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最終章
秘め事
しおりを挟むその夜、王維が屋敷に泊めてくれることになり、真備と仲麻呂は顔を合わせた。皆で今の状況を共有するために、王維から言い出したことだった。
仲麻呂が玄宗に呼ばれたのはきっと帰国の件だろう。そんな予想はついていた。野馬台詩の試験のすぐ後、玄宗は王維に対し、仲麻呂を帰国させたくないと言った。それを知っていたからこそ、王維はあえて仲麻呂に話しかけていない。それを話すなら真備もいる時に、そう思ったのだ。
王維が使用人たちに指示を出しながら、一緒になってバタバタと支度をする。その間、真備と仲麻呂は客間に通されて向かい合っていた。二人を分かつのは一つのテーブル。とてもやさしい色合いをした王維らしい品だ。彼はあまり派手なものを好まないようで、屋敷の物もほとんどがシンプルで落ち着いた色合いをしている。
そんな柔らかな雰囲気の中、二人は互いに口を開くこともな静寂に身を任せていた。互いに相手を意識をしているようだが、どちらも話しかける様子はない。それはどこか異様で、何かを躊躇しているようにも見える。
しかし、彼らは躊躇っているわけではなかった。真剣に考えて込んでいるのだ。互いに伝えたいことはあるものの、同時に言及を避けたい部分もある。どこまでを話し、どこまでを隠そうか······それだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
そうこうしているうちに、王維が二人のもとへと戻ってくる。彼は跳ねるように歩みを進めると、「久しぶりの宿泊客さんだー!」などと言って二人の傍に腰を下ろした。
「で、晁衡は久しぶりの宮殿どうだった?」
その明るさは素なのか はたまたわざとなのか。王維は柔らかい日差しのような声で仲麻呂に話をふる。仲麻呂は一瞬目を泳がせた。それは本当に刹那の出来事で、真備には全く読み取れない。しかし彼を凝視していた王維はわずかな瞳の揺らぎを見逃さなかった。陽気に細めた瞳をひっそりと光らせ、仲麻呂の表情に意識を向ける。
仲麻呂はすぐに笑顔になった。「陛下にお目にかかれて光栄でした。長い失踪に関しても許していただけましたし······」と。しかし、王維には無理のある微笑みに見えて心の中で眉を顰める。ここで、帰国の許可が下りなかったことを確信した。
しかし、当の仲麻呂はそれを口に出す素振りは見せない。彼はまだ事実を伝えないつもりなのか。彼が言わぬというのならば余計な口は挟むまい。きっと仲麻呂にとっての時は今ではないのだ。
そう心を決めて王維は真備に視線を移す。仲麻呂がそれしか言わなかったとて、こちらにはこちらの報告がある。真成のことをいうなら今だ。そう考えて真備を見つめた。すると、真備も気づいたらしい。王維の視線をとらええると、真っすぐに見つめ返してくる。
しかし、彼は視線をそらした。その行動に王維は軽く眉をあげる。まさか彼も現状を言う気がないのか。
しかしよく考えてみればそうである。一応真成を傷つけた張本人でもある仲麻呂に、病状悪化を伝えるのは苦しかろう。
しかし、ここで伝えなければどうなる。王維ははて、と考えた。仲麻呂の件にしても真成に件にしても時が絡む問題ではないか。そうなると事実の共有を先延ばしにすることは果たして吉となり得るのだろうか。手遅れになりはしないだろうか。もし手遅れになればきっと······。
そう思考が巡った瞬間、思わず口を開いていた。
「僕たちは井真成さんのところに行ってきたんだよ」
真備が驚いたように王維を見つめる。しかし王維は構わず続けた。真備に顔を向けて「ねっ?」と言葉を促してみせる。それこそ、君から説明してよ、と言いたげに。
真備は一瞬口を結んだ。仲麻呂は不安そうな顔で彼を見つめている。真備はそんな仲麻呂の表情に気が付いたらしい。まるで糸で引かれたように、ハッとして笑顔を作った。
「大丈夫だぞ仲麻呂。真成はちゃんと回復に向かって······」
でまかせだ。王維は単純にそう思った。視界の端に、真備の言葉を受けてほっとする仲麻呂がみえる。ダメだ、きっとこれではダメなんだ。なぜか王維はそう思った。先ほどまでは余計な口は挟みたくないと思っていたのに、突然そんな思いが心を駆け巡った。
「ダメだよ、ダメなんだよ」
思わずそう口にする。突然言葉を零した王維に、二人は一斉に驚いた表情を向けた。
「君たちは何であの時すれ違ったの? 何であの時互いを信じられなかった? ちゃんと全てを伝えなかったからでしょ? ちゃんと全てを知らなかったからでしょ」
闇夜に灯る炎のような言葉だった。王維の心の奥から燃え上がる言の葉が火の粉となり、唖然としている二人の心に移る。顔を上げた王維の顔は、どこか苦しげな決意に満ちていた。
「僕だって、僕だって真備さんを一人になんてしたくはないんだよ。そんなこと、考えたくもないんだよ」
その言葉は、二人が抱える双方の事実を一度にこの世界にさらけ出した。だから二人は目を丸くした。
「今、何と言った?」
そう言いたげな表情で。
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