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最終章
勅命
しおりを挟む「久しいな」
そう口を開いた皇帝・李隆基に、仲麻呂は姿を消した無礼を詫びながら深々と頭を下げた。李隆基は「まあ良い」といって仲麻呂の顔を上げさせる。しかし、柔らかに差し込む日光の中、恐る恐る上げられた仲麻呂の顔には何とも言えない困惑が浮かんでいた。
「ここに呼んだことを不思議に思っているのか?」
一瞬ためらったものの、口元を緩めた李隆基に「はい」と頷く。仲麻呂はいつも通り公の場に呼ばれるのだと思っていた。皇帝には政治を行う場で謁見する。立場上それ以外に考えられなかった。
しかし、今仲麻呂がいるのは政治の場ではない。李隆基やその家族が生活に用いている私的な空間だ。もちろん今までに立ち入ったことなどない、奥まった神聖な場所。しかも、李隆基は仲麻呂を部屋に招き入れるやいなや使用人たちも全て下がらせ人払いをした。つまり、現在二人きりで対峙していることになる。
だから仲麻呂は戸惑ったのだ。なぜ彼はこのような状況を作ったのかと。何か人に聞かれてはまずい話でもするつもりなのだろうか。
李隆基は直ぐには理由を答えなかった。その代わりのように、再び仲麻呂に問いかける。
「今までどこで何をしておったのだ?」
「······賊に捕まっておりました。どうにか説得して解放してもらえたのですが、私としても情けない限りでございます」
これは、昨日の晩に王維と儲光羲と三人で考えた言い訳であった。正直に話そうにも、今政治を取り仕切っているのはあの李林甫である。彼が罪を咎められて政界から消えては国が混乱しかねない。だから簡単に真実を話すわけにもいかなかったのだ。
正直、この言い訳が苦しいということはわかっていた。しかし、李隆基は深く追及しようとはしなかった。国の頂点にいる以上、真実を求めすぎないことには慣れているのだろう。
彼はただ一言「そうか」というと、どこか遠くを見つめるように空を眺めた。しばしの間沈黙が訪れる。その不思議な空気に、仲麻呂はどこか気まずくなって床に目を落とした。
超大国の皇帝でありながら自分のような異国人をも認めてくれた李隆基。高楼に閉じ込められた時も、せめて彼に恩返しがしたいと願っていたはずだ。しかし彼が目の前にいるというのに、今は距離が掴みづらい。それは久しく彼と顔を合わせていなかったからだろうか。
そんなことを考えていると、李隆基がこちらに視線を移したので思わず委縮する。李隆基はそれを過敏に感じ取ったのか、そっと仲麻呂から視線をずらした。そしてまたしばらく沈黙すると、突然呟くように口を開いた。
「今日そなたをここに呼んだ理由だが、これからは表だけでなくこちら側にも通ってもらおうと思うているのだ」
仲麻呂は思わず顔を上げて目を丸くする。ここでの「表」が政治を行う公の場を示していることは仲麻呂にも分かった。そうなるとつまり、「こちら側」というのは······。
「そなたには、新たに儀王友の官職を与えようと思う」
それを聞いて唖然とした。「儀王」というのは彼の第十二子である濰という名の皇子のことである。その「友」というのは、いわば彼の教育係や遊び相手といった役割のことを示した。
皇帝の身内に関わるため、その職に就くこならば、表の公的な場だけではなく裏となる皇族の家庭的な場にも出入りする必要が出てくる。李隆基はその役目を仲麻呂に与えると言っているのだ。私的な空間への関与を許されたということは、仲麻呂が相当信頼されているとも言えるだろう。
しかし仲麻呂は焦った。なぜなら、すでに次の遣唐使節団が唐に到着しているという話を聞いていたからだ。もちろん、仲麻呂もその際に帰国するつもりでいた。しかしこのタイミングで昇進すればますます帰国が難しくなる。
李隆基に信頼されていることは嬉しいが、日本に残してきた父母のことも気にかかる。真備とも共に帰国することを約束している。それに、今まで姿を消していたというのに昇進させられるのにも違和感があった。そう、まるで時を急いでいるかのように······。
李隆基も仲麻呂の戸惑いに気づいたらしい。どこか遠くを見つめたまま、懐かしい面持ちで睫毛をさげた。
「今、帰国のことを危惧しておるのだろう。もちろん、そなたの望郷の思いも分かる。しかしな······」
そこで言葉を切ると、李隆基仲麻呂の方に顔を向けた。思わず瞳が合う。皇帝の顔を直視するのは不敬にあたると分かっていながらも、その真っすぐな瞳から目が離せなくなった。初めてはっきりと見る瞳は不思議な色に満ち、驚くほどに澄んでいた。李隆基はそんな瞳で仲麻呂を見つめると、恐れていた言葉を紡いだ。低く震える声ではっきりと。
「朕はそなたを国へ帰そうとは思っておらぬ。この国には、まだまだそなたの力が必要なのだ」
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