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第五章『賽の目』
賽の目 5
しおりを挟む誰もが目を見張るような大男が宮殿の回廊を足早に通り過ぎてゆく。しかし、周りで立ち止まっていた人々は目もくれず、一心不乱に空を見上げてはザワザワとした言葉のうねりばかり作り上げていた。
大男は彼らを横目に見ながら、一室に向かって真っ直ぐ歩みを進める。その手には一つの木簡。何やら緊急の連絡でもあったらしい。大男は汗の滲む巨体で目的の部屋まで辿り着くと、扉の向こうに声をかけてから薄暗い部屋の中に身体をすべらせた。
「遅かったな、安禄山」
安禄山という大男が部屋に入ると部屋の奥から声が掛かる。そこにいたのは李林甫だった。彼は窓の外を見上げていたらしく、くるりと身体の向きを変え安禄山の方に振り返った。
「何かめぼしい情報はあったか?」
李林甫は静かにそう尋ねたが、安禄山は申し訳なさそうに下を向く。
「いえ。天文学的にもこの異常な空が何なのか分からぬとのこと。そして代わりのように一つ悪い知らせが入りました。極一部の官僚達の中ではありますが、貴方様の台頭を避難する声が上がっているということです。この空は貴方様の台頭の凶兆なのではないかと」
「なるほどな」
李林甫は特に怒ることも無く窓の脇の椅子に腰掛けた。テーブルに肘をついてもう一度空に目を向ける。
「それを言い出したのは大方張九齢殿の取り巻きだろう。科挙勢力がこちらに不満をつのらせていることは何も今に始まったことではない」
李林甫は浅い盃にチョロチョロと酒を注いだ。
少し前までは張九齢という人物が力を強めた科挙勢力の時代であった。それを押しのけて李林甫がしゃしゃり出てきたのがあちらとしては気に食わないのだろう。今の異常な空は、その不満をぶつけるのにもってこいなのだとみえる。
安禄山は酒をひとくち口に含んだ李林甫を見つめると、彼が見上げている窓の外に視線を移した。そこから見えるのは暗く沈み切った曇り空。もう朝だというのにまるで夜のように光がない。何層もの分厚い雲が空を覆い尽くし太陽の光を全て遮ってしまっているのだ。
太陽が顔を見せなくなってから今日で既に三日。民衆も官僚もその恐ろしい現象に喚き戦き、今の長安はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。不安からか民衆は家から一歩も出なくなり、人通りの消えた大路に蔓延るのはこれ幸いと家先や店頭の物品を略奪しようとする盗賊のみ。かつては様々な土地の言葉で賑わっていた市場にも、ほとんど人影が見えなくなってしまっていた。終いには、時の皇帝である李隆基までもが自分の御代が悪いのではないかと嘆き始める始末である。
そんな都をじっと観察し、怪奇の原因を探ろうとしているのが李林甫であった。彼は確かに腹の黒い人物ではあるが、国のことを考えられないほどバカではない。むしろ、彼がとっている政策自体は国を混乱させるようなものではないのだ。ただただ自分の立場を守る為にはいかなる手段も選ばないところ、そして国の潤いの中に己の身を置き続けようとするところが彼の恐ろしいところなのである。その独裁的な思考さえとってしまえば、彼の政治のセンスはなかなかのものであった。
だからこそ彼は国を惑わせる怪奇を取り除こうとしていた。このままでは必死に築き上げてきた自分の地位も、怪奇に乗じて反抗し始めた科挙勢力に落とされてしまうかもしれぬ。それだけは阻止したかった。
「安禄山。いくら考えたとて、自然が相手であれば人の思考など歯が立たぬ。ここはあいつに占ってもらおうではないか」
神妙に紡がれた言葉に、安禄山はそっと顔を上げた。李林甫は心の読めない切れ長な瞳で窓の外を眺め続けている。しかし、彼のあいつという言葉が誰のことを示しているのかは検討がついた。
安禄山は「御意」といって頭を下げる。そしてそのまま体の向きを変えてゆっくりと部屋を出ていった。
李林甫は扉の戸が閉まる音を聞くと、視線をテーブルの上に向ける。そこにあるのは空になった盃と一本の蝋燭。そのゆらゆらとした蝋燭独特の火の揺らぎをしばらく見つめ続けた。薄暗い部屋の中に一時の静寂が訪れる。それはどこか不思議な色に満ちていた。
李林甫はふっと息を吐くと、立ち上がりながら指先で蝋燭の火を握り消した。一気に光を失った部屋に、李林甫の靴音だけが響く。
彼はそのまま部屋を出ていった。部屋の前で頭を下げていた付き人兼番人の男に軽く手を振ると。そのまま回廊を歩き去ってゆく。付き人の男も一歩遅れて頭をあげると、彼のあとに付き従って歩き出した。
二人の姿は徐々に遠ざかり、薄暗い闇に霞んでゆく。やがて靴音は消え、その姿も暗がりに溶けた。
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