり! シーザー様の前ですよ!」

 女性のハートを鷲掴みにして離さないシーザーはそれだけの色男だった。男から見ても多くの嫉妬をされど精悍な顔つきと称される。

「それでは子猫ちゃんたち! ばーい!」

 がしゃりがしゃりと鎧の音を立てて、歓声とファンファーレに包まれながら広場を後にする。

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 こうして二人がレストランに着く頃には長蛇の列が出来上がっていた。

「これは……もう無理そうだね。また今度にしましょう、シーザー」
「まだ諦めるのは早いぜ」
「え?」

 シーザーはのしのしと店の前へ歩いていく。
 列の先頭には母子が立っていた。

「お母さん! ようやく入れるね!」
「ちゃんと食べたいメニューは決まった?」
「んとね、んとね、んとね、ぜんぶ!」
「きもちはわかるけど……ぜんぶはむりよ?」
「だってだってだってぜんぶおいしそうなんだもん!」

 微笑ましい会話。
 何十人もの客をさばき続ける店員、何時間も待ちぼうけた客にも笑顔が生れる。
 そこへ、

「シーザーだ。通してもらおうか」

 勇者が現れた。
 店員は突然の出来事に、

「シーザー様……予約されていたんでしょうか?」

 普通の対応をしてしまう。

「予約はしていない。予約はしていないが」
「ちょっとシーザー! 何をしてるの!」

 無理を通そうとするシーザーをアガサは慌てて止めに入る。

「何って……俺は君のために」
「そんな! 私は頼んでいない! 私よりも楽しみにして、先に待ってた人たちがいるんだよ!」

 すると先頭にいた母親が、

「そんな聖女様! 私たちのことは気にせずに先にどうぞ!」

 母親だけでない。後ろに並ぶ客も頷く。

「そうだそうだ。俺たちがこうして平和で暮らしているのも勇者様と聖女様のおかげですからね」
「若くして邪竜を打ち払った救世の英雄。ありがとう!」
「むしろ光栄ですよ。ささ、どうぞお先に」

 誰しもが歓迎……とは言えなかった。

「ずるいずるいずるい! なんで後から! 来たくせに!!」
「こ、こら!! 勇者様の前で!!!」

 泣きじゃくる子供に慰める母。
 勇者が取った行動は、

「それじゃあ中に入ろうぜ。早く食って帰ったほうが店と客のためだ」
「シーザー……」

 アガサはすぐに入店せずに腰に吊るしていた袋からとある物を取り出した。

「ぼうや。ごめんなさいね。これ、あげるから許してちょうだい」

 それは一粒の飴。

「そ、そんな聖女様! お気になさらずに!」
「これも聖女の仕事の一つですから」

 子供は泣きじゃくりながらもアガサの手に乗っていた飴を手に取るとすぐに口の中に入れた。

「んー! あまい!」

 聖女特性の飴は目を丸くして驚くほどの美味。

「良かった。涙が止まったようですね」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
「人として当たり前のことをしたまでです。それでは。光と共に」

 聖女は祈りを捧げてから店の中へ。
 光に魅入られた列に並んでいた全員が、

「……」

 聖女と同様の祈りのポーズを取っていた。

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「おーい、こっちこっち!」

 シーザーがテラス席で手を振っている。
 テーブルにはまだ料理が残っている。それを十人がかりで片付けと清掃を行っている。

「見てみろよ、ここからの眺めは最高だぜ」

 アガサは城が映える美しい絶景よりも拭いたばかりのテーブルに両足を乗せる幼馴染に目が行く。

「……」

 何も言わずに席に座る。足をぴたりと閉じた、この場に相応しい淑女らしい所作で。
 そして今度こそ広がる景色を見る。
 テラスは小池の上に突き出している。水面から錦鯉が跳ねる。池の周りも自然豊かで木々が生い茂っているが庭師の手によって美しく整っている。二羽の青い鳥が通り過ぎていく。さえずりが聞こえる。向こうには堅牢でありながら雄大、遠くにいながらも威厳を感じさせる美しい城。
 この席に座ればどんな女性も声を上げて喜ぶというのに彼女はアンニュイな表情を浮かべる。彼女もまたこの美しい風景にぴたりとはまる美女だった。
 するとシーザーは足を地面に下ろし、今度は肘を着く。

「……きれいだ」

 可憐な少女の一面に思わず心の声が漏れる。

「え? 何か言った?」
「いいや! なんとも!?」
「ううん、確かに今」
「もう! この年で老人みたいに耳が遠くなったのか! 困るぜえ!?」

 アガサはふと店内を見る。

「……なかなか給仕さんがメニューを持ってこないね。そういうお店?」
「メニューは来ないぞ。もうフルコースが来るって決まってっから」
「ええ!? ピザだけで帰る話じゃなかった!?」
「俺は悪くないぞ。天井を擦りそうなほど高いコック帽子を被った料理長がやってきてね、フルコースをお出しししますって。勇者様聖女様がいらっしゃってるのにピザだけで帰すわけにいかないってよ」
「なんで断らなかったの!?」
「別にいいだろ。好意は受け取るものさ。だったら今からでもお前が言ってきたらどうだ」
「そうする」

 アガサはテラスから離れ、店の中へ。

「あれ……」

 すると異変に気付く。

「さっきまでいた他のお客様は……」

 そこに忙しそうにしながらもすまし顔の給仕が現れる。

「どうされましたか、聖女様」

 言葉、動作とどれを取っても恭しい。長年働くベテランと思われる。

「さっきまでここにいた人たちは」
「ああ、それなら皆様帰られました」
「な、なんで……」
「当店は貸切となったからです」
「まさかシーザーに頼まれて」
「いいえ、これは当店の自主的なサービスです。勇者様、聖女様がより良い時間を過ごしていただけるように」
「……他の人たちのより良い時間はどうだっていいの」
「……これはあまり大きな声では言えませんが、当のご本人に申すことではございませんが、安全確保の問題もあります。もしもお二人に何かございましたら当従業員は商売どころでは」
「もういいわ」

 すまし顔の給仕が僅かに浮かんだ汗を見て、アガサは言葉を遮る。

「こちらこそごめんなさい。苦労をおかけします」
「勿体ないお言葉です」
「……それでは。光と共に」

 祈りを捧げてシーザーの元へと戻った。

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 アガサはテラス席に座った。

「トイレ長かったな」
「シーザー」
「悪い悪い、冗談冗談」
「これで……いいのかな」
「聖女様。施しは受けるものだって聖典にも書いてるんだろ」
「あれは恵まれた者から貧しい者たちへの話であって」
「細かいこと気にするなって」
「やっぱり……やっぱり断らないと」
「なーんて言ってるうちに料理が届いたぜ」

 二人の前にまずは空のグラスが置かれる。置いたのはすまし顔の給仕。
 時間はランチタイム。この国ではランチからお酒を飲む風習がある。

「今の時期一番おいしいの」
「それでしたらグランドグラウンド大陸産の赤ワインが」
「じゃあそれで」
「……どういった過程で作られたか興味は」
「それでいいって言ったらそれでいい」
「……かしこまりました。それでは聖女様は」
「私は水でも構わないのだけど……何か頼まないとダメ?」
「いえ、当店は水にもこだわっていますので」
「そう、よかった。じゃあそれをお願いします。あと料理の説明も結構です。楽にしてください」
「かしこまりました」

 グラスに飲み物が注がれているうちにあれよあれよと料理は運ばれてきてテーブルの上を埋め尽くす。
 もう出てこないかと思ったらワゴンで生ハムの原木が運ばれてくる。

「これにてフルコースは完成です。何かございましたら私に」

 すまし顔の給仕が下がろうとした時だった。

「おい、そこのお前」

 シーザーが呼び止める。

「ちょっと言い方」

 アガサが諌める。

「何かございましたでしょうか」

 給仕はすまし顔。

「何かございましたでしょうかではないだろ。ピザがないんだが」
「生憎今月分のチーズが先程品切れしまして」
「こっちはピザを楽しみに来たんだが? じゃあ街中から集めてこい!」
「ちょっとシーザー!」
「チーズはとても貴重なもので、この地域で取り扱っているのは当店だけでございます」

 高圧的なクレームに対しても給仕はすまし顔で畏まりながらも毅然とした態度。どんな時にも冷静に。それがプロだと信念を持っていた。
 しかしそれがシーザーに気に食わなかった。

「お前! ちょっとは申し訳なさそうな顔をしたらどうなんだ!」

 テーブルの淵に手をかけて料理ごとひっくり返す。

「きゃああ! シーザー! あなたはなんてことを!」
「アガサは黙っていろ!」

 シーザーが給仕に掴みかかろうとしたその時、

『おやおや、勿体ない。せっかくの料理が台無しだ』

 ドブネズミに耳元で囁かれるような嫌悪感のある声。
 空気や人の感情を一切介さないようなデリケートさに欠けたトーン。

『いっただきまーす!』

 それは床に散らばった料理、割れた瓶、皿までも絨毯のように広げた舌で一瞬で口の中へ。

「その声は!!!」

 勇者シーザーの怒りの矛先はまっすぐにそれに向いた。

「悪魔メフィストフェレス!!!!!」

 カラスのような黒い髪、心臓が止まった人間のような青白い肌、クローゼットのように高い背、サソリのしっぽのような爪。腰には血を煮詰めたような赤い布を巻いている。
 どこを取っても一目で人の形をしながら人ではないとわかる。それなのに首には一見普通の黒革のチョーカーが巻かれている。
 悪魔メフィストフェレスと呼ばれる者が何の前兆も宣言も許しもなく、どこからともなく現れた。

「よくもぬけぬけと!! 俺とアガサの前に現れたものだな!! 下がっていろ、アガサ!」

 シーザーはアガサの前に立ち、盾となろうとする。
 メフィストフェレスは彼らに背を向けたまま、

『ん? くちゃくちちゃ……誰か今……くちゅあくちゅあ……私を呼んだかな? まあいっか』

 名前を呼ばれたことに気づきながらも咀嚼を続ける。

「隙だらけだぞ!!!!」

 シーザーは武器を持ってきていない。それでも怒りを抑えきれずに殴りかかる。
 しかし次の瞬間、メフィストフェレスは姿を消す。否、超高速移動をする。

『おたくがこれを作ったの?』

 メフィストフェレスは給仕の前に立っていた。

「ひ、ひいいいいい!!!????」

 すまし顔が自慢の給仕も恐怖で顔が歪む。
 メフィストフェレスはサメのような牙を見せつける。

『くひひひひ、最高に美味かった。いい腕してるな。料理人になるといいよ』
「料理人と給仕の見分けもつかない大馬鹿が!!!」

 シーザーは椅子でメフィストフェレスに殴りかかる。
 椅子は床に落ちて粉々に砕け散る。
 メフィストフェレスは給仕の前から姿を消していた。

「戦えないなら早く逃げろ! 店の連中を連れて避難しろ!」
「ありがとうございます!! 勇者様!!!」

 給仕はよろよろと立ち上がりながら店の中へ。

「くそ! メフィストフェレスめ、次はどこに隠れた」
『ねえねえ、勇者殿。冗談って知ってます? 給仕にあえて料理人になるといいって言ったの、わざと。そこまで教えないと駄目? 馬鹿はどっち?』
「後ろか!!!」
『残念、空振り~♪』

 メフィストフェレスは天高く跳躍する。空中で五回転して着地する。

『10点! というかなんでワタクシこんなに歓迎されていないわけ? ちゃんと入り口から入って、お行儀良くいただきますもしたのに! はゎあっ、しまった! 手を洗っていなかった! はわわわわわわわわわわわわわ』
「そのふざけた言動も今日までだ!!」
『ちょっと勇者くん~冷静になりなよ~』

 走り出したシーザーに足をかけて転ばせる。

「ぐあわああ!」

 ガチンガチン!!
 白銀の鎧が軋む。

『ちみ~、ドレスコードって知ってる? そんなんじゃ、モ・テ・な・い・ぞ!』

 白銀の鎧は着地の衝撃で僅かに凹んでいた。

「くそ、どこまでも俺をコケに……! こうなったら禁術星落としを」
『冗談ですよね? こんなところで使ったら街もろとも吹っ飛びますよ!』
「怯んだな!? つまり効果があるってことだな!?」
『素早い動きする相手に広範囲魔法……そりゃ効果はあるかもですけど……』

 シーザーの足元に赤い魔法陣が広がり光輝く。

「うつろい漂い惑うだけの星よ!」
『ってえ!? この子ってばもう序文を!? はあ、どやんすどやすんす~!?』

 左右に走り回るメフィストフェレス。困っているようでどこか楽しそう。
 昼下がりに起きた国の存亡がかかった一大事。
 それは一人の少女によって解決する。

「拘束魔法! リストレイント!」

 ちょこまかと動き続けていたメフィストフェレスの体がぴたりと止まる。
 首に巻かれたチョーカーがみるみるうちに絞られていく。

『ぐ、ぐううおおおおおお……』

 一見普通のチョーカーなのに縛り続けるそれを外せない。

「悪さはそこまでです、メフィストフェレス」
『こ、これはこれは聖女殿……ご機嫌、うるわしゅう……』

 汗を滲ませる悪魔。肌は青白いままなのに目は血走っている。

「今すぐ姿を消せば浄化はしないであげましょう」

 自分よりもはるか背丈が高い理解不能の人外を前にしても聖女は聖女として毅然とした態度で振る舞う。

『くくく、さすがは聖女様……寛大な心をお持ちで……その心でワタクシの戯れも多少は大目に見てもらえると助かるのですが……』
「それはできません。あなたという存在は無垢な人々にとっての脅威なのです」
『はあ、そうですか……それじゃあ美味しいご飯食べたことだし、そろそろ帰るとしますかね……』

 メフィストフェレスの足元から煤になって風に乗る。

『あ、待って、最後に一句。レストランでリストレイント。あ、これ、まるで辞世の句みたい。まったねー♪』
「ま、まて、メフィストフェレス……!」

 掴もうとするがその場で倒れるシーザー。

「シーザー。すぐに回復魔法をかけますね」

 アガサは駆け寄る。手のひらから青い光が発して浴びせる。

「悪いな、アガサ……禁術はやはりマナを食う……」
「またを無茶して……昔からそうなんだから」
「昔か……俺はまだ昔に囚われたままなんだ」
「……」
「お前もそうだろ。あいつを殺さない限り、昔に囚われたままだ。俺はお前の家族の仇を取りたいんだ」

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 悪魔が消え去った後、シーザーとアガサの二人はその足で城へと向かった。
 目指すは最上階の宝物庫。
 城内の階段を上っていく。上がるにつれて通路は先細く、狭くなっていく。人がすれ違えなくなるほどに。
 すると思わぬところで思わぬ人物と出会う。

「シーザー様! 来るのであれば伝書鳩を飛ばしてくださればいいのに」

 ヴィトク国の姫パトラと出会う。
 爆ぜた花火のようにぱあっと明るい笑顔を浮かべるがシーザーの後ろにいたアガサの存在に気付くと爆ぜた後の花火のように萎む。

「それと……こんにちは、アガサ様」
「ご機嫌麗しゅう、パトラ様」

 シーザーはパトラに詰め寄って肩を掴む。

「そんなシーザー様、今日はどうしてこんなに情熱的なのですか……!」
「すまない、パトラ。どいてくれないか。じゃないと上に通れないのだ」
「……私よりもドラゴンスレイヤーですか」

 最上階の宝物庫には伝説の武器ドラゴンスレイヤーが保管されている。亀の甲羅よりも硬い竜の鱗をも砕く、ヴィトク国が保有する最強の武器。使用を許されているのは勇者シーザーのみとされている。

「城下町で悪魔メフィストフェレスが現れた。俺は今日こそ奴の息の根を止めてやるんだ」
「神出鬼没でつかみどころのない悪魔メフィストフェレス……確かに下々の者にとっては脅威でございますが……」

 パトラは乗り気ではなかった。ドラゴンスレイヤーは先祖代々受け継がれた由緒正しき武器。格式が高いために滅多な使用は禁じられている。使うとしても一族に危機が迫っている時のみ。
 悪魔メフィストフェレスは城内で出現することはない。
 よって使う時ではないというのが彼女の考えだった。

「俺は勇者だ。守るものを守る。それが仕事だ」
「勇者様のお仕事ですか……悪魔祓いならどちらかというと聖女様の得意分野では?」

 棘のある視線がアガサに向く。

「聖女であるならばとっとと仕事を済ませたらどうなんです」
「……」

 アガサは黙って下を向く。
 代わりにシーザーが弁明する。

「やれるならとっくにやってる。メフィストフェレスはそれだけ強大な悪魔なんだ。あいつの動きを封じ駆逐する。これができるのはアガサ彼女だけだ」
「……なんでしたっけ、拘束魔法リストレイントでしたっけ。私はそれがどうしても気になるのです」
「気になる?」
「ええ、そんな魔法生れてこの方見たことも聞いたこともありません。魔法都市に住む知り合いの魔女に聞いても知らないと答えていましてよ」
「……じゃあなんだ、お前はこの国を救った英雄よりもその魔女を信じると」
「ええ、その魔女は性格は最悪ですが腕は確かですので」
「そうか……残念だ、パトラ……俺よりも魔女の言葉を信じるなんて」
「え? え? わたし、そんなことは一言も」
「俺はアガサを信じている。これじゃあ信用が足りないか」
「……その女は悪名高いファウスト家の生まれですよ」
「知っている。俺はその人たちに会ったことがある。みんな優しくて良い人たちだった。ファウスト家の研究のおかげで医療が飛躍的に向上したことを忘れたか」
「で、ですが……!」
「直接会ってもいない人物を評価するのは一国の姫様としてどうなんだ。少なくとも俺は好かないな」
「…………」

 パトラは無言で壁に寄り道を譲る。

「ありがとう、パトラ。わかってくれて嬉しいよ」

 シーザーは礼を言うと階段を駆け上がっていく。
 アガサはお辞儀してから恐る恐るパトラの前を通過していく。おどおどと目を合わせないように。

「アガサ様」

 途中で呼び止められる。

「我々を騙すような背徳が発覚した時は……覚悟しておくように」

 そう言ってパトラは階段を降りていく。
 アガサはしばらくその場で立ち尽くしたが、

「おい、アガサ! なにしてんだ! はやくこっち来いよ!」

 シーザーの呼ぶ声。
 アガサは階段を上がっていった。

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 二人が宿屋付近に戻る頃には日没を過ぎていたが空の端が僅かに茜色が残っていた。
 ヴィトク国は昼とはまるで違う顔に変わっていた。
 あれほど活気だった賑わいはない。人気もない。どこか息をひそめて隠れているよう。

「さっさと宿屋に入ろう。ここから先は光無き者たちの時間だ」
「……」

 宿屋が見えた、その時だった。

「お恵みを……光を……」

 骨の形がわかるほどやせこけた男が現れた。ノミがわいた布が一張羅の見るからにみすぼらしい姿。
 アガサはすぐに腰に吊るした袋を外す。

「聞こえますか、見えますか。これより袋を渡します。中には少しばかりの飴と銅貨があります」
「お、おお、おおお……! どこのどなたか存じませんが、ありがたや……! ありがたや……!」

 光が失われた目から少量の涙が流れる。

「脱水状態にあるようですね。袋を受け取ったらここで待っていてください。今すぐ水を」

 アガサが物乞いに袋を手渡そうとした時、

「おまえ、メフィストフェレスではあるまいな」

 シーザーは物乞いを蹴り飛ばした。物乞いは小石ほどの体重しかなく、蹴飛ばされた小石のようによく飛んだ。

「が……は! も、もうしわけ、ありません、わたくしめは、なにかご無礼を」
「ふむ、どうやらメフィストフェレスではないようだな……ただの無法者であったか」

 ひれ伏す物乞いに猫が後始末するように砂埃をかけた。

「光無き者。よく聞け。まだお前らの時間ではない。見よ、空の端にはまだ光が残っている」
「そ、それは……! わたくしめ、はこの通り目が」
「光有る者は光有る時間、光無き者は光無き時間。異なる者同士が互いに一定の距離を保つ奥ゆかしさこそが美徳。それを忘れたとは言わせないぞ!」

 ドラゴンスレイヤーを鞘から抜き、大きく振りかぶる。
 首をはねようと下そうとした時、

「シーザー!!!」

 この日一番の大きなアガサの声。
 反射でぴたりと止まる。
 止まっているうちにアガサは素早く物乞いの元へ走り、

「さあ、遠慮せず受け取りなさい。そしてどうか今の蛮行を」

 アガサが言い切る前に物乞いは袋を受け取り、千鳥足で走り去っていった。

「なんだありゃ。やっぱ目が見えていたんじゃないか」

 シーザーはドラゴンスレイヤーを鞘に納める。

「さあ、早く中に入ろうぜ。というか腹が減って仕方がない。昼飯も夕飯も食いそびれたからな。サラミがないか聞いてみるか。なあ、アガサは飯はどう」

 パシィン!!

「……っ!?」
「……」

 アガサはシーザーに無言で平手打ちを食らわせた。

「な、なんで……」
「……」

 問いには答えずにアガサは宿屋の中へと入っていった。

「……ちえっ。今の、俺が悪いのかよ」

 ばつの悪そうな顔を浮かべてシーザーも宿屋へと入っていった。

λλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλλ

 静寂に包まれた部屋。隙間風もなく、蝋燭の灯は直立している。
 ネグリジェ姿のアガサは日課であり使命である聖典の読書を行っていた。聖女は毎日欠かさず聖典を読むことが義務付けられている。内容をどれだけ隅々まで暗記していようと読むことが美徳とされている。
 読み終えて蝋燭の灯を消し眠りにつこうとした時、ドアが叩かれる。

 どんどんどんどん!!!!
 どんどんどんどん!!!!

 蝋燭の灯が揺れるほどの轟音が宿中に響き渡る。
 壁の向こうから聞きなれた鎧が軋む音。

「俺だ! シーザーだ! 開けてくれ!」

 活発な子供もようやく寝静まるような夜の時間帯。
 アガサは一刻も早く止めるべくドアに向かう。
 鍵を開け、ドアノブを捻る前にシーザーが押し入ってくる。

「さっきはすまない。許してほしい」

 押し入ったと思えば突然謝罪を始める。

「でも仕方がないことなんだ。メフィストフェレスは変身が得意だ。老若男女動物、きっとドラゴンにだって化ける。変声も得意だ」
「だから……あの物乞いを蹴飛ばしても許されると」

 ベッドに腰を掛けて床を見つめる。

「ああ、許される行為ではない……だけど君を守るなら仕方がないことなんだ。それをわかってほしい」
「……じゃあレストランで待ち続けていた母子を差し置いて食事を摂っても仕方がないことなの」
「……それは……今度探し出してフルコースに招待しよう」
「……」

 アガサの機嫌は治らない。

「なあ、アガサ。俺は本気で君のことを大切に想っているんだ。それだけは信じてほしい。君を想うからこそ、あのメフィストフェレスが憎くてたまらない。君の家族の仇だ。家族ではない俺にもまるで家族の一員のように優しくしてくれた人たちだった。父さんは俺に夢を与えてくれた。母さんは俺に癒しを与えてくれた。兄貴は俺に力を与えてくれた。なのにあいつは……その善良な人たちを惨たらしく殺したんだ」

 奥歯が砕けるかのような歯ぎしり。彼の怒りは本物。

「……夜明けまで俺が起きて番をする。アガサはゆっくり休んでいてくれ」

 アガサは頭を下げたまま頷いた。

「それじゃあ、また明日」

 バタン!

 ドアを引っこ抜く勢いで閉め、ずかずかと足音を立てて去って行った。

「ふう……」

 ドアを閉めて鍵を閉めてからベッドに倒れ込む。
 ため息をついても心のざわつきが落ち着かなかった。
 蝋燭の灯はゆらりゆらりと揺れる。

「あ……消さないと……」

 ベッドから立ち上がるとまたもドアをノックする音。

 こん、こん。

 耳を澄ましていないと聞き逃してしまいそうなほどに慎ましやかなノック。
 二回叩かれただけでしばらく間が空く。

「……シーザー?」

 ドアの向こうに誰かいるかはわからない。もういなくなっているかもしれない。
 それを確認するためにもアガサは不用心にも開錠しドアを開けてしまう。
 アガサが作ったドアの隙間に、突如四本の蠍の尻尾が挟まる。否、それは指。

「こ、この手は……」

 慌てて閉めようとするがビクともしない。
 それどこからドアはきぃぃと静かに音を立てて開かれていく。
 アガサはすぐに部屋の隅、ベッドの上に逃げる。

『いけません、いけませんね……』

 西洋の高身長の男でも頭をぶつけないように設定されたドアの上枠を、身体を屈めてくぐる来訪者。

『不用心に過ぎますよ。もしもあなたの命を狙う不届き者だったら今頃どうなっていたと思います』

 左腕を象の鼻のように伸縮させドアを閉め施錠する。
 これで聖女の逃げ場は失った。

『挨拶が遅れました。こんばんは、メフィストフェレスです』

 ニッコリと満面の笑みを浮かべる。

『それでは危機感のない聖女殿のために、戸締りをしっかりしないとどんな目に合うか身をもって知ってもらうとしましょう』

 腰に巻いた赤布を剥ぐ。
 血管がくっきりと浮き立つ肉棒が姿を現わした。
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