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第五・五章 『扶桑の外』
扶桑の外 2
しおりを挟む「申し訳ございません。ただいま宇合殿は外出しておりまして······」
申し訳なさそうに頭を下げる藤原式家の使用人を見つめ、青年は「そう」と呟いた。のどかな秋の昼下がり。やけに静かだと思ったら屋敷の主人は出かけているらしい。
「なら、また改めて来ることにする。何も言わずに突然訪ねてきたのは俺の方だからね」
爽やかな笑顔で言ってやれば、使用人は安堵したような表情を浮かべてますます腰を低くした。青年が嫌そうな顔をしなかったのでほっとしたらしい。全く、本当によく出来た使用人だ。青年は彼に見えないように笑顔をほどいて帰ろうとした。しかしその時、そんな青年を呼び止める声が横から飛ぶ。
「おう、仲麻呂じゃねぇか」
青年がそちらに目を向けると、この屋敷の嫡男である藤原広嗣がこちらを見てニカニカと笑っていた。たまたまここにいたらしい。彼はすぐさま青年に近寄ると、「親父か?」と馴れ馴れしく肩を組んできた。
「親父なら出かけてるぜ?」
「それ今聞いた」
厚かましい従兄弟に呆れた目を向けると、仲麻呂······藤原仲麻呂は小さくため息をついた。
この屋敷の主・藤原宇合の兄に藤原武智麻呂という人物がいる。その次男坊こそが仲麻呂であった。有名どころで言えば、あの藤原鎌足のひ孫にあたる。
彼の父である武智麻呂や叔父の宇合も、「藤原四子」や「藤原四兄弟」といえば聞き覚えがあるのではないだろうか。日本史の教科書に出てくる兄弟としては珍しく、比較的仲良く政治をし、後に長屋王を自害に追い込んだあの四兄弟である。
そんな家に生まれたからか、仲麻呂にとっても叔父たちの家は足を運びやすかった。特に三男の宇合の話は仲麻呂にとっては格別である。なんといってもこの叔父は先の遣唐副使なのだ。仲麻呂は唐にあこがれていた。自分もいつか唐に行ってみたいとさえ思っていた。彼にとっての唐とは、まだ見ぬ夢の大地だったのだ。
しかし、それはきっと叶わない。藤原家の嫡男・武智麻呂。そんな父のもとに生まれた仲麻呂は、わざわざ命をかけてまで唐に行かずとも、生まれながらにして十分出世の見込みがあったのだ。遣唐大使などになる可能性は無いとは言えないが、留学生として長い間唐に留まるなど無理な話だ。唐への留学は主に中流階級の青年たちが出世のために行うもの。そんなことが貴族の中の貴族である藤原氏の彼に許される可能性はほぼなかった。
だからせめて話だけでも、と思って、見事遣唐副使の役目を成し遂げた叔父の宇合のもとをちょくちょく訪ねていた。まぁ、今回彼を出迎えたのは、宇合の長男で仲麻呂の従兄弟にあたる広嗣だったのだが······。
「なんだよ、もう帰るのか?」
どこかつまらなそうに口を尖らせる広嗣に、仲麻呂は「今日はもう帰る」と言ってくるりと背を向ける。そして未だに頭を下げていた使用人に向かって笑顔を浮かべると、門を開けておくよう指示をした。その言葉を受けて門の方へと駆けてゆく使用人に続こうと足を出しかけた仲麻呂であったが、ふと何か考えこむかのように立ち止まると、再び広嗣の方へと振り返る。
「なぁ、一つだけ聞いてもいい?」
広嗣は仲麻呂を見つめると不思議そうに首をかしげた。問いの内容が気になったのもあったが、普段話しかけてこない仲麻呂から口を開いてきたことに驚いたのだ。
そんな広嗣の様子に気づいているのかいないのか、仲麻呂は感情の読み取れない瞳で広嗣を見つめる。
「もし、お前の出世を邪魔するやつが現れたらどうする?」
「は?」
あまりにも突然すぎる問いに、広嗣はぽかんと口を開けた。この従兄弟はたまに何を考えているのか分からない時がある。感情的なくせに妙に冷静で思考的なのだ、この男は。
「俺ならどうするか、うーん」
広嗣は少々面食らってしまった。あまり最悪の事態を考えたがらない人であったので、そんなことをいきなり聞かれても答えなど用意されていない。しかし直感的に浮かび上がった答えがあったのか、広嗣はニカッと笑うと胸の前にこぶしを掲げた。
「全力で抗議する!」
「······」
意気揚々とそういった広嗣に、仲麻呂は一瞬口をつぐむ。表情のない目で彼を見つめていたが、すぐさま口を緩めるとあっという間の早さで笑みを浮かべた。
「うん、お前らしくていいと思うよ」
「だろ?」
すっかりいい気になった広嗣と別れると、仲麻呂は藤原宇合の屋敷を去った。開け放たれた門をくぐり、自分の屋敷へと足を進める。
(広嗣は勝手につぶれるかな······)
そんなことを考えながら大路を進む仲麻呂に、先ほどまでの笑顔などない。そこにあるのは獣のように鋭い瞳だけだ。
藤原に反抗する勢力はいつか必ず現れる。しかし、皇族などでもなければ地位と金で我々に勝とうとする輩がいるなど考えにくい。
ならば警戒すべきは······。
そこで仲麻呂は静かに暮れてゆく空を見上げた。
確かなる知恵を持つ者。
仲麻呂が見つめる西の空は、どこか名残惜しそうに一日の終わりを告げていた。あの陽が沈む方向には、彼が憧れてやまない知恵と技術の宝庫がある。
仲麻呂はそんな大地に心を寄せながら、彼の国に旅立った一つの懐かしい影を思い出した。自分よりも賢くて、自分と同じ名を持つ一人の青年。そんな彼を思い出して、仲麻呂はぽつりと言葉を漏らす。
「帰って来いよ、仲麻呂。あの日、ちゃんと約束したから」
阿倍仲麻呂。それは藤原仲麻呂にとってかつての算術の師であり、かつてともに学んだ学友。彼との出会いは半ば偶然であったが、二人は同じ名を持っていたこともあってすぐに打ち解けた。確かその出会いは藤原仲麻呂が六歳、阿倍仲麻呂が十一歳のときのことであった。父である武智麻呂が、当時平城京の造営長官をしていた阿倍宿奈麻呂に算術の家庭教師を頼んだのである。その時、宿奈麻呂がたまたま助っ人として連れてきたのが甥である阿倍仲麻呂であった。当時から学問に長けていた阿倍仲麻呂も唐に憧れをもっていた。だから唐の街を想像してはよく二人で語り合った。そのことが藤原仲麻呂にとっては嬉しかった。幼いながらに楽しかった。だからあの日約束したのだ。阿倍仲麻呂が遣唐留学生として唐にわたることが決まったあの日に、こう約束した。
──お前が帰ってきたら、唐のことをたくさん教えてくれ。そして俺が力を持ったら、その知恵を使って一緒に政をしよう。俺らで新しい日本を作るんだ。だから、だから······。
「絶対帰って来いよ」
その呟きは、誰の耳にも入らない。ただただ大路の雑踏にのまれて夕闇に溶けた。
来年には彼らが帰ってくる。それは仲麻呂にとって嬉しいことでもあり、どこか不安の種を育てるものでもあった。
あの阿倍仲麻呂が帰ってくるのは待ち遠しいことだ。しかし、先の遣唐留学生は何も彼だけではない。今の藤原仲麻呂が恐れる知恵と技術の伝達者がそこにはたくさんいる。そして彼らはおもに中流階級の若者たちだ。阿倍仲麻呂のように貴族の一員ならばそれでいい。藤原の実力を理解しているため、もちろんそう簡単に逆らえるものではない。
しかし一番怖いのは地方豪族出身の連中だ。彼らは都の出ではない。つまり貴族たちと比べると、藤原家との密接な関係がないのだ。その分藤原とは対立しやすいように思えて、仲麻呂は眉をよせる。
念には念を。まずは皇族に手を回さねば。
そう考えた彼が思い浮かべたのは、のちに聖武天皇と呼ばれるようになる現天皇とその皇后・光明子だ。彼女は父・武智麻呂の妹。つまり仲麻呂からみて叔母にあたるため近づきやすい。
そう思って仲麻呂は笑みを浮かべた。俺は広嗣とは違う。俺がより上に行ってやる。仲麻呂は切れ長で整った瞳をらんらんと輝かせた。
人に近づく甘い顔。静かに燃えるその野心。にこやかな笑顔の裏に隠された鋭い剣は、まさに日本の若き李林甫と言うべきものであった。
そしてこの猫の皮を被った獰猛な虎が、のちに吉備真備と改名した真備に容赦なく襲い掛かることになるのだが、それはまだもう少し先の話。今の真備はやっとのことで唐の虎に勝ったばかりなのだ。まさか日本でも同じような獣に目を付けられるとは、さすがの彼も想像していないのだろう。もちろん、藤原仲麻呂だって今は真備のことなど知る由もない。
だから今は、話の舞台を唐の高楼に戻すこととする。
平群広成と阿倍仲麻呂。
そして吉備真備と藤原仲麻呂。
彼らのまだ見ぬ物語は、またいつか······別の機会に語るとしよう。
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