吉備大臣入唐物語

あめ

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第四章『疑惑』

疑惑 7

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 そこには赤鬼が倒れていた。先ほどと変わらぬ体勢で。
 真備は瞬時に彼に駆け寄った。血にまみれた身体に触れると、まだ少し温かさが残っていた。苦しげな息遣いが微かながらに耳へ届く。真備は真剣な面持ちで手を伸ばすと、そっと彼を抱き起こした。

「仲麻呂?」

 真備が必死に問いかけると、赤鬼はゆっくりと顔を向けた。落窪んだ影の中、虚ろな瞳が真備をとらえる。

「本当に、仲麻呂なのか?」

 赤鬼······いや、阿倍仲麻呂はぎこちないながらに微笑んだ。それは、何度も見てきた正真正銘仲麻呂の笑みであった。
 その瞬間、真備は頭が真っ白になった。とんでもないことをしてしまったと気がつき、頭を思い切り殴られたかのような衝撃に襲われる。その時、真備の瞳から大きな雫が零れ落ちた。悲しいほどに澄んだそれは止めどなく溢れては流れ、白い頬を柔く濡らす。
 仲麻呂はそっと片手を動かした。ゆっくりと持ち上げたその手が真備の頬を包む。普段感情を見せない真備の涙。それに触れると、仲麻呂は掠れた声で言葉を紡いだ。

「ごめん、なさい、わたしが、あなたをくるしめたのです······わたしが、本当のことを、すべて話さなかったから······あなたを、信じきれなかったから······」

 真備はふるふると首を横に振った。何かを言おうとして口を開いたが、漏れる嗚咽がそれを許さなかった。そんな真備を見て、仲麻呂はそっと目を細める。

「わたしは大丈夫、ですから······わたしは、完全に死ぬわけでは、ありません······いいのです、これで正しいのです······あなたが、気に病む必要はありません」
「違うっ、違う! 俺が、俺が悪いんだ。俺が、お前のこと疑って、お前のこと······」
「······いいえ」

 首を横に振り続ける真備に、仲麻呂は優しい目で訴えかけた。それはどこか清々しい瞳であった。

「あなたは、半ばあやつられていたのです。術にかかっていたのです。それに、これで······あなたの選択次第で······私は人に戻れます」
「へっ?」

 突然の言葉に、真備は目を丸くして腕の中の仲麻呂を見つめた。その拍子にまた一つ、ぽろりと大きな涙が零れる。仲麻呂はそれを見てやんわりと微笑み何かを言おうとした。
 しかし、その言葉は咳によって遮られる。血を混じえて激しく咳き込む仲麻呂に、真備は慌てて背に手を当てた。彼は息苦しそうに背中を丸める。口を開いて言葉を紡ごうとしては何度も激しく咳き込んだ。しばらくその繰り返しであった。彼は苦しそうに息を整えるとやっとのことで力なく笑う。

「全てお話したいのですが、見ての通り、わたしには時間がありません······だからっ······」

 仲麻呂は乱れた呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吐いた。そして、再び掠れた声で言葉を紡ぐ。

「だから、都に戻って、王維という人を訪ねなさい······」
「おう、い?」

 静かな声で繰り返された名前に、仲麻呂は頷いた。

「私の友人です。彼なら、全て話してくれます。きっと、きっと······」

 仲麻呂はそっと真備を見上げた。その顔は鬼の面ながらもどこか儚げで、今にも泣きそうな表情であった。

「私は、あなたを信じきれなかった。正直に、なれなかった。だから······だから、今度こそあなたを信じたい、あなたの選択を信じたい。あなたが王維さんのもとへ行こうとも、わたしのことを見捨てようとも······わたしは、嬉しいのです。今後のあなたにとって、最適な選択をしてください。あなたの選択を······わたしは信じます。今度こそ、あなたを信じたいから」

 仲麻呂はそう言うと高楼の扉の方へ片手をかざした。するとカチャリという音がして高楼の扉の鍵が開く。仲麻呂は、再び涙を溜めた真備に向き直るとニカッと笑った。

「あなたに出会えて良かった。あなたは赤鬼でもない、晁衡でもない、阿倍仲麻呂に······本当の私に笑いかけてくれた。あなたは私にとって最高の友です。どうか、どうかあなたの人生に幸多からんことを······」

 荒む息を抑えてはっきりと紡がれたその言葉に、真備はやっと笑顔を取り戻した。互いに血にまみれた手と手を取り合い、涙ながらに笑いあった。

 そこにいたのは人と物の怪ではない。
 正真正銘の友と友であった。

 真備は仲麻呂の手を握りしめると精一杯の笑顔で泣く。そして決意をかためたように涙を拭くと、潔く高楼を飛び出した。幸い真備が着ていたのは野馬台詩の試験に向けて李林甫から配給された服。元々着ていた衣服は残っていた。真備は血にまみれた服を脱ぎ捨て、着慣れた自らの衣に身を包んで都へ向かう。

 仲麻呂は真備が高楼を出ていくのを見送ると、大粒の涙を流して横たわった。傷口がじんじんと焼けるように痛むが気分は清々しい。そっと天井に手を伸ばして人ならざる肌を眺めてみる。そして、血に染った鋭い爪を見つめて不敵に笑った。

「残念、私の勝ちですよ、赤鬼さん。さぁ、もう彼に執着せずに共に眠りましょう? 懐かしい故郷を想いながら······」

 そこで仲麻呂は目を閉じた。伸ばしていた手が力なく床の血溜まりに落ちる。
 高楼の中を静寂が包んだ。しかしその直前、どこか凛とした美しい声が、微かに聞こえた気がした。
「ありがとう」と、たった一言。
 その声は、鉄の匂いの中に眠っていた甘い花の香りに溶けてゆく。そしてふわりと空に向かって飛ぶと、高楼の外の夜風に乗せて、都の方へと消えていった。






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