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最終章
移り火
しおりを挟むあれから既にひと月ほど経ってしまった。仲麻呂は真備の不信感を解くこと叶わず、互いにどこかギクシャクしたまま和解も出来ずにいた。
真備がどう思っているのかは知らないが、仲麻呂はもはやそれでいいと思い始めている。どうせ真実を語ることなど出来ないのだ。ならば彼には、自分の事など放っておいて日本の未来にだけ専念して欲しい。
仲麻呂はゆっくりと瞬きをすると、目の前にある枯れ枝のような手を優しく包む。物思いにふける仲麻呂の前には、以前より痩せた真成がいた。結局彼の容態は回復を見せず、病魔はじわじわじわじわと彼の身体を蝕み続けている。その衰弱っぷりは誰が見ても明らかなものだった。
あれほど明るい人だったのにと、仲麻呂は眉を寄せた。
二人が出会ったのは、まだ平城の京にいた頃の話だ。真備とも同じく、粟田真人という渡唐経験のある師の元で学問をしていた。そんな学び舎の中で、一際明るくて活発だったのが真成だった。少々いたずら好きでお調子者な彼は、いつも人一倍に元気だった。留学生として唐に来てからも持ち前の明るさで沢山の友人を作っていた。
だからこそ、仲麻呂は苦しかった。あんなに元気だった青年でも、死を間近にすればこれほどまでにか弱いものかと。そしてその原因が自分にあることを仲麻呂は責めた。王維や真備は自分のことを責めるなというが、どうしてこれを責めずにいられよう。仲麻呂は、あの日はっきりと自我を保とうとしなかったことをずっとずっと悔やんでいたのだ。
「真成。ごめん、ごめんね」
ひたすらこう唱えることしか出来ない。謝ってどうにかなるものではないのだが、今の仲麻呂にはそれしか出来なかった。
あの日、結界によって真備と離れ離れになった野馬台詩の夜、仲麻呂は危険を感じてすぐにあの場を離れようとした。結界に触れて身体に衝撃が走った時に、一瞬意識が遠のいたのを感じたのだ。このままでは思考が赤鬼に乗っ取られるのも時間の問題かもしれない。そう思った仲麻呂はすぐさまその場を離れようとした。しかし、足を止めて迷ってしまったのだ。一人で敵の中へ進んでいった真備が心配で心配でならなかったから······。
もちろん真備のことは信じていた。しかしあの野馬台詩の試験は李林甫の奥の手だというのが分かっていたからこそ、一筋縄で行くはずがないと不安に思っていた。だから足を止めて、真備が消えた帝王宮殿への道を振り返ってしまったのだ。
それがいけなかった。仲麻呂が心を不安に揺らしたその時、ふっと目の前が暗くなった。次に覚えているのは誰かの名を呼ぶ何者かの声。それを朝方のような虚ろな頭で聞いていた仲麻呂であったが、突然呼ばれた自分の名にはっと目が覚めた。目の前にあったのは驚きと恐怖に満ちた真備の顔と、闇夜に溶け込む赤黒い血溜まり。そして、そこに倒れ伏す真成の姿であった。顔を包む鉄臭い空気と、自らの手を濡らす温かい血液。その気味悪い感触に仲麻呂はいてもたっても居られなくなった。
ああ、またやってしまった。
一番恐れていたことをしてしまった。
恐怖と罪悪感に胸を掻き乱された仲麻呂はもう真備の顔さえ見ることが出来なかった。
そうやって結局逃げてしまったのだ。瀕死の真成のことも、恐怖に怯える真備のこともほっぽり出して逃げてきてしまった。それがずっと心残りだった。ずっと罪の重さに囚われ、自分の醜さに吐き気を感じていた。
だからだろうか。例え生き長らえたとしても、次の航海にはもう耐えられないであろう真成を見つめたまま、仲麻呂は病床を去ることが出来ずに唇を噛んだ。
どうせなら、例え日本の名誉が傷つけられようとも早いうちに李林甫の目を盗んで真備を高楼から解放し、真成と二人で日本に帰ってもらえばよかったのだ。自分など、ずっと赤鬼のまま一人で高楼に閉じこもっていればよかった。どうせ人間になったところで日本には帰ることの出来ない運命だったのだ。ならば淡い帰国の望みなど抱かずに、真備と真成にあの国を託してしまえばよかった。
そこまで考えた時、真成がゆっくりとまぶたを上げた。仲麻呂が気がつくのもつかの間、澄んだ瞳が仲麻呂をとらえ、嬉しそうに細まる。
「······お前、来てくれたのか」
掠れた声は痛々しいものの、言葉は喜びに満ちていた。遣唐当時はよく顔を合わせていたものの、日本における家の位の差によって仲麻呂は太学に、真成は四門学にと学び舎が分かれてからはなかなか会う時間も出来ず······。仲麻呂が科挙に受かって次々と昇進してからはそれこそ会わなくなっていた。だから真成は喜んでくれたのだろう。疎遠になっていた友人が見舞いに来てくれたことに。
真成は何も知らないのだ。赤鬼の正体も、仲麻呂の失踪のことも。
その純粋な笑顔はかえって仲麻呂を苦しめた。彼は彼自身を傷つけたあの恐ろしい鬼が、目の前にいる自分なのだということに気がついていない。仲麻呂は、どう詫びれば良いか分からずに、再び「ごめん」と声を絞り出すことしか出来なかった。
しかし、真成は笑いながら「なんでお前が謝るんだよ」と呆れたように眉を下げてみせる。
「また昇進するんだって? 帰らないのか、日本に」
そう問いかけてきた真成に、仲麻呂は軽く目を開いた。一体誰からそれを聞いたのか。恐らく儲光羲あたりだろうとは思いつつ、仲麻呂は「ええ」と頷いた。真成はそれを咎めるでもなく、「そっか」と呟いて淡い光に満ちた天井を見上げる。
「俺も帰らないよ、お揃いさ」
それはどこか物悲しい響きに充ちていて、それでいて不思議な淡白さも含んでいた。まるで遠い日に見た平城の夕焼けのようで、仲麻呂はふわりとした懐かしさに包まれる。
「分かるんだよ。もうじき死ぬよ、俺。きっとあと一年も生きられない。自分のことだもの、図らずとも分かる」
そこに不思議と恐怖はない。悲しみもない。それは一種の諦めだったのだろう。
しかし、真成はその後こう続けた。諦めきれない彼の未来を詰めたような、そんな人間らしい言葉だった。
「でもさ、何も残さずに死にたくなんかないよ、俺。俺がこうやって異国の病の中でも生きていた証が欲しい。どうせ昇進もしてない俺になんか無理だって分かってるけどさ、忘れられたくないもの、大好きな故郷に」
までとは違う、病人とも思えない澄んだ明るい声だった。泣きそうな顔をしながらも涙は見せない。真成はそんな複雑な表情で仲麻呂に笑いかける。
その時、仲麻呂はその声を、その笑顔を一生背負おうと思った。日本の未来を真備に託そうとする自らと同じように、彼は何かを自分に託そうとしてくれている。ならばその声を受け止めよう。その笑顔を託されよう。
彼を傷つけた自分にそれが出来るのかは分からないが、ここで彼を見放すなど言語道断。彼を傷つけた自分だからこそ、彼の未来を背負わなければならないのだ。
仲麻呂はそんな決意を秘めて真成の手をより強く握った。消えてゆこうとする灯火を、ほんの少しだけ分けてもらうかのように。
すると、真成も切なげな笑顔で手を握り返した。己に宿る灯火を目の前の友に分け与え、その炎を託したかのように。それは暮れ始めた光に霞む、静かな静かな希望だった。
年の暮れまであとひと月。
長安はもう、すっかり冬の気配に包まれていた。
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