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第五・五章 『扶桑の外』
扶桑の外 1
しおりを挟む秋が深まってきた唐の地を眺めながら、一人の男がため息をついた。唐の都・長安を目指す彼らの船は、ゆっくりゆっくりと水面を割いては河を上ってゆく。
彼は名を平群広成といった。第十次遣唐判官、それが今の立ち位置である。四月に日本の難波津を出発した彼らの船は、八月には無事四隻共に蘇州につき、今は唐の都である長安を目指していた。しかしながらこの大陸は広いもので、唐に着いたといっても簡単に都に行けるわけではない。それがなかなか心身を削っていくのだ。
向こう岸もろくに見えぬ海のような河。広成が「よくもまぁ隋の人々はこんな運河を掘ったものだ」と半ば他人事のようにぼんやりしていると、船は停泊所についたらしく岸へ岸へと寄って行った。無事に船が岸へ着くと同時に、今回の遣唐大使であり、己と同じ名を持つ多治比広成に声をかけられる。一体何事だと思ってついていくと、そこには使節の重鎮である遣唐副使や判官らがそろっていた。そしてその中に見かけない顔が一つ······。
「こちらは韋景先殿だ。唐の皇帝陛下から伝言を賜ってきたらしい」
多治比広成に紹介されると、韋景先というらしい役人は頭を下げた。広成たちが一体何だと言いたげに彼を見つめていると、軽い挨拶の後に思いがけない言葉を口にする。
「皆様にはご迷惑をおかけしますが、陛下への謁見を長安ではなく洛陽で行うことに変更致しましたのでそれを伝えにやってまいりました」
一同が軽くどよめいた。皇帝がいるのは都である長安なのではなかったのか。
「何でまた」
広成は思わず呟いてしまった。しかし、韋景先はそれを咎めるわけでもなく「実は」と口を切る。
「来年の正月頃に、陛下が長安から洛陽へとお移りになることが決まったのです」
「皇帝陛下が洛陽へ?」
「それは都を移すということですか?」
次々に飛んだ疑問の声に、大使である多治比広成が「これこれ同時に聞くでない」とざわめく遣使達をたしなめる。平群広成は声をあげなかったものの、彼らと同じ疑問をもっていたので複雑な顔でそれを眺めた。確か隋の時代にも、長安が都でありながら皇帝が洛陽に移っていたことがある。広成はそのことをちらりと思い出した。それは日本······いや、当時の倭国が初めて大陸の皇帝に国書を献上した時の話である。当時の小野妹子を遣隋大使とした第二次遣隋使たちは、確かそのまま洛陽で皇帝に謁見したはずだ。
その後、第四次遣唐使が唐についた時も当時の皇帝が洛陽にいた。しかし、当時の使節団はそれを知らないまま長安まで足を運んでしまい、そのおかげで坂合部岩布率いる第四次使節団は来た道を慌てて戻る羽目になってしまったのだ。現帝の李隆基も、その過去を知っているからこそ、わざわざ韋景先を派遣してまで今後の動向を知らせてくれたのだろう。
広成がそこまで考えたとき、「ご安心ください。理由はきちんと話させていただきます」という声が聞こえた。もちろん唐の韋景先だ。そちらに目を向けるのもつかの間、彼は皆に向かって言葉を続ける。
「実はこの秋に大規模な飢饉が発生しておりまして、その窮状を緩和するために陛下は洛陽に移ることをご決断されたのでございます。そのため都を移すわけではなく、陛下の一時的なご移動となりますね。それに······」
そこで韋景先は口を閉ざした。どこか言うか言わまいか悩んでいる、そんな顔だ。広成は首を捻ると、横にいた他の判官たちと顔を見合わせる。
それは日本には言えないことなのか。外交において情報は何よりも大切だ。どんなに小さなことであっても、いち早く確かな情報をつかむに越したことはない。何せ世界情勢というものはあっという間に変わってしまうのだ。ここは厚かましく思われても情報を聞き出したほうがいいのかもしれない。
広成がそう思って口を開こうとしたとき、彼より先に声をあげた人物がいた。広成と同じ遣唐判官の秦朝元だ。
「我々に言えないことならいいのですよ。無理に言わなくても」
彼は韋景先を見て切れ長の目を細める。そのやや薄い色をした瞳は不思議な光を含み、韋景先を静かに見つめた。
「ただ、その情報の欠如が吉とでるか凶とでるかは知りませんがね。それによって我々が場違いな言動をしたとしてもこちらは一切責任を取らない。しかしそこまで重要なことではないのなら余計な情報はいただかなくても結構」
半ば脅しのような朝元の発言に、多治比広成が複雑な顔で彼を見る。朝元はこういう男ではあるが、それと同時に駆け引き上手だ。とりあえずは彼の口を止めないでおこうと考えたのだろう。
しかし思ったよりも早く韋景先が折れた。というのも、その情報が遣唐使たちに直結するものではないので、伝えるか否か迷っていただけらしい。
「実は、陛下が洛陽に移ろうとお考えになったのは、飢饉の緩和だけが理由ではないのです。今、長安では不可解なことが起きておりまして······」
「不可解というと?」
朝元が聞き返すと、韋景先は眉を寄せながら声をひそめた。
「朝日が昇らぬのです。私が長安を出たときには太陽が消えて三日が経っておりました」
その非現実的な発言に、一同は首を傾げた。朝日が昇らぬとは一体何事か。
しかし唐側も原因が分からないのか、韋景先は「ともかくですね」と話を進め始める。
「皆様が陛下に謁見する際、陛下は洛陽におられます。そのため、皆様には洛陽を目指していただき、そのままそこに留まっていただくことになるかと。それでもよろしいでしょうか」
突然決断を迫られて、皆は大使である多治比広成の方へ顔を向けた。すると、彼は韋景先に向かっておもむろに問いかける。
「しかし先の日本の留学生たちは長安におられるのでしょう? 彼らを日本に連れ帰るのも我々の役目。会えなければ都合が悪いのですが······」
「それなら私が長安に戻った際に、こちらから彼らにお声がけをいたしましょう。そして帰国の時には我々が留学生の方々を洛陽にお連れいたします。それでどうでしょう? まぁ皆様が長安までいらっしゃるというのならばそれでも構いませんが······」
多治比広成はその場にいたそれぞれに賛否を問いかけた。「それは先の留学生へ面目がたたない」との意見もあったが、「洛陽から長安までの負担が減るのならば洛陽に留まった方がいい」という朝元の言葉で結論が決まった。実はこの代の遣唐使は誰一人欠けることなく海を越えたため、大勢を長安まで連れていくのに既に大きな負担がかかってたのだ。そのため皆で長安を目指すよりも、唐に残っていた前の代の留学生たちに洛陽まで来てもらった方が都合が良かった。
韋景先は返答を受け取ると、「では洛陽のことに関しては、あちらに着き次第私がご案内させていただきます」といって立ち去った。平群広成は彼の姿を見届けると、ふと思い立って隣にいた多治比広成に問いかける。
「先の留学生というと、阿倍仲麻呂殿や下道真備殿ですよね?」
多治比広成は「ああそうだ」とほほ笑んだ。
「多治比縣守殿が押使を、藤原宇合殿が副使をお勤めになった代だよ」
平群広成は軽く眉を顰める。
「阿倍仲麻呂殿は唐の朝廷から位を授かったと聞きました。そう簡単に唐を離れられるのでしょうか」
多治比広成は小さく唸った。仲麻呂が科挙に及第し、唐の朝廷に仕えているという話は既に遣唐使達の耳にも入っていた。仲麻呂のことを思い浮かべたのち、多治比広成は静かに呟く。
「まぁ、それは唐の皇帝陛下次第だろうなぁ」
その曖昧な余韻を引きずったまま、平群広成はその場を離れた。そこまで唐に名を轟かせた先の留学生たちは一体どんな人なのだろうか。そう考えて見上げた空は曇天で、どこかもやもやとした不安に駆られる。それの意味など分かりもしないが、確かに不透明な不安がそこにあったのだ。
この平群広成という男は、後に阿倍仲麻呂と密接な縁を持つことになる。しかしそれは今から約二年ほど後の話。もちろんそれは、河岸でぼんやりと空をながめる今の広成にはほとほと検討もつかないことであった。
一方その頃日本では、先の遣唐副使であった藤原宇合の屋敷を一人の青年が訪ねていた。屋敷の門番は彼の顔を見ると、すぐさま礼を尽くして門を開ける。しかし青年は見向きもせずに開きゆく門だけを見つめると、どこか凛とした足取りで門の奥へと姿を消したのだった。
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