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平和な世界線in女体化
女になっちまいました18
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中心部には悠然と椅子に座っている羽振りのよさそうな中年の女が一人。皺ひとつないスーツを着て、足を組んで何かの報告書を眺めている様子は、やり手なキャリアウーマン風熟女といった所か。只者ではなさそうな雰囲気である。
「突然失礼したわね。私はこのような者です」
名刺を差し出されてなんとなく受け取る。
「現矢崎グループ全てを統括する財閥副社長の矢崎柘榴と申します。以後お見知り置きを」
「副社長……矢崎、柘榴……?」
俺は名刺を受取りながら名前でハッとする。矢崎柘榴ってあまり聞かない人物だが、あの性悪バカ社長の姉という事を思い出した。
げ、まじかよ。なんで副社長でその姉が俺なんかに逢いにくるんだよ。嫌な予感しかせんわ。
「話は聞いていますよ。甥と愚弟がいつもお世話になっているわね」
「こちらこそいつもめちゃんこお世話にナッテマス」
甥って直の事だろう。愚弟は言わずもがな。友里香ちゃんを除いていろいろ思う所はあるバカ一族だが、とりあえず社交辞令的に頭をペコリ。過去に黒崎家にした事を考えれば頭なんか下げたくない相手だが、一応初対面だから礼儀良くした。
「突然の来訪に驚かせたわね。キミに会ってみたいと思ったのよ」
「……ソーデスカ」
「どこからどう見ても普通のお嬢さんだけど……直はキミのどこに惹かれたのか気になって」
副社長の女は俺をじっと探るように見てくる。そういえばあのバカ社長にも同じことを言われたな。直がなぜ俺に惹かれたのだの、どこにでもいる平民なのになぜだの、そんなもん人の趣味なんだから誰をどう好きになろうが勝手だろうがよと思う。
だって俺は本当に普通の人間だ。普通過ぎて経営者の鋭い目利きは俺には素通り。少し前まで男だったというイレギュラーを除けばな。まあ、元男ってだけで普通じゃないかもしれんが、いたって騒ぐほどの人間ではないのだ。
「……おっしゃる通り、いたって普通ですが何か。気になっても答えなんてたぶん出ませんが」
「その普通がわからないのよ。普通じゃなければ、まず直は君には惹かれないはずよ。何か特殊なご趣味とかおあり?」
「特に何も」
あえて言うなら薄い本漁りとエロゲと筋トレくらいだろうか。それは男であった時の趣味だが。今はもっぱら女子力高い趣味をいかして小遣い稼ぎをしているくらいである。時々コンシューマーを少々。肉体的に弱体化したし、筋肉も付きにくくなって、筋トレが趣味とは言えなくなってか弱い普通の女になりましたよ。
「甥は今までどんなに美しい女だろうが、才能ある女だろうが、男だろうが女だろうが人間そのものを気にいる事はなかったわ。小中学時代の例外はあったとしてもね」
小中学時代といえば、昭弘君とあずみちゃんの事や篠宮の事だろう。俺と出会う前の、直にとっては唯一の心の拠り所な三人だったと思う。
「どんな人間を周りに置いても心を開かないのもあるけど、人付き合いそのものを嫌っていたのよ。誰も信用せず、全てに失望していた。次期財閥社長としては当然よくない傾向であったけれど、時に嫌われ役に徹する事もある立場ゆえに、それもまたある意味ではよかったのだと思っていた。が、さらに予想外が起こった。それがキミよ」
副社長は鋭く俺を見つめた。まるで敵意の眼差しだ。まあ、まじで敵意は向けられているのだろうけど。
「なぜあなたに甥が惹かれたのか本当に不思議なの。私からすれば不可解だわ。特別な才能があるわけでも、目を見張るほどの容姿をしているわけでもなく、どこにでもいるキミにうつつを抜かしている。……まずい事になったものだわ」
副社長のオバさんは眉間に皺をよせて目を伏せる。
「何がまずいんですかねー?」
俺がやれやれと副社長さんに訊く。
「ああ、言葉が悪いと思うけど、あなたがまずいって事よ」
たしかに。そりゃあまずいでしょーよ。次期トップを誑かしたんですもんね。てへぺろ。
「今の甥はキミの存在に溺れすぎて、次期社長としての自覚も覚悟も中途半端になってきているわ。先日は決まりかけていた大きな商談もキミの存在を優先するあまり先送りになった。そればかりか、数日前はキミとの時間ばかりを気にして御贔屓にしている企業のトップの機嫌を損ねたり、大事なパーティーをすっぽかしたりして散々だったのよ。すべてはキミの存在に入れ込みすぎているせい他ならないの」
迷惑をかけていたなんて知らなかった。いや、そんな事を直が逐一話すわけないけれど、自分の存在が直の仕事の負担になっているという事だろうか。いやいや、この女の口車に乗せられているだけかもしれない。あのバカ社長の姉なだけあってほらを吹いているだけかもしれないし……
「こうなっている以上、親族として見過ごせなくてね。なんとかして甥の目を覚まさせてやりたいと思っているのよ。愛だの恋だのという幻想に惑わされ、自分のやるべき事を見失なってしまう前にね」
オバさんは懐から煙草とライターを取り出して火をつける。口に銜えて一服をした。おい、煙をこっちに向けるな、このヤニカスめ。煙草嫌いに配慮しやがれよ。わざとか。
「目を覚まさせるって何を?」
俺が煙にイラつきながら訊き返す。
「甥には許嫁がいる事は御存知?」
「報道されているのは見ますけど……所詮は週刊誌レベルなんで」
「二ヶ月前、許嫁相手の川田親子らと食事会をしたの。事実上の縁談……いえ、婚約の話を双方で話をつけてきたわ。甥の目を覚まさせるいいチャンスだからね。もう学生気分のお遊びは終了という事。本当の大人として、次期社長として目覚めてもらうために終わらせるのよ。でもあなたがいたんじゃ甥の成長の妨げになる」
つまり、俺が邪魔だから縁談とやらを強引に進めているという。どう考えても直の本意ではないよなその縁談。
「ですから、もう甥には関わらないでほしいという事よ。婚約はもう決まったも同然。甥は卒業と同時に川田凛々子と結婚する。だから、もう二人の結婚の邪魔をしないでほしいの」
「っ……」
財閥勢力が俺という存在が目障りだから、とうとう圧力をかけて引き離しに来たか。
「いきなりこんな事を言われてキミも悲しいだろうし、こちらとしても心苦しいわ」
はは。心にもない事を言いやがる。
「でもね、甥の社長としての将来を台無しにはしたくないのよ。日本の将来のため、多くの社員のクビもかかっている。今まであの気難しい甥と付き合ってくれた事に対する評価も含めて、褒美として一億いやそれ以上をさしあげてもかまわないわ。キミが欲しいモノはなんだって用意する。今までの迷惑代と手切れ金として。だから、直から手を引いてちょうだい。そして二度と矢崎家には関わらないで」
オバさんの命令に近い要求に俺は早く帰りたかった。
*
日本では昼過ぎ、米国のニューヨークでは夜の23時ごろをまわっていた。やっとの事で甲斐に電話をかけられる時間をみつけて、自室の部屋にこもってスマホを耳に当てる。ここ最近の一番の有意義で幸せな時間が甲斐との電話のひと時だけだった。
「今、大丈夫か」
『ああ、うん……』
いつもより低いテンションと声。なんだか元気がないような気がした。
「何かあったのか?」
『なんでもないよ。体調があまりよくなくてな』
「大丈夫なのかっ!」
声を大にして心配するオレに甲斐はふふと笑う。
『たいしたことねーって。ただの頭痛だ』
「っ……頭痛でも……心配だ……。オレはお前に何かあったらと思うと恐くて……」
『大丈夫だって。薬飲んだから。直がこっち来るまでにはちゃんと万全でいるから』
「あまり無理するなよ。なんかあったらすぐに言え。メールでもなんでも。それか、日本にいるオレの部下や拓実らを頼ってもいいから」
『わかったよ。心配かけちゃって悪い。せっかく掛けてくれたのに、体調が悪いからもう切る事になっちまうけど』
「っ、本当はもう少し話したかったけど、お前の体調を優先だから……仕方ないよな。ちゃんと治せよ」
『……うん』
「二週間後の誕生日の日……夜遅くなるかもしれない。でも、日付が変わるまでには逢いに行くから。待ってろよな」
『……ああ。料理作って待ってるから』
スマホを切り、様子が変だった甲斐が気がかりだった。体調が悪いからだろうけれど、よくよく考えるとそれだけじゃないような気がしていた。
パリに到着したその夜、疲れがたまっていながらもいろんな重役を集めた晩餐会に出席した。晩餐会など面倒だが、大型契約を円滑に進めるためには仕方のないこと。ビジネススマイルを顔面に張り付けていろんな重役共と腹の探り合い。
食事も各国の最高級料理。プロが作っているものだから美味といえば美味なのだが、こう頻繁に高級モノを食べていると飽き飽きしてくる。愛する甲斐の家庭料理が食べたい。特に日本食。日本食が恋しい。はやく日本に帰国したい。
「きゃーMrナオよ!」
「あーん超素敵。いつ見ても超ハンサムだわぁ」
「ほんと、惚れ惚れしちゃう。あんなイイ男の奥さんになる人程幸せ者はいないわよ」
外野がうるさいが無視だ。日本と違って外国の女共は特に積極的で図々しいから関わらないようにしなければならない。だからいつも以上に気を張っていたのだが、背後から今まさに揉めるような声に嫌な予感がした。
「ちょっと!あんたなんなのよ!これからMrナオに用があるから話をしようとしているのに」
どっかの白人のご令嬢が川田ともめていた。オレは頭が痛くなった。
「申し訳ありません。社長は晩餐会を楽しんでおりますので個人的な会話は今はお控えください」
「こっちだって晩餐会を楽しみたいのよ!あんたMrナオのなんなの?あたしはローザンヌ社の代表取締役会長の娘フランソワよ!」
「私は秘書の川田と申します」
「ふん、だかが日本猿の秘書風情がなんなのよ!Mrナオの秘書はMrソウジロウだったはずよ。あんたみたいな女が秘書だなんてMrナオの愛人気取りかしら。秘書が愛人てよくある話だしね」
愛人という言葉が出た途端、周囲にざわっと波紋が広がる。
面倒なことになってきやがった。久瀬だったら令嬢が不愉快にならないように紳士的な対応で抜かりなく動くだろう。しかし、いくら仕事が有能でも、秘書が女というだけで他社の重役や同性相手の令嬢達からはナメられやすい。それに異性の主従関係だとあらぬ噂をたてられやすく、距離感も誤解を生みやすいのだ。
だから女の秘書は面倒で厄介なのだ。きっとこうなるのを見越してあのババアは川田を送り込んできたのだろう。何かのどさくさにまぎれて、オレとこの女の関係を疑う記事をでっちあげる腹づもりなのかもしれない。
「婚約者って噂だかなんだか知らないけど、そんな立場とっとと降りなさいよ!黄色いジャップのくせに!」
興奮した令嬢はそばにあったワインボトルを手に取り、勢いよく川田の頭にぶちまけた。
「きゃ」
驚く川田の全身はワインでずぶ濡れになった。
「ふふ、いい気味だわ!Mrナオはあんただけのものじゃないんだから!」
「フランソワ嬢」
オレは心の中で深いため息を吐き、仲裁役を買って出ることにした。あー面倒くせえ。
「私の秘書がなにか失礼をいたしましたか」
「きゃあ、Mrナオ!失礼という事はありませんが、この秘書とはどういうご関係なのかと不思議に思いまして」
「そうですか。フランソワ嬢が考えているような関係はございませんよ。筆頭秘書の久瀬は事情によりこの場にはおりませんが、彼女は臨時の秘書です。婚約に関してはこちらからは今はまだ何も申し上げる事はできません。もし至らない部分が見受けられましたらこちらとしても注意をしておきましょう」
そうしてオレは紳士的な対応をして令嬢に優しく微笑みかけた。
「んまっ!そ、そうでしたのっ。私ったら早とちりをしてしまいましたわ!ただの臨時秘書でしたらそれはそれでいいのです!その女が婚約者だなんて噂を聞いて驚いたのもありまして、おほほほ」
こうすれば大抵の女は落ち着いてくれる。この容姿でのビジネススマイルは昔から武器になるので活用しない手はない。
「あの、直様……申し訳ありません」
「ああいうのはどこにでもいる。お前は仕事はできるかもしれんが、あの手の令嬢の対応は疎かなようだな」
「……言葉もございません」
川田はこういう事は予想外だったのか、至らないとばかりに頭を深々と下げてきた。世間知らずのお嬢様でまだまだわきが甘いのだろう。きつい性格の女を相手にした事がないのが丸わかりだ。
「本当なら即刻お前など追い出してやりたいところだが、筆頭秘書の久瀬がいない中、お前しか業務を任せられる秘書がいない。不本意だが、久瀬が復帰するまでお前で我慢しといてやる。せいぜいオレに恥をかかせるなよ」
*
誕生日当日の夕方、俺はスーパーに立ち寄って本日の夕食の食材を見て回る。自分の誕生日といっても直が来るので、それなりに美味いモノを作って食べさせてあげたいと張り切る。高級レストランで出るようなコース料理とはいかないけれど、家庭的な味の美味しさを堪能してもらいたい。
もしかして、恋人として過ごせる最初で最後の時間かもしれないから。
俺はずっと直の恋人でいられるのかわからない。いくら一緒にいる事を諦めないと約束しあっても、やっぱり直がそばにいないと心が折れそうなのだ。離れ離れだからこその不安と寂しさに押しつぶされてしまいそうになる。周りの圧力に負けてしまいそうになる。
好きだから別れたくないのに。ずっと一緒にいたいのに、俺はあの程度の財閥の圧力にウジウジしちまって情けない。
さっきも通りすがりのチンピラを前に震えてしまった。男を前にするとやっぱり震えてしてしまう自分は、かつての勇ましかった自分などなかったかのように思える。もう開星学園イチ不良の架谷甲斐はいないのだ。
女になってからつくづく弱体化したと思っていたが、どうやらそれは肉体だけじゃなかった。心も弱くなっていた。すっかり怯えきったただの女に成り下がった俺。こんなんじゃ、直にもそのうち愛想を尽かされるだろうな。
「はは、作りすぎちゃった」
夕方からずっと料理に取りかかっていた俺は、無心で沢山の品数を用意した。料理の腕だけは上昇していて、将来は料理屋でも開こうかとさえ思っている。もし、一人で生きていくことになりそうなら、それもいいかもしれない。
昨日から煮込んでいたポトフに、試行錯誤したローストビーフに、直が食べたいと言っていた卵焼きに、生ハムのリンゴサラダなど、テーブルいっぱいに品数が並んでいる。もちろんデザートも昨日から作って冷蔵庫に入れてある。
あとは直が来るのを待つだけだが、何時になるだろうか。日付が変わる頃には来ると言っていたけれど、日付が変わってしまっても仕方がない。とりあえず入浴を済ませて来ようと浴室へ向かった。
「ふぁあ~」
ああいけね、寝ちゃってた。いつの間にかテーブルに座ったまま微睡んでいた。あくびをして時計を見れば23時過ぎ。もうすぐ日付が変わってしまうが、直からの連絡は来ていない。来る前にはメールか電話は寄越してくれるはずだが、きていないという事はまだ用事が終わらないのだろう。
日付が変わる前までに来るのは無理そうかな。でも、17歳の誕生日の当日に逢いたかった気持ちもある。腕によりをかけて作った料理達は当然冷めきってしまい、ラップをかけてそのままにしてある。あ、そういえばウーロン茶しか用意してなかったな。
近所のコンビニへ飲み物を買いに外に出た。コンビニは徒歩五分程度の大通りに面した場所にあり、あの矢崎グループが経営する帝都クラウンホテルもそこにある。
相変わらずでかいホテルだなとなんとなくクラウンホテルの入り口を眺めると、一際高級そうな外車がやって来てホテルの入り口前に停車した。ホテルの支配人やら数人の従業員が出迎えて、まず友里香ちゃんが降りてきた。
義妹の彼女がいるならもしかして直もいるのだろうかと眺めていると、直もびしっとしたスーツ姿で降りてきた。久々に見る直の姿に高揚して、思わず彼の元へ走って駆けようとした時、自然と駆ける足はすくみあがって次第に止まっていた。
許嫁と噂される川田衣里子も一緒にいたのだ。直と一緒に降りて赤い顔をして直の腕を組んでいる。世間が婚約者同士と囃し立てる二人のツーショットが目の前にあり、胸がちりっと痛んだ。
見たくないな。そう思ってすくむ足を無理やり動かして方向転換しようとすると、信じられない一瞬が目に入った。川田が直に背伸びをして堂々とキスをしている瞬間を目の当たりにした。
ひどく動揺し、心臓がドクドクと嫌な風に高鳴る。たかがキス程度とは思うが、見てはいけないような気がして、一目散にその場から走って逃げ帰った。
気持ちが悪い。めまいがする。苦しい。吐きそう。
大いに心が傷ついたのを自分でも察し、気がついたら居間にいて、精神科からもらっていた安定剤を一気に口に含んでいた。不快感と不安な症状を一時的に押さえようと必死で、何錠飲んだかわからない。
あの事件から精神が脆く弱くなっているのはわかっていたが、まさかここまでとは思わなかった。
医者からはPTSDという症状と言われ、後遺症がなかなか消えない。だから、頓服薬をもらっていた。ここ最近は不安やパニックに陥る症状があまり出なかったのに、あの光景を見た瞬間、不快感さに動悸が苦しくなっていた。
やだ。やだ。嘘つき。嘘つき。俺を好きだって言ったくせに。愛してるって言ったくせに。なんで他の女とキスしてんだよ。
薬を飲んでからすぐ、感情が落ち着かないまま作った料理をゴミ箱にぶちまけた。時間をかけて仕込んだポトフやローストビーフや食後のデザート全てを。
直の事を信じたかった。仕事だからって逢えないのを頑張って我慢した。あの許嫁との関係も周りが騒いでいるだけだって思いたかった。
でも今の脆い精神ではそれを信じることなんてできない。もう何度も洗面所に走り、あのキスの一面を思い出して嘔吐いた。
嫌い。嫌い。直なんか嫌いだ。浮気性野郎。大嫌いだ。
泣きながらそう呟いて慟哭を繰り返した末、気がついたら相沢先生と悠里に電話をかけていた。
*
「何しやがる!」
公の場だから車を降りた時は大人しくしていたが、ホテルの部屋の中へ入った途端にオレは川田に怒りを抑えられなかった。口紅がついたのでごしごしと何度もハンカチで唇を拭う。
「何って、キスをしたんです。あなたと私は婚約者同士なんですから」
川田は赤い顔をして悪びれもなく微笑んでいる。
「酒を飲むと普段の大人しさが消えて酒癖悪くなるってか。性質の悪い女だな」
「その性質の悪い女と結婚するんですよ、直様」
腕を伸ばしてくる川田の手をパシリと払いのける。
「お前と結婚するくらいならそこらのモブとした方がマシだ」
「まあ、相変わらずつれない方。でもそんな所が気に入ったんです」
「悪趣味」
ネクタイをむしり取り、整えられていた髪も乱し、急いでここを出ようとする。
「どちらへ行かれるんです?私はあなたの秘書なので行動を把握しておかないと」
「ふざけるな。プライベートすらお前に把握される理由がない」
それに対してもくすくす笑う川田。その不気味に笑う顔は胸糞悪くて気にくわないが、今はそんな事どうでもいい。早く行かなければ。
随分と時間を費やしてしまった。全てあのババアのせいだ。あの女の酒癖が悪いのもあるが、あんなクソみたいなパーティーに参加させるババアがすべての元凶。まるでわざとオレに仕事を押し付けて、自由な時間を奪おうと画策しているように思えるのも、あながち間違いではあるまい。
ああ、今はよそう。甲斐の事だけを考えよう。せっかくの幸せなひと時をババアやあの酒癖最悪女の事なんぞで無駄にしたくない。
そうして自宅の前までやって来て、すぐに入口の暗証番号と部屋のチャイムボタンを押した。腕時計を見れば日付がもう変わっていた。
「突然失礼したわね。私はこのような者です」
名刺を差し出されてなんとなく受け取る。
「現矢崎グループ全てを統括する財閥副社長の矢崎柘榴と申します。以後お見知り置きを」
「副社長……矢崎、柘榴……?」
俺は名刺を受取りながら名前でハッとする。矢崎柘榴ってあまり聞かない人物だが、あの性悪バカ社長の姉という事を思い出した。
げ、まじかよ。なんで副社長でその姉が俺なんかに逢いにくるんだよ。嫌な予感しかせんわ。
「話は聞いていますよ。甥と愚弟がいつもお世話になっているわね」
「こちらこそいつもめちゃんこお世話にナッテマス」
甥って直の事だろう。愚弟は言わずもがな。友里香ちゃんを除いていろいろ思う所はあるバカ一族だが、とりあえず社交辞令的に頭をペコリ。過去に黒崎家にした事を考えれば頭なんか下げたくない相手だが、一応初対面だから礼儀良くした。
「突然の来訪に驚かせたわね。キミに会ってみたいと思ったのよ」
「……ソーデスカ」
「どこからどう見ても普通のお嬢さんだけど……直はキミのどこに惹かれたのか気になって」
副社長の女は俺をじっと探るように見てくる。そういえばあのバカ社長にも同じことを言われたな。直がなぜ俺に惹かれたのだの、どこにでもいる平民なのになぜだの、そんなもん人の趣味なんだから誰をどう好きになろうが勝手だろうがよと思う。
だって俺は本当に普通の人間だ。普通過ぎて経営者の鋭い目利きは俺には素通り。少し前まで男だったというイレギュラーを除けばな。まあ、元男ってだけで普通じゃないかもしれんが、いたって騒ぐほどの人間ではないのだ。
「……おっしゃる通り、いたって普通ですが何か。気になっても答えなんてたぶん出ませんが」
「その普通がわからないのよ。普通じゃなければ、まず直は君には惹かれないはずよ。何か特殊なご趣味とかおあり?」
「特に何も」
あえて言うなら薄い本漁りとエロゲと筋トレくらいだろうか。それは男であった時の趣味だが。今はもっぱら女子力高い趣味をいかして小遣い稼ぎをしているくらいである。時々コンシューマーを少々。肉体的に弱体化したし、筋肉も付きにくくなって、筋トレが趣味とは言えなくなってか弱い普通の女になりましたよ。
「甥は今までどんなに美しい女だろうが、才能ある女だろうが、男だろうが女だろうが人間そのものを気にいる事はなかったわ。小中学時代の例外はあったとしてもね」
小中学時代といえば、昭弘君とあずみちゃんの事や篠宮の事だろう。俺と出会う前の、直にとっては唯一の心の拠り所な三人だったと思う。
「どんな人間を周りに置いても心を開かないのもあるけど、人付き合いそのものを嫌っていたのよ。誰も信用せず、全てに失望していた。次期財閥社長としては当然よくない傾向であったけれど、時に嫌われ役に徹する事もある立場ゆえに、それもまたある意味ではよかったのだと思っていた。が、さらに予想外が起こった。それがキミよ」
副社長は鋭く俺を見つめた。まるで敵意の眼差しだ。まあ、まじで敵意は向けられているのだろうけど。
「なぜあなたに甥が惹かれたのか本当に不思議なの。私からすれば不可解だわ。特別な才能があるわけでも、目を見張るほどの容姿をしているわけでもなく、どこにでもいるキミにうつつを抜かしている。……まずい事になったものだわ」
副社長のオバさんは眉間に皺をよせて目を伏せる。
「何がまずいんですかねー?」
俺がやれやれと副社長さんに訊く。
「ああ、言葉が悪いと思うけど、あなたがまずいって事よ」
たしかに。そりゃあまずいでしょーよ。次期トップを誑かしたんですもんね。てへぺろ。
「今の甥はキミの存在に溺れすぎて、次期社長としての自覚も覚悟も中途半端になってきているわ。先日は決まりかけていた大きな商談もキミの存在を優先するあまり先送りになった。そればかりか、数日前はキミとの時間ばかりを気にして御贔屓にしている企業のトップの機嫌を損ねたり、大事なパーティーをすっぽかしたりして散々だったのよ。すべてはキミの存在に入れ込みすぎているせい他ならないの」
迷惑をかけていたなんて知らなかった。いや、そんな事を直が逐一話すわけないけれど、自分の存在が直の仕事の負担になっているという事だろうか。いやいや、この女の口車に乗せられているだけかもしれない。あのバカ社長の姉なだけあってほらを吹いているだけかもしれないし……
「こうなっている以上、親族として見過ごせなくてね。なんとかして甥の目を覚まさせてやりたいと思っているのよ。愛だの恋だのという幻想に惑わされ、自分のやるべき事を見失なってしまう前にね」
オバさんは懐から煙草とライターを取り出して火をつける。口に銜えて一服をした。おい、煙をこっちに向けるな、このヤニカスめ。煙草嫌いに配慮しやがれよ。わざとか。
「目を覚まさせるって何を?」
俺が煙にイラつきながら訊き返す。
「甥には許嫁がいる事は御存知?」
「報道されているのは見ますけど……所詮は週刊誌レベルなんで」
「二ヶ月前、許嫁相手の川田親子らと食事会をしたの。事実上の縁談……いえ、婚約の話を双方で話をつけてきたわ。甥の目を覚まさせるいいチャンスだからね。もう学生気分のお遊びは終了という事。本当の大人として、次期社長として目覚めてもらうために終わらせるのよ。でもあなたがいたんじゃ甥の成長の妨げになる」
つまり、俺が邪魔だから縁談とやらを強引に進めているという。どう考えても直の本意ではないよなその縁談。
「ですから、もう甥には関わらないでほしいという事よ。婚約はもう決まったも同然。甥は卒業と同時に川田凛々子と結婚する。だから、もう二人の結婚の邪魔をしないでほしいの」
「っ……」
財閥勢力が俺という存在が目障りだから、とうとう圧力をかけて引き離しに来たか。
「いきなりこんな事を言われてキミも悲しいだろうし、こちらとしても心苦しいわ」
はは。心にもない事を言いやがる。
「でもね、甥の社長としての将来を台無しにはしたくないのよ。日本の将来のため、多くの社員のクビもかかっている。今まであの気難しい甥と付き合ってくれた事に対する評価も含めて、褒美として一億いやそれ以上をさしあげてもかまわないわ。キミが欲しいモノはなんだって用意する。今までの迷惑代と手切れ金として。だから、直から手を引いてちょうだい。そして二度と矢崎家には関わらないで」
オバさんの命令に近い要求に俺は早く帰りたかった。
*
日本では昼過ぎ、米国のニューヨークでは夜の23時ごろをまわっていた。やっとの事で甲斐に電話をかけられる時間をみつけて、自室の部屋にこもってスマホを耳に当てる。ここ最近の一番の有意義で幸せな時間が甲斐との電話のひと時だけだった。
「今、大丈夫か」
『ああ、うん……』
いつもより低いテンションと声。なんだか元気がないような気がした。
「何かあったのか?」
『なんでもないよ。体調があまりよくなくてな』
「大丈夫なのかっ!」
声を大にして心配するオレに甲斐はふふと笑う。
『たいしたことねーって。ただの頭痛だ』
「っ……頭痛でも……心配だ……。オレはお前に何かあったらと思うと恐くて……」
『大丈夫だって。薬飲んだから。直がこっち来るまでにはちゃんと万全でいるから』
「あまり無理するなよ。なんかあったらすぐに言え。メールでもなんでも。それか、日本にいるオレの部下や拓実らを頼ってもいいから」
『わかったよ。心配かけちゃって悪い。せっかく掛けてくれたのに、体調が悪いからもう切る事になっちまうけど』
「っ、本当はもう少し話したかったけど、お前の体調を優先だから……仕方ないよな。ちゃんと治せよ」
『……うん』
「二週間後の誕生日の日……夜遅くなるかもしれない。でも、日付が変わるまでには逢いに行くから。待ってろよな」
『……ああ。料理作って待ってるから』
スマホを切り、様子が変だった甲斐が気がかりだった。体調が悪いからだろうけれど、よくよく考えるとそれだけじゃないような気がしていた。
パリに到着したその夜、疲れがたまっていながらもいろんな重役を集めた晩餐会に出席した。晩餐会など面倒だが、大型契約を円滑に進めるためには仕方のないこと。ビジネススマイルを顔面に張り付けていろんな重役共と腹の探り合い。
食事も各国の最高級料理。プロが作っているものだから美味といえば美味なのだが、こう頻繁に高級モノを食べていると飽き飽きしてくる。愛する甲斐の家庭料理が食べたい。特に日本食。日本食が恋しい。はやく日本に帰国したい。
「きゃーMrナオよ!」
「あーん超素敵。いつ見ても超ハンサムだわぁ」
「ほんと、惚れ惚れしちゃう。あんなイイ男の奥さんになる人程幸せ者はいないわよ」
外野がうるさいが無視だ。日本と違って外国の女共は特に積極的で図々しいから関わらないようにしなければならない。だからいつも以上に気を張っていたのだが、背後から今まさに揉めるような声に嫌な予感がした。
「ちょっと!あんたなんなのよ!これからMrナオに用があるから話をしようとしているのに」
どっかの白人のご令嬢が川田ともめていた。オレは頭が痛くなった。
「申し訳ありません。社長は晩餐会を楽しんでおりますので個人的な会話は今はお控えください」
「こっちだって晩餐会を楽しみたいのよ!あんたMrナオのなんなの?あたしはローザンヌ社の代表取締役会長の娘フランソワよ!」
「私は秘書の川田と申します」
「ふん、だかが日本猿の秘書風情がなんなのよ!Mrナオの秘書はMrソウジロウだったはずよ。あんたみたいな女が秘書だなんてMrナオの愛人気取りかしら。秘書が愛人てよくある話だしね」
愛人という言葉が出た途端、周囲にざわっと波紋が広がる。
面倒なことになってきやがった。久瀬だったら令嬢が不愉快にならないように紳士的な対応で抜かりなく動くだろう。しかし、いくら仕事が有能でも、秘書が女というだけで他社の重役や同性相手の令嬢達からはナメられやすい。それに異性の主従関係だとあらぬ噂をたてられやすく、距離感も誤解を生みやすいのだ。
だから女の秘書は面倒で厄介なのだ。きっとこうなるのを見越してあのババアは川田を送り込んできたのだろう。何かのどさくさにまぎれて、オレとこの女の関係を疑う記事をでっちあげる腹づもりなのかもしれない。
「婚約者って噂だかなんだか知らないけど、そんな立場とっとと降りなさいよ!黄色いジャップのくせに!」
興奮した令嬢はそばにあったワインボトルを手に取り、勢いよく川田の頭にぶちまけた。
「きゃ」
驚く川田の全身はワインでずぶ濡れになった。
「ふふ、いい気味だわ!Mrナオはあんただけのものじゃないんだから!」
「フランソワ嬢」
オレは心の中で深いため息を吐き、仲裁役を買って出ることにした。あー面倒くせえ。
「私の秘書がなにか失礼をいたしましたか」
「きゃあ、Mrナオ!失礼という事はありませんが、この秘書とはどういうご関係なのかと不思議に思いまして」
「そうですか。フランソワ嬢が考えているような関係はございませんよ。筆頭秘書の久瀬は事情によりこの場にはおりませんが、彼女は臨時の秘書です。婚約に関してはこちらからは今はまだ何も申し上げる事はできません。もし至らない部分が見受けられましたらこちらとしても注意をしておきましょう」
そうしてオレは紳士的な対応をして令嬢に優しく微笑みかけた。
「んまっ!そ、そうでしたのっ。私ったら早とちりをしてしまいましたわ!ただの臨時秘書でしたらそれはそれでいいのです!その女が婚約者だなんて噂を聞いて驚いたのもありまして、おほほほ」
こうすれば大抵の女は落ち着いてくれる。この容姿でのビジネススマイルは昔から武器になるので活用しない手はない。
「あの、直様……申し訳ありません」
「ああいうのはどこにでもいる。お前は仕事はできるかもしれんが、あの手の令嬢の対応は疎かなようだな」
「……言葉もございません」
川田はこういう事は予想外だったのか、至らないとばかりに頭を深々と下げてきた。世間知らずのお嬢様でまだまだわきが甘いのだろう。きつい性格の女を相手にした事がないのが丸わかりだ。
「本当なら即刻お前など追い出してやりたいところだが、筆頭秘書の久瀬がいない中、お前しか業務を任せられる秘書がいない。不本意だが、久瀬が復帰するまでお前で我慢しといてやる。せいぜいオレに恥をかかせるなよ」
*
誕生日当日の夕方、俺はスーパーに立ち寄って本日の夕食の食材を見て回る。自分の誕生日といっても直が来るので、それなりに美味いモノを作って食べさせてあげたいと張り切る。高級レストランで出るようなコース料理とはいかないけれど、家庭的な味の美味しさを堪能してもらいたい。
もしかして、恋人として過ごせる最初で最後の時間かもしれないから。
俺はずっと直の恋人でいられるのかわからない。いくら一緒にいる事を諦めないと約束しあっても、やっぱり直がそばにいないと心が折れそうなのだ。離れ離れだからこその不安と寂しさに押しつぶされてしまいそうになる。周りの圧力に負けてしまいそうになる。
好きだから別れたくないのに。ずっと一緒にいたいのに、俺はあの程度の財閥の圧力にウジウジしちまって情けない。
さっきも通りすがりのチンピラを前に震えてしまった。男を前にするとやっぱり震えてしてしまう自分は、かつての勇ましかった自分などなかったかのように思える。もう開星学園イチ不良の架谷甲斐はいないのだ。
女になってからつくづく弱体化したと思っていたが、どうやらそれは肉体だけじゃなかった。心も弱くなっていた。すっかり怯えきったただの女に成り下がった俺。こんなんじゃ、直にもそのうち愛想を尽かされるだろうな。
「はは、作りすぎちゃった」
夕方からずっと料理に取りかかっていた俺は、無心で沢山の品数を用意した。料理の腕だけは上昇していて、将来は料理屋でも開こうかとさえ思っている。もし、一人で生きていくことになりそうなら、それもいいかもしれない。
昨日から煮込んでいたポトフに、試行錯誤したローストビーフに、直が食べたいと言っていた卵焼きに、生ハムのリンゴサラダなど、テーブルいっぱいに品数が並んでいる。もちろんデザートも昨日から作って冷蔵庫に入れてある。
あとは直が来るのを待つだけだが、何時になるだろうか。日付が変わる頃には来ると言っていたけれど、日付が変わってしまっても仕方がない。とりあえず入浴を済ませて来ようと浴室へ向かった。
「ふぁあ~」
ああいけね、寝ちゃってた。いつの間にかテーブルに座ったまま微睡んでいた。あくびをして時計を見れば23時過ぎ。もうすぐ日付が変わってしまうが、直からの連絡は来ていない。来る前にはメールか電話は寄越してくれるはずだが、きていないという事はまだ用事が終わらないのだろう。
日付が変わる前までに来るのは無理そうかな。でも、17歳の誕生日の当日に逢いたかった気持ちもある。腕によりをかけて作った料理達は当然冷めきってしまい、ラップをかけてそのままにしてある。あ、そういえばウーロン茶しか用意してなかったな。
近所のコンビニへ飲み物を買いに外に出た。コンビニは徒歩五分程度の大通りに面した場所にあり、あの矢崎グループが経営する帝都クラウンホテルもそこにある。
相変わらずでかいホテルだなとなんとなくクラウンホテルの入り口を眺めると、一際高級そうな外車がやって来てホテルの入り口前に停車した。ホテルの支配人やら数人の従業員が出迎えて、まず友里香ちゃんが降りてきた。
義妹の彼女がいるならもしかして直もいるのだろうかと眺めていると、直もびしっとしたスーツ姿で降りてきた。久々に見る直の姿に高揚して、思わず彼の元へ走って駆けようとした時、自然と駆ける足はすくみあがって次第に止まっていた。
許嫁と噂される川田衣里子も一緒にいたのだ。直と一緒に降りて赤い顔をして直の腕を組んでいる。世間が婚約者同士と囃し立てる二人のツーショットが目の前にあり、胸がちりっと痛んだ。
見たくないな。そう思ってすくむ足を無理やり動かして方向転換しようとすると、信じられない一瞬が目に入った。川田が直に背伸びをして堂々とキスをしている瞬間を目の当たりにした。
ひどく動揺し、心臓がドクドクと嫌な風に高鳴る。たかがキス程度とは思うが、見てはいけないような気がして、一目散にその場から走って逃げ帰った。
気持ちが悪い。めまいがする。苦しい。吐きそう。
大いに心が傷ついたのを自分でも察し、気がついたら居間にいて、精神科からもらっていた安定剤を一気に口に含んでいた。不快感と不安な症状を一時的に押さえようと必死で、何錠飲んだかわからない。
あの事件から精神が脆く弱くなっているのはわかっていたが、まさかここまでとは思わなかった。
医者からはPTSDという症状と言われ、後遺症がなかなか消えない。だから、頓服薬をもらっていた。ここ最近は不安やパニックに陥る症状があまり出なかったのに、あの光景を見た瞬間、不快感さに動悸が苦しくなっていた。
やだ。やだ。嘘つき。嘘つき。俺を好きだって言ったくせに。愛してるって言ったくせに。なんで他の女とキスしてんだよ。
薬を飲んでからすぐ、感情が落ち着かないまま作った料理をゴミ箱にぶちまけた。時間をかけて仕込んだポトフやローストビーフや食後のデザート全てを。
直の事を信じたかった。仕事だからって逢えないのを頑張って我慢した。あの許嫁との関係も周りが騒いでいるだけだって思いたかった。
でも今の脆い精神ではそれを信じることなんてできない。もう何度も洗面所に走り、あのキスの一面を思い出して嘔吐いた。
嫌い。嫌い。直なんか嫌いだ。浮気性野郎。大嫌いだ。
泣きながらそう呟いて慟哭を繰り返した末、気がついたら相沢先生と悠里に電話をかけていた。
*
「何しやがる!」
公の場だから車を降りた時は大人しくしていたが、ホテルの部屋の中へ入った途端にオレは川田に怒りを抑えられなかった。口紅がついたのでごしごしと何度もハンカチで唇を拭う。
「何って、キスをしたんです。あなたと私は婚約者同士なんですから」
川田は赤い顔をして悪びれもなく微笑んでいる。
「酒を飲むと普段の大人しさが消えて酒癖悪くなるってか。性質の悪い女だな」
「その性質の悪い女と結婚するんですよ、直様」
腕を伸ばしてくる川田の手をパシリと払いのける。
「お前と結婚するくらいならそこらのモブとした方がマシだ」
「まあ、相変わらずつれない方。でもそんな所が気に入ったんです」
「悪趣味」
ネクタイをむしり取り、整えられていた髪も乱し、急いでここを出ようとする。
「どちらへ行かれるんです?私はあなたの秘書なので行動を把握しておかないと」
「ふざけるな。プライベートすらお前に把握される理由がない」
それに対してもくすくす笑う川田。その不気味に笑う顔は胸糞悪くて気にくわないが、今はそんな事どうでもいい。早く行かなければ。
随分と時間を費やしてしまった。全てあのババアのせいだ。あの女の酒癖が悪いのもあるが、あんなクソみたいなパーティーに参加させるババアがすべての元凶。まるでわざとオレに仕事を押し付けて、自由な時間を奪おうと画策しているように思えるのも、あながち間違いではあるまい。
ああ、今はよそう。甲斐の事だけを考えよう。せっかくの幸せなひと時をババアやあの酒癖最悪女の事なんぞで無駄にしたくない。
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