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最終章
日の出
しおりを挟む「······まきび、さん?」
頬に落ちた雫に気づき、青年は真備の顔に手を伸ばした。
「泣いているんですか?」
記憶通りに澄んだ声は朝の淡い空気に溶け、きめ細かな白い指はあの日のままに真備の涙を絡めとる。月のもとで見た美しい瞳。それを見るのは野馬台詩の試験以来であった。
真備はそれをひどく懐かしく感じ、自らの頬に添えられた白い手を握り返す。そこにはあの大きな爪も赤黒い肌もない。もう彼は物の怪ではないのだ。人を喰らう化け物ではないのだ。その安堵が胸の内を駆け巡り、真備は何も言えずにただただ精いっぱい頷いた。喉から漏れそうになる嗚咽を必死に押し込んで笑った。そのちぐはぐな笑みは、はたから見れば実に滑稽なものであっただろう。しかし、青年は嘲笑ったりしなかった。真備を馬鹿にしたりなどしなかった。ただただこちらを優しく見つめ、やんわりとほほ笑んでみせる。
そして止めどなくあふれる真備の涙を指で受け止めては、何度も優しく肩をさすった。それは子をあやす母のようで、気恥ずかしくなった真備は慌てたように顔を背ける。しかし彼はそれを笑うわけでもなく、ただただ静かに空を見つめた。暫くしたのちに東をとらえ、真備にそっと声をかける。
「ねぇ、見てください真備さん」
真備がそっと顔をあげれば、彼は明け行く空にまっすぐ手を伸ばしていた。その肌は白んだ空を柔らかく絡め、美しい光を放っている。血潮の輝きがぼんやりと浮かび、輪郭を温かく包む。まるで朝空に透けているようで、それでいて生き生きとしていた。そんな手のシルエットを見つめながら、彼は嬉しそうな声をあげる。
「私、もう鬼じゃありませんよ。朝なのに人間のままなんです」
そう言って彼は無邪気に笑う。真備は思わず笑ってしまった。今までは母のように自分のことをなだめていたのに、嬉しそうに瞳を輝かせる彼が今度は異様に幼く見えて、おかしく思えてしまったのだ。すると、笑い始めた真備に気がついたようで、彼はくるりと顔を向ける。そしてどこか面白がるように澄んだ目を細めた。
「ふふっ、やっと泣き止んだ」
彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべながら身体を起こそうとする。しかし力がうまく入らなかったのか、すぐにふらりとよろめいてしまった。真備がとっさに受け止めると、力なくはにかんだ彼は弱々しく息を吐いた。
「はぁ、おなかがすきました」
疲労がみえる声ではあったが不思議と辛そうな色はない。むしろどこか喜びを含んでいるように感じて、真備は首を捻る。
「大丈夫か? 仲麻呂」
真備が声をかけると、仲麻呂はゆっくりと起き上がる。そして高楼の壁にもたれかかりながら真備の横に座ると、目を閉じて満足げにうなずいた。
「大丈夫ですよ。体はおなかが減って死にそうですが、心は生き生きしています。だって······」
一瞬言葉を切ると仲麻呂は顔を上げてあけぼのの空を見つめる。そして心地よさそうに目を細めると、笑いながらこう言った。
「空腹を感じたのなんて久しぶりですから」
真備は思わず息をのんだ。思えばそうだ。赤鬼だった時の彼は「食べずとも大丈夫だ」と言っていた。容姿が物の怪のそれであったから、いつの間にかそれを当たり前だと思っていた。
しかし今考えてみれば恐ろしい。痛みや苦しみを感じぬということは死んでいるにも等しいことではないか。苦が強すぎても生きた心地がしないが、逆に全く苦がないのも心地が悪い。突然物の怪となり果てた身体に、彼がどれだけ恐怖を抱いたことか。腹が減った······ただそれだけのことにどれだけ喜びを感じたことか。
どうにもやるせなくなって隣に目を向けると、彼もこちらに顔を向けてきた。そして真備に向かってほほ笑むと優しく言葉を続ける。
「おかしいでしょう? 鬼になり果てる前は空腹があんなに辛くて苦しかったのに、いざそれが抜け落ちてしまえばまた苦しみを求め始めるんです。こんなに苦しいのならいっそのこと死んでしまいたい。そう思ったはずなのに、一度死を経験してしまえばその苦しみさえも愛おしく感じる。まぁ、結局······」
──生きたかったんですね、私。
そう言った瞬間、仲麻呂の瞳から大きな雫が零れ落ちて、真備は目を丸くした。彼と出会ったばかりの頃、まだ赤鬼の姿をしているときにも一度だけ彼の涙を見たことがあった。しかし人間の姿で泣いているのを見るのは初めてだ。そんな彼の涙を見て、真備はどうにも胸が苦しくなった。
真備は食事を与えられていた上に高楼に来てすぐ仲麻呂に出会った。しかし、しかし彼は一人だった。何も与えてもらえなかった。知らぬ間に閉じ込められて、目を覚ませば闇の中。誰もいない、何も分からない。そんな深い闇が彼を包み、それは何も教えてはくれなかったのだろう。飢えと孤独と恐怖の中で彼は必死に生にしがみついたのだろう。
軽く伏せられた長いまつげの奥から零れる涙は朝露のように、きらきらと瞬いて朝に溶ける。そんな幻想的な光景に真備が目を奪われるのもつかの間、仲麻呂は美しい顔を涙で濡らしたままゆったりと笑みを浮かべた。
「そんな私の叫びに気づいてくれた。私に再び命を与えてくれた。それは紛れもない、他でもない貴方でした」
真備が目を丸くするのもつかの間、仲麻呂は改まったように真備に向き直る。そして真剣な瞳で真備を見つめた。
「貴方を生涯の友と呼ばずしてなんと呼びましょう。どうか、改めてお礼を言わせてください。本当に、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げた仲麻呂に、真備は慌てて顔を上げさせる。「礼を言うのはこちらの方だ」と仲麻呂に向き直った。
「お前が居なかったら俺はここで野垂れ死ぬだけだった。日本の名を汚したまま何も出来ずに死んでいた。こうやって帰国まで漕ぎ着けられたのはお前がいたからに他ならん。それに、俺は一度お前を殺したんだ。お前を信じ切れずに傷つけた。それなのに······それなのに、お前は俺のことを友だと言ってくれるのか?」
真備は不安そうな顔をしている。仲麻呂は少し可笑しそうに笑うと「ええ」と頷いた。
「得体も知れぬ赤鬼を友だと認めてくれた。それだけで十分です。それに、まさか本当に私のことを助けてくれるなんて」
仲麻呂がそう言うと真備はふくれたような顔になった。それに仲麻呂が気がつくや否や、真備は口を尖らせて言葉を吐く。
「なんだよ。今度こそ俺のこと信じるって言ってたじゃないか。結局信じてくれてなかったのか?」
仲麻呂は一瞬目を丸くするも目元を和らげて笑った。それにつられたかのように、起きてきた鳥たちが高楼のそばの木々に止まる。
「あはは、信じておりましたとも。貴方が私を見捨てるか否かではなく、貴方の選択そのものを。貴方が私を捨て置くのも良し、助けてくれるのも良し。貴方の決断こそが貴方の人生に適しているのだと、そう信じると言ったんです」
「何だよ紛らわしいな。結局俺との絆は信じてないんじゃないか」
「何も友を助けるのだけが友というわけではありませんよ。友を諫め、友を見捨てるのもまた友だ」
仲麻呂は朝の光に朧気で、真備は「そうか?」と不思議そうに首を捻る。
「ふふっ、貴方もいずれ分かるでしょう。なにせ貴方は日本の未来を背負うお方ですから」
そう言って仲麻呂は高楼の外に目を向けた。その横顔は眩しい光に照らされ、美しい陰影を作る。
「ほら、見てください真備さん。美しい日の出ですよ」
声につられて視線を移せば、光に満ち溢れた朝空がみえた。天女の羽衣のように淡く重なる七色の光が徐々に徐々に白い輝きに霞んでゆく。山の端から顔を出した朝日は煌々と。この世の全てを等しく包み、華の都に目覚めを運ぶ。
そんな美しい光景を二人はただただ見つめていた。言葉を交わすわけでもなく、静かに並んで受け止めた。
あの日の本に、我らが故郷があるのだろう。ただ、そんなことを考えて。
爽やかな風が二人を包む。心なしか、三日ぶりの日の出に辺りが騒がしくなった気がした。きっと動植物が野に歌い、都の人々も目覚め始めたのだろう。
どちらともなくほほ笑んだ二人の耳に、懐かしい日の出の太鼓の音が鳴り響いた。
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