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第五章『賽の目』
賽の目 7
しおりを挟むギシギシとはしごが揺れる音がして、真備は閉じていた瞼をそっと開いた。太陽が姿を隠して今日で三日。そろそろ来るだろうと身構えていたところだったので、「ついに来たか」と小さくつぶやく。
自信のなかったあの術が成功したか否かは、日の入らない高楼にいた真備にもはっきりとわかった。賽子を筒で覆った瞬間に高楼を揺らした強い風、なぜか全く聞こえなくなった朝と夜の太鼓の音。その情報さえあれば、術の成功を知るなどたやすいことである。
あの強い風が雲を運び、それによって太陽が隠れてしまったからこそ、日の出の太鼓も日の入りの太鼓も鳴らすことができなかった。そんな推測ができるほどには、ずっと冷静だったのだ。
感情を無にするあまり、もはや空腹も感じなかった。恐れもなかった。これ以上は何も出来ないと悟っていたからである。やれることはすべてやった。これで失敗しても後悔はない。それでも失敗したのなら、仲麻呂と共にこの地の土となり消える覚悟でいた。
あとは彼らの反応を待つだけ。李林甫の賢さを信じるだけだ。彼が国のことを考えられる宰相ならば、何かしらの対応をしてくるだろう。真備はそう考えた。
どうやら李林甫はうまく動いてくれたらしい。きっと今ハシゴをのぼっているのは李林甫の使者だろう。気配からするに相手は二人だ。この不可解な現象が真備の仕業だということにようやく気が付いたらしい。
賽子に筒を被せたまま放置していた碁盤。真備はその前へ腰を下ろすと、凛とした表情で入口を見つめる。すると、扉のすぐ向こうでコトリという微かな物音がした。
「真備だな。まだ生きておれば返事をせよ」
真備はおや、と首をひねった。どうやら今回は扉を開ける気がないらしい。真備はそれに気が付いて口の端を持ち上げた。それはどちらかというと、真備にとって都合の良い話だったのだ。
はっきりとした声で返事をしたものの、あちら側も真備がまだ生きていることを察していたのか、さほど驚きもしなかった。
「いま都では月日が顔を見せぬという不可解な現象が起きている。腕のある僧をして出所を占ったところ、この高楼に行き着いた。そなた、何か術でも使ったな?」
もちろん、その問いに対する答えは「はい」である。しかし、真備はあえて首を横に振った。扉を隔たてて対峙する相手に自分の顔など見えるはずもない。けれどもわざとらしく頭を下げてひれ伏してみせた。
「なんと······都ではそのようなことが起こっているのですか? 私は何も知りませぬ。そのようなことが起こっていることも今初めて知りました」
「そんなわけなかろう」
二人の使者が顔を見合わせたのが分かる。しかし真備は頭をさげたまま動きをみせなかった。すぐには反論をせずに静かにわらっていた。
そう、彼はわらっていたのだ。
「私は何も知りませぬ。あなた方に復讐をしようなどとも思っておりませぬ。そもそも、世界の中心である大唐国に異変が生じれば我が日本国もまた混乱に巻き込まれましょう。国のためにここまで粘った私が、自ら故郷を滅ぼすような真似をいたしましょうか?」
使者達は口を閉じてしまった。そういわれれば確かにそうだと思ってしまう。しかし、それこそが唐の弱みであった。
「唐が乱れれば他国も乱れる」
その考えが誇り高き役人たちにしっかりとこびりついていたのだ。唐は世界の中心だ。唐の繁栄が諸国の繁栄だ。そんな矜持が無意識にも無知な使者を盲目にさせた。使者の目には真備の微かな笑みなど見えていなかったのだ。
それは彼らの間を重たい扉が横切っていたからだろうか。いや、違う。もしも高楼に来たのが李林甫本人であったのならば、扉の有無に関わらず真備の思惑など簡単に見破られていただろう。
しかし使者達には真備の考えがよめなかった。では、その違いは何であるか。それは言うまでもなく、他人の心を読み取る鋭さであろう。李林甫に仕えていながらも、彼らはその術を会得することが出来ていなかった。だから見えない真備の表情に戸惑い、踊らされてしまうことになったのだ。真備と李林甫の腹の探り合いにも気が付かずに。
「確かに、確かに私は何もしていないのであります。ただただこの暗い籠の中で、いずれ訪れるであろう死を待っていただけ。ああ、でも······」
術の使用を否定するばかりであった真備がふと言葉を濁らせた。その不可解な間に気が付いて、使者の二人は身を寄せる。突然変わった声音を漏らすまいと必死なのだ。真備はそれを感じ取ってにやりと笑った。そして今気が付いたかのように、とぼけた表情でぽつりとつぶやく。
「一つ、たった一つだけ心当たりがございます」
使者達は「それみろ」と言わんばかりに顔を見合わせて笑った。
しかしそれこそが罠であったのだ。実をいうと、初めから「はい、私が術を使いました」と言ってやっても良かったのだ。それでも十分真備の計画は成功する算段だった。
しかしわざわざ嘘をついてまで言葉を濁した。それはいったいなぜなのか。その答えは「使者をより自分の話に引き込むため」というところにある。
初めから真備が犯人だと分かってしまえば相手もそれなりに安堵する。そうなれば、その後真備が何を言ったとしても相手は話を聞いてくれなくなり、彼らの思うつぼになってしまうのだ。
しかし、初めに真備が関与を否定してくればどうだろう。相手は「絶対に何か隠しているはずだ」と慎重になり、真備のボロを聞き漏らすまいと必死に耳を傾ける。そして何か秘密を漏らしてしまいそうになった時に、彼らの集中力はピークを迎えるのだ。そこへ吹き込まれる信憑性のある一つのウソ。それはしっかりと使者の耳に残ってしまい、彼らはまるでそれが事実であるかのように錯覚してしまう。
それが真備の狙いであった。だから大げさなほどに声音を変えた。とってつけたような語り方はやめ、突然思い出したとでもいうような口調で話し始める。
「私は死を覚悟していたとはいえ、やはり初めは日本の神仏に助けを求めておりました。どうか私の命をお助けください、どうか日本へ帰してください、と。もしかしたら、その願いが日本の神仏に届いたのやもしれません。私が日本へ帰りたいと願ったばかりに······」
天地の異常は神仏の思し召しだ。そんな考えが一般的であった当時の人々にとって、それを信じることはいとも簡単なことであった。
真備の語りにすっかりのみ込まれてしまっていた思考の浅い使者達は、すでにそれを信じて疑わない。真備が全てを否定する中で、やっと見つけた迷路の出口だ。彼らが無視するはずがなかった。
「では我々は何をすれば良いのだろうか」
恐る恐る問うてきた使者に、真備は勝ったといわんばかりに目を細める。しかし、少し考え込むかのようにしてから問いに答えた。
今回の目的であるその願いを。
「恐らく、私をこの高楼から解放し、日本に帰してくださるのであれば神仏も許してくださるでしょう。さすればこの長安にも再び日が昇るに違いありません」
その答えを聞くや否や、使者達は李林甫と相談するといって足早に去っていった。真備はそこまで来てやっと深く息をつく。これで話はうまく運ぶ。そんな確信が真備にはあった。つまり、李林甫が反対するはずがないと信じて疑わなかったのである。
というのも、真備が術を使ったにせよ、神仏が真備に手を貸したにせよ、李林甫にとって選ぶべき道は「真備を開放すること」、たったのそれだけであったからだ。
真備一人を滅ぼすとともに唐の国そのものをも滅ぼしてしまうか、真備の命を助けるとともに唐の国も助けるか。そのどちらか片方を選べといわれたならば、さすがの李林甫も後者を選ぶだろう。真備に負けて悔しい思いをしたとしても、宰相ならばそのくらいの愛国心はあるだろうとふんだのだ。
その予想は半分は当たったが半分は外れることとなる。李林甫は真備が思っていなかった理由でその心を決めたのであった。
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