44 / 68
第四章『疑惑』
疑惑 7
しおりを挟むそこには赤鬼が倒れていた。先ほどと変わらぬ体勢で。
真備は瞬時に彼に駆け寄った。血にまみれた身体に触れると、まだ少し温かさが残っていた。苦しげな息遣いが微かながらに耳へ届く。真備は真剣な面持ちで手を伸ばすと、そっと彼を抱き起こした。
「仲麻呂?」
真備が必死に問いかけると、赤鬼はゆっくりと顔を向けた。落窪んだ影の中、虚ろな瞳が真備をとらえる。
「本当に、仲麻呂なのか?」
赤鬼······いや、阿倍仲麻呂はぎこちないながらに微笑んだ。それは、何度も見てきた正真正銘仲麻呂の笑みであった。
その瞬間、真備は頭が真っ白になった。とんでもないことをしてしまったと気がつき、頭を思い切り殴られたかのような衝撃に襲われる。その時、真備の瞳から大きな雫が零れ落ちた。悲しいほどに澄んだそれは止めどなく溢れては流れ、白い頬を柔く濡らす。
仲麻呂はそっと片手を動かした。ゆっくりと持ち上げたその手が真備の頬を包む。普段感情を見せない真備の涙。それに触れると、仲麻呂は掠れた声で言葉を紡いだ。
「ごめん、なさい、わたしが、あなたをくるしめたのです······わたしが、本当のことを、すべて話さなかったから······あなたを、信じきれなかったから······」
真備はふるふると首を横に振った。何かを言おうとして口を開いたが、漏れる嗚咽がそれを許さなかった。そんな真備を見て、仲麻呂はそっと目を細める。
「わたしは大丈夫、ですから······わたしは、完全に死ぬわけでは、ありません······いいのです、これで正しいのです······あなたが、気に病む必要はありません」
「違うっ、違う! 俺が、俺が悪いんだ。俺が、お前のこと疑って、お前のこと······」
「······いいえ」
首を横に振り続ける真備に、仲麻呂は優しい目で訴えかけた。それはどこか清々しい瞳であった。
「あなたは、半ばあやつられていたのです。術にかかっていたのです。それに、これで······あなたの選択次第で······私は人に戻れます」
「へっ?」
突然の言葉に、真備は目を丸くして腕の中の仲麻呂を見つめた。その拍子にまた一つ、ぽろりと大きな涙が零れる。仲麻呂はそれを見てやんわりと微笑み何かを言おうとした。
しかし、その言葉は咳によって遮られる。血を混じえて激しく咳き込む仲麻呂に、真備は慌てて背に手を当てた。彼は息苦しそうに背中を丸める。口を開いて言葉を紡ごうとしては何度も激しく咳き込んだ。しばらくその繰り返しであった。彼は苦しそうに息を整えるとやっとのことで力なく笑う。
「全てお話したいのですが、見ての通り、わたしには時間がありません······だからっ······」
仲麻呂は乱れた呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吐いた。そして、再び掠れた声で言葉を紡ぐ。
「だから、都に戻って、王維という人を訪ねなさい······」
「おう、い?」
静かな声で繰り返された名前に、仲麻呂は頷いた。
「私の友人です。彼なら、全て話してくれます。きっと、きっと······」
仲麻呂はそっと真備を見上げた。その顔は鬼の面ながらもどこか儚げで、今にも泣きそうな表情であった。
「私は、あなたを信じきれなかった。正直に、なれなかった。だから······だから、今度こそあなたを信じたい、あなたの選択を信じたい。あなたが王維さんのもとへ行こうとも、わたしのことを見捨てようとも······わたしは、嬉しいのです。今後のあなたにとって、最適な選択をしてください。あなたの選択を······わたしは信じます。今度こそ、あなたを信じたいから」
仲麻呂はそう言うと高楼の扉の方へ片手をかざした。するとカチャリという音がして高楼の扉の鍵が開く。仲麻呂は、再び涙を溜めた真備に向き直るとニカッと笑った。
「あなたに出会えて良かった。あなたは赤鬼でもない、晁衡でもない、阿倍仲麻呂に······本当の私に笑いかけてくれた。あなたは私にとって最高の友です。どうか、どうかあなたの人生に幸多からんことを······」
荒む息を抑えてはっきりと紡がれたその言葉に、真備はやっと笑顔を取り戻した。互いに血にまみれた手と手を取り合い、涙ながらに笑いあった。
そこにいたのは人と物の怪ではない。
正真正銘の友と友であった。
真備は仲麻呂の手を握りしめると精一杯の笑顔で泣く。そして決意をかためたように涙を拭くと、潔く高楼を飛び出した。幸い真備が着ていたのは野馬台詩の試験に向けて李林甫から配給された服。元々着ていた衣服は残っていた。真備は血にまみれた服を脱ぎ捨て、着慣れた自らの衣に身を包んで都へ向かう。
仲麻呂は真備が高楼を出ていくのを見送ると、大粒の涙を流して横たわった。傷口がじんじんと焼けるように痛むが気分は清々しい。そっと天井に手を伸ばして人ならざる肌を眺めてみる。そして、血に染った鋭い爪を見つめて不敵に笑った。
「残念、私の勝ちですよ、赤鬼さん。さぁ、もう彼に執着せずに共に眠りましょう? 懐かしい故郷を想いながら······」
そこで仲麻呂は目を閉じた。伸ばしていた手が力なく床の血溜まりに落ちる。
高楼の中を静寂が包んだ。しかしその直前、どこか凛とした美しい声が、微かに聞こえた気がした。
「ありがとう」と、たった一言。
その声は、鉄の匂いの中に眠っていた甘い花の香りに溶けてゆく。そしてふわりと空に向かって飛ぶと、高楼の外の夜風に乗せて、都の方へと消えていった。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
かくされた姫
葉月葵
歴史・時代
慶長二十年、大坂夏の陣により豊臣家は滅亡。秀頼と正室である千姫の間に子はなく、側室との間に成した息子は殺され娘は秀頼の正室・千姫の嘆願によって仏門に入ることを条件に助命された――それが、現代にまで伝わる通説である。
しかし。大坂夏の陣の折。大坂城から脱出した千姫は、秀頼の子を宿していた――これは、歴史上にその血筋を隠された姫君の物語である。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
「楊貴妃」を妻にした皇太子候補 ~父である皇帝にNTRされ、モブ王子に転落!~
城 作也
歴史・時代
楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の妻として中国史に登場するが、最初は別の人物の妻となった。
これは、その人物を中心にした、恋と友情と反逆の物語。
法隆寺燃ゆ
hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが………………
正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!
金平糖の箱の中
由季
歴史・時代
暗い空に真っ赤な提灯が連なる。
綺麗な華の赤に見えるだろうか、
地獄の釜の血に見えるだろうか。
男は天国、女は地獄。
ここは遊郭。男が集い、女を買う街である
ここに1人、例外がいた話
昔、想いを寄せた遊女と瓜二つだったのは、女ではなく男だった。昔の想い人に想いを馳せ、その男に会いに行く。昔の想い人に重ねられ、傷付く心。昔と今の想いが交差する少し変わった、切なくも美しい遊郭のお話。
※エブリスタ、小説家になろうで公開中です。
焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
母の城 ~若き日の信長とその母・土田御前をめぐる物語
くまいくまきち
歴史・時代
愛知県名古屋市千種区にある末森城跡。戦国末期、この地に築かれた城には信長の母・土田御前が弟・勘十郎とともに住まいしていた。信長にとってこの末森城は「母の城」であった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる