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第四章『疑惑』
疑惑 8
しおりを挟む「客?」
突然客がきたと使用人から告げられた王維はどこか気だるげに立ち上がった。ちょうど用事を終えて帰ってきたばかりで、これからご飯でも食べようかと思っていた。内心「間が悪いなぁ」と思っていたのだが、使用人から相手の名前を聞いた瞬間、一気に目が覚めた。
「今、真備って言った?」
王維は飛びつかんばかりの勢いでその名を繰り返した。使用人がこくこくと頷いてみせると、王維は真剣な顔になって「そうかぁ」と深く息をつく。そして形の良い眉をきゅっと寄せると足早に客間へと向かった。
「初めまして。真備と申します」
そう名を名乗った青年を見て王維は「なるほど」と思う。仲麻呂から聞いていた通り、とても誠実そうな青年であった。王維は縮こまっている真備に笑みを向けると楽にするよう促す。自分も名を名乗ったところで本題へと入った。
「で、晁衡······仲麻呂に何かあった?」
真備は、自分の心を見透かされたかのような発言に思わず顔を上げた。すると、そんな真備を見て王維は笑う。
「君が僕のとこを訪ねてくるなんて仲麻呂のことしかないでしょ? 君のことも仲麻呂から聞いてるよ。安心して話して。他言はしないから」
そう言う王維の瞳はとてもあたたかく、まるで母であるかのような優しい光に満ちていた。真備は彼のことを信じようと思い、ぽつりぽつりと今までの経緯を語り始める。仲麻呂と出会った時のこと、李林甫の陰謀、そして仲麻呂を刺してしまったこと。
王維は目を瞑りながら黙って聞いていた。穏やかな夜の客間にただただ静かな真備の声が響く。全て語り終えると、「なるほどね」と王維は瞼を上げた。
「晁衡は僕に聞けば全てが分かるって言ってたんだね? なら全てお話ししようと思うんだけど······いいかな?」
真備が不安そうに頷いたのを見て王維はそっと微笑んだ。そしてたった一言だけこう言った。大丈夫だよ、と。王維の声はどこか優しい響きをもって真備の耳にこだまする。その声も微笑みもまるで仏のようだなと思った。不思議と、平城の京に咲いていた蓮の花をおもいだす。
仏のようなその人は「まず、これまでの流れを整理しようか」と言って虚空を見上げた。
「晁衡はある日李林甫に呼び出されてね。気を失わされてあの高楼に閉じ込められたんだ。そして餓死寸前だった彼はたまたま高楼にいた日本水軍の亡霊······あの赤鬼に取り憑かれた。そしたら何故か死ぬことなく赤鬼の姿で生き延びることが出来たんだけど、今夜君に刺された、と」
真備は頷きながらも罪悪感に苛まれる。仲麻呂を刺してしまったことで大きなショックを受けたのだろう。王維は「安心して」と目を細めると、次の瞬間思わぬ言葉を放つ。
「彼はまだ死んじゃいないよ。これで死んだのは赤鬼の方だ」
「え?」
真備が思わず驚きの声をあげる。王維はお茶を一口飲んでからふっと息を吐いた。
「とりあえず、君も不思議に思っていただろうし、彼の秘密、というか仕組みを話したいんだけど」
王維は真備を一瞥した。一方の真備は「仕組み?」と繰り返して首をひねる。
「そう、仕組み。君も不思議に思ってたんじゃない? 何で月明かりの下では人間の姿に戻れるのかとか、何で囲碁の対局のあとに君から遠ざかり始めたのか······とかね」
真備は目を丸くした。それはまさに真備の心を代弁したかのような台詞であったのだ。これまでも不思議に思う点はいくつかあったが、仲麻呂に直接尋ねたことは無い。だからこそ、王維の言葉に惹かれたのだ。
「実は晁衡と赤鬼の関係性、というか、彼らの力の強さが月に関係していたんだよ」
「月?」と首をひねった真備に、王維は「そうそう」と頷く。
「晁衡は月の光があれば人間の姿に戻れた。それは、月が人間としての晁衡の力を強めてくれるからなんだ。霊の浄化作用があったり、晁衡の精力や生命力を高めてくれるって言うのかな? 月が明るければ明るいほど、あの赤鬼の中にある亡霊の力は衰え、晁衡の力が強くなる」
王維は窓の外の夜空を見上げた。真備もそれにつられて目を向けるが、そこには真っ黒な闇が広がるだけだった。月のない暗い新月の夜。王維はその墨を流したかのような空を見上げてそっと続ける。
「ただし、月の光がない時は逆の作用が働くんだ。赤鬼の身体の中で、人間としての晁衡の支配力が弱まり亡霊の力が強まる。だから月の光がなければ彼は人間の姿に戻れないし、完全に思考を乗っ取られる時もある」
真備は最後の言葉を聞いてドキリとした。「まさか」と小さく呟く。
「そう、特に乗っ取られやすいのは新月のあたりだ。月が完全に無くなる夜。まさに今日さ。その日の前後は亡霊の力が最大になる。そうすると亡霊の暴走を抑えきれずに思考を乗っ取られ、知らぬうちに人を傷つけてしまう時があるんだ。心当たりがあるんじゃない? 真備さん」
王維はそう言って真備を見た。糸のように細い瞳がキラリと光る。
真備はその不思議な光から思わず視線を逸らすと、俯いたまま「ええ」と頷いた。そして、仲麻呂を疑うきっかけとなった出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
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