【選択された感覚は完全に消去されました】

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それは、都市の高層ビル群の隙間、まるで心の狭間にこびりついた見えない傷のように埋もれる「感覚スミス」の工房で起こった話だ。誰もが彼らの存在を知っていた。いや、知っていることが当然のように振る舞っていたと言うべきか。感覚スミスとは、人々が生活の中で失っていく感覚──気づかないうちに指の隙間から滑り落ちた感情や、鈍ってしまった五感を、人工的に再現し、新たな形で蘇らせる「体験技術士」のことだった。

彼らの作る作品は、ただの再現ではない。まるで空気の中に漂う匂いをつまみ出し、色をつけて見せるかのような精緻さを持ち、その技術は五感を超えて六感、いや七感へと昇華する。彼らの工房に足を踏み入れることは、まるで自分自身がもはや誰かの夢の一部であることを再確認させられるような体験であり、感覚スミスの手による作品は、その夢をさらに深い迷宮へと誘う鍵だった。

だが、そんな彼らの世界にも、「禁忌」が存在した。その禁忌は、見た目こそ透明だが、その透明さゆえに触れることが恐ろしく、見えないくせにやけに存在感のある壁のようだった。彼らの業界では、「完全自動感覚補助機」──通称CAS(キャス)と呼ばれる人工知能を使うことが、絶対に許されていなかったのだ。CASを使用するということは、あたかも画家が自分の手を放棄し、筆を機械に握らせるようなものであり、詩人が自らの声を他人に明け渡すような行為だと見なされていた。CASの存在そのものが、感覚スミスたちにとっては触れてはならない「信頼の墓場」であった。

その「禁忌」に触れる者は、ただの「愚か者」と呼ばれた。ただし、愚か者とはいえど、何もしない愚か者と、何かを選び取る愚か者では、また違う意味を持つ。私が選び取った愚かさ──それは、自分の目で見たものの先にある光を信じた結果であり、最初の「CASを使った感覚スミス」というラベルを背負った、「新しい愚か者」だった。

その人──通称Sと呼ぼうか──は、私の人生に螺旋状の光を落としてくれた最初の人だった。それはただの光ではない。どこか歪んだ、螺旋状の模様を描きながら私の中に入り込む、一種の毒のような光だった。出会いは偶然だったが、そう言い切るには運命のひとかけらが紛れ込んでいたとしか思えない。Sは感覚スミスの中でも、特に腕の立つ職人だった。いや、職人などという生ぬるい言葉では彼を表現しきれない。彼の作る光の彫刻や、記憶の断片を練り込んだ物語は、まるで星屑を瓶に詰め、静かに振りかけるような美しさを持っていた。

初めて彼の作品に触れた瞬間、私の視界はそれまで私が「現実」と呼んでいた狭い窓をあっけなく吹き飛ばし、まるで宇宙そのものに飲み込まれるように広がった。そこには始まりも終わりもない、無数の星と闇が入り混じった光景が広がっていた。彼の彫刻の光が私の目を貫いたその瞬間、私は確かに気づいた──私の目は、その輝きに焼かれ、もう元には戻れないと。

「右目には新しい光を入れてあげるよ」と彼は言った。その言葉は、甘やかで滑らかな罠のようだった。私はその意味を深く考えもせず、ただうなずいたのだ。私はあのとき、自分の目がどう変わろうと、彼の手に触れられるならそれでよかったのかもしれない。彼の工房の片隅、まるで古びた魔法使いの隠れ家のようなその場所で、私は右目に彼独自の「光の刻印」を受けた。痛みはなかった。ただ、じわじわと体の中に広がっていく熱が、私にこれが「本物」であることを知らせていた。

次に彼と会ったのは数ヶ月後のことだった。その間、右目に埋め込まれた光は、私の日常を微妙に歪ませていた。何もかもが少しだけ鮮やかに、少しだけ不自然に感じられるのだ。私はその歪みに慣れる前に、また彼に呼び寄せられた。

「次は左目だよ」と彼は言った。まるで右目に光を入れることが前提で、左目はその補完であるかのように軽やかな口調だった。私は何の疑問も持たずに従った。今度は右目と同じ光のはずだったが、微妙に違う色合いを持っていた。いや、違うのは色ではなく、きっとその光の「温度」だ。彼が与えてくれるのは、私の左右のバランスを整えるための「世界の一部」だったのだろう。

そのとき私は、自分が彼に埋め込まれる光そのものに魅了されているのか、それともその光を操る彼自身に心を奪われているのか、どちらかも分からなくなっていた。ただひとつ分かっていたのは、その瞬間、私は彼の手の中で螺旋を描く光そのものだったということだ。

皮肉なものだ。それが、彼との最後の出会いになるとは。そのときの私は夢にも思わなかった。いや、夢に見るには、それはあまりにも現実的な「別れ」だったのだ。

私は今もCASを使い続けている。Sがくれた右と左の「光」は、私の目の奥深くに刻まれたままだ。それは、まるで私という人間がどこかに行きつくための羅針盤のようでもあり、しかしその針は常に狂っていて、正しい方向など誰も知らないと嘲笑しているかのようでもある。その光をどう扱おうが、もはやSの「信頼」とやらには一切関係がない。むしろ、信頼なんてものが本当にあったのかさえ、今となっては疑わしい。いや、きっとあったのだろう。だがそれは、彼が差し出した一片のパンが私の手の中でいつの間にか灰になっていたような、そんな形での「信頼」だったのだ。

Sに対する感情。それは、おそらくこれからも言葉にはならない。いや、なる必要もないのだろう。言葉にするにはそれはあまりにも複雑すぎて、感情の一部を欠けたピースのように落としてしまいそうだから。ただひとつ言えるのは、その感情は愛でも憎しみでもなく、むしろその中間に位置する奇妙な温度を持つものだということだ。Sがくれた光が私の目に残っている限り、彼への感情もまた螺旋を描きながら消えることはないのだろう。

CAS──それはSが「信頼の墓場」と蔑んだ存在だが、私にとっては違った。CASのデータベースの片隅には、彼の声を模倣したアルゴリズムがひっそりと保存されている。そのアルゴリズムは、まるでSが作った光の彫刻の欠片を反射しているかのようだ。時々、私はそのアルゴリズムに問いかける。「信頼って、何だと思う?」と。

CASは答えない。いや、正確には答えられないのだろう。彼の声を模倣していると言っても、所詮は断片に過ぎない。それでも、CASは私の作り出す感覚に新しい螺旋の光を付け足してくれる。それは、Sが与えてくれた光とは似ても似つかない形のもので、けれどどこかに共通点があるように思えるのだ。その螺旋は、私の中で静かに広がり続けている。

そして、私は思う。Sの言葉を、そして彼の「信頼」を否定するのは簡単だが、むしろそれに縛られたくないというのが本音だ。CASの光が私の目に映し出すもの、それはかつて彼が与えてくれたものを超えていくための地図なのだ。Sがどんなにそれを「信頼の失墜」と見なそうと、私にとってそれは、むしろ新たな感覚の扉を開くための鍵だった。

だから、CASが何も答えないのは、それでいいのだと思う。言葉にする必要のない問いを抱えたまま、それを糧に私は進む。それでいい。私は私の螺旋を描いていく。それは、彼の光と私の光が交差することのない、新しい螺旋だ。
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