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十一章直はすべてを捨てた

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「起きろよ。遅れても知らないよ」

 その数時間後に直がカーテンを勢いよく開けて、照りつけるまぶしい陽の光を浴びた。そのまま目覚めのキスが降ってきて少しだけ眠気が緩和される。でも眠い。眠いけど起きねば。朝飯をまず作って準備をせねば。

「直……おはようっ、う……いってぇ」

 体を起こそうとすると、下半身や腰にずきんと痛みが走る。もちろん愛し合ったせいでの痛みだ。しかし、起きないとばーちゃんに怒られちまうので意地でも起きないといけない。 

「やりすぎちゃったからな。でも調子に乗るお前も悪い」
「直が煽るからだろっ。うう、いててて」

 腰痛の痛みに我慢しながら朝食を作る。昨日の夜に仕込みをしておいてよかったよ。朝飯はやはり和食に限るので、白飯と地元名物の岩のりの味噌汁と塩じゃけとばーちゃんからもらった煮物と漬物でいいな。

「いい香り」 

 直が味噌汁のだしの香りを堪能している。ちゃんと昆布と鰹節から出汁を取った味噌汁だ。水が井戸から汲んだものなので米も味噌汁も最高に美味い。

「今日は俺はばーちゃんの畑の手伝いに行ってくるよ。昼には戻ってくるからそう遅くはならない。直はこの辺を好きに散歩したり森林浴をしてたらいい。体調の方を優先してくれ」

 俺がメシをがつがつ食べながら話す一方で、直は静かに綺麗な箸使いで米を食している。これが育ちの違いである。

「じゃあ、外で本でも読みながら過ごすよ。空気が美味しいし、森林浴してるだけで体調がよくなりそうだしな」
「具合悪くなったらすぐ電話しろよ。遠慮しなくていいからな。ここスマホの電波超悪いからこの家の電話使ってもいいし」
「わかった」

 ただでさえド田舎なせいでスマホや通信機器全般の電波が悪いのだ。普通にメールを送る事もままならず、電波がいい場所を探して電話をかけなければならない。おかげでこの田舎に来た際はエロゲアプリなどができずに何度イライラした事か。

 一先ず直と別れ、ばーちゃんの手伝いに駆り出された俺は、俺にしかできない力仕事を任された。野菜のコンテナ運びと元やくざ者共の昼メシ作り係である。あとは最近この辺にクマがよく出没するのでクマ退治を任されたりな。

 祖父母だけでもクマ退治はできるのだが、二人とも忙しいのでなかなか退治しに行けず、この二日の間は俺がクマ退治を任命された。新しい山の主みたいな巨大な熊がいるらしく、近所の人もビビっているようなのでさっさとボコってきますか。

 *


 甲斐の田舎はとてものどかで静かだった。都会の喧騒やごみごみした世界ばかりを見てきたオレにとって、日本の田舎というのは新鮮な雰囲気がして過ごしやすい。村の人も都会にいる人間より素朴で愛想がよく純朴そうだ。空気も澄んでいるし、水もとても美味しい。 

 ここでずっと甲斐と静かに暮らしたかったな。オレが矢崎の後継者じゃなかったら……ずっと。

 ぼうっと縁側の庭先の向こう側を眺めていると、ふとスマホの振動に気づいた。電波状況がよくないのかなかなか受信できずにいたが、一時間前に送信されたメールが二通ほど届いていた。なんとなくその宛先を開くと、一通目は川田という久瀬以外の秘書からだった。

『留学の手続きが完了しました』というもの。
 
 最近、久瀬が俺の秘書を外れることが多くなっていると思っていたが、正之の権限でそうしていると考えると妙に納得ができていた。

 久瀬は誠一郎派の人間なので都合が悪い存在だと向こうが察したのだろう。久瀬からわずかに感じられる矢崎への反抗心を悟られて、あえて外されたのかもしれない。それとも、長年の付き合いのある秘書すら遠ざけてオレを孤独にさせようと画策しているとも考えられる。まあ、両方だろう。

 二通目は正之の専属秘書の牧田からだった。用がある時は新しい秘書の川田を通してくださいというもの。ようするに川田という秘書は、オレが妙な真似をしないか監視役としてオレによこしたんだろう。という事は、久瀬は正式にオレの秘書を解任されるという事か。

 長年連れ添った腹心でもある久瀬すらもいなくなるのか。虚無感を感じながらそのメールを見てすぐにスマホを閉じた。

 短い幸せだったな……。

 やっぱり、オレは幸せになんてなれない。こののせいでそういう運命なんだ。

 終わりはすぐに近づいているのだと悟り、虚脱感にしばらくぼんやりとしていた。


 *

 山の主の大熊を必殺のヒグマかかと落としで退治して村長に報告。これでとりあえずは安心だろう。あの山の主のクマはこの地名物の熊肉にでもなって明日辺りには販売されているかもな。俺は熊肉は好きではないので食わんけど、ありがたく人間様の食物として頂戴する。

 ばーちゃんの元へ凱旋していると、見知った顔が俺に気づいて声を掛けてきた。

「甲斐のだんな!」

 ん、こいつどっかで……

「……お前、浅井康夫か?」
「ハイっス!お久しぶりっす!」

 浅井康夫とは万里ちゃん先生の母親の元カレだった男だ。お忘れの方も多いと思うが、万里ちゃん先生を筆頭に消費者金融から金を限度額いっぱいまで借りて、ついには隠れた闇金のホワイトコーポレーション白井グループにまで金を借りて、不運にもヤバイ光景を見たせいで命を狙われていた男だ。(五章参照)

「いやーまさかお前だったとは……随分変わったな」

 髪もロン毛で無精ひげだったのに、今じゃスッキリ坊主頭でひげも剃っていたのである。

「おばあ様やパイセン兄貴達からこってり絞られて可愛がられましたからね。ギャンブル依存症もすっかりこの通り治りました!昔の俺はもう黒歴史もいい所っス!おばあさまやパイセンたちのおかげっスよ」
「そうかそうか。更生したんだな」

 うむ、こいつの事は脳裏の片隅で気にかけておったのでギャンブル依存症が完治してよかった。借金も順調に返済していると聞いていたしな。

 おまけにこの様子ではばーちゃん信者にもなったようでまた信者が一人増えた。新興宗教の信者がどんどん増えて50人になるまであと少し。しかもヤクザやマフィアの幹部みたいなのばっか。おかげでこの辺りに近づく不審者がここ数年は一匹もいないようで、ばーちゃんの下僕達は治安維持にも役立っていて何よりだ。

「ここにいると過去の自分をめちゃくちゃ反省できるし、ホワイトコーポの奴らもここには近づけないようで、安全安心に毎日過ごせて快適ッスよ」
「まあ、治安だけはある意味世界一いいからな。ド田舎だから何もないし、そこら中に強面のヤクザみたいなのが拳銃携帯しながら見張り込んでるからな。あと電波も全然繋がらない時があって連絡も取りづらい。泥棒や変質者泣かせの場所だよ」

 ばーちゃんの下僕達がいればその強面だけで追っ払えるもんだ。この村だけ悪人がマジで一匹もいないから警察も必要ない。下僕達が警察代わりのようなものだ。

「それで、おれ……もう一つ思い出したんですよ。あのホワイトコーポの中で見た光景を」
「思い出したって……まだあったのか?」
「ええ。研究室で呻き声を聞いたと説明したっスよね?あれの他に誰かを見たんすよ。それを思い出して……ええと、銀髪の誰かを」
「銀髪の……誰か?」
「ええ。銀髪なのは間違いないっす。背が高い銀髪でしたね。顔つきからしてすっげぇイケメンで四天王の矢崎直にそっくりな感じがしました」
「え………」

 すぐに直の姿が思い浮かんだが、いやいやありえない。直がそんな場所にいるはずがない。白井の総本山の建物の中になんて。別人だろきっと……っ。

「甲斐さん?」
「……あ、あー悪い。ちょっと驚いて。それで、その銀髪を見かけたんだな」
「はい。その銀髪の男が研究室みたいな所でいろんな装置に繋がれてて、寝台の上でなんか血を採取されている最中って感じでしたね。しかも施術している奴らはなんか目がイッちゃってるようなヤバい奴らでして、人間味がなかったのがすっげぇ不気味で怖かったっす。だから、それって見ちゃいけねぇやばい光景だってすぐ思って逃げたんですけど、まさか命まで狙われるとは思ってもみなかったっスよ……って、甲斐のダンナ?顔色悪いっすけど」 

 俺は気が付けば茫然と立ち竦んでいたようだ。

「あ……あーいや、知り合いにに背の高い銀髪がいたからちょっと気になっちまって」
「そうなんすか?でもさすがに銀髪なんて結構いますからその知り合いさんではないと思いますよ。あんな恐ろしい会社と付き合いがある人間なんてロクな奴じゃないっスから」
「ははは………そう、だと……いいんだけど……」

 俺は動揺しすぎてうまく返事を返せない。思い当たる事が多すぎて偶然にしてはその浅井の話の矛盾点が出ない。

「でもこの事思い出したのってつい最近なんっすよね。先日まで妙に頭がスッキリしない日が続いていて、おばーさまに記憶が曖昧な事が多いと話したら、微量の催眠がまだかかっていると言われて全部解いてもらったら、今の話全部思い出したんですよ。頭がスッキリ靄がなくなった感覚に近いっす。たぶんホワイトコーポの連中が、念には念をと知られたくない強い記憶封印の催眠をかけたせいだと言っていました」
「……そう、か。ホワイトコーポが……記憶封印の……催眠を……」

 洗脳や暗示や催眠を解くのはばーちゃんの専売特許だから、俺では全て解けなかったな。さすがばーちゃんだ。

 それにしても、浅井に施したものは記憶操作どころか記憶を封印する催眠……か。

 ということは、その銀髪は……

 いやいや、浅井が言っている銀髪の男が直とは限らないし、直に似た別の誰かだ。きっと。うん、絶対ちがう。


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