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第四章『疑惑』
疑惑 5
しおりを挟む赤黒い血しぶきが飛び、真備の頬を生ぬるく濡らす。錆び付いた血の匂いが身体中にまとわりついた。倒れかかってきた赤鬼の身体が、ずっしりとした重圧を与える。真備はそれをがむしゃらにかわすと、短剣を引き抜いて今度は赤鬼の胸を刺した。
先程より鮮明な赤が眼前をかすめて飛び散る。短剣伝いの気味の悪い感触が真備の背筋を意地悪く撫でた。しかし、そんなものを感じ取る余裕などない。この時の真備はほぼほぼ自我を忘れていた。
胸を刺された赤鬼は苦しげな声を上げて、そのまま床に倒れ込む。ピシャリと嫌な音がした。真備はそれを目の前にして、荒んだ息を整える。
自分の身体が異様に重く感じた。急にくらりと視界が歪んで足に力が入らなくなる。真備は短剣を手に構えたまま呆然とその場に座り込んだ。そして何気なく自らの手に視線を向ける。美しく磨かれた短剣はその光沢をほぼ失っていた。赤黒く染まった刃先から、ポタリポタリと雫が滴り落ちる。その止めどない動きを見て虚ろな目をしていた真備であったが、しばらくしてようやく意識を取り戻した。
「······俺」
ぽつりと漏れた呟きに、急に視界が晴れてゆく。真備はまだぼんやりとしたまま目の前に視線を移したのだが、そこに広がる血溜まりを見て一気に目が覚めた。
四方に広がる赤い海の中で、一人の赤鬼が横たわっていた。浅い息をする彼は、ただ苦しみに耐えるかのようにじっとして動かない。鉄臭い匂いに吐き気を感じながら、真備はその光景から目を逸らせずにいた。逸らしたくても衝撃で身体が動かなかったのだ。
すると、突然赤鬼が視線をよこした。彼は焦点の定まらない瞳で真備を見上げる。
するとその瞬間、恐怖心が一気に真備の身体を駆け抜けた。自分が成したことの重さにサッと血の気が引き、何ふり構わずこの場から逃げ出したくなった。それは一度は友と思った相手を傷つけたからか、はたまた化け物の逆襲を恐れたからか。それは当の真備にも分からなかった。ただただ、言葉では言い表せない正体不明の恐怖が······何かを殺めようとした罪悪感が······突如として真備に牙を向き、背中に覆いかぶさってきたのだ。
ザワザワとした喧騒の中にいるような強い息苦しさ。胸の奥を掻きむしられるようなやり場のない焦燥。それを感じると同時に、どういうわけか今まで凍っていたはずの真備の身体は瞬時に動きを取り戻した。無意識に後ずさった真備は、そのまま勢いよく立ち上がって高楼の入り口へと逃げ帰る。開け放たれたままの扉はすぐ目の前だ。真備は転がるようにその扉から外へ出ようとした。
しかし、その時だった。
突然目と鼻の先で重く厚い扉が閉まった。真備は突然のことに驚いて、そのまま扉にぶつかり膝から崩れ落ちる。膝のあたりで、ピシャリという血溜まりを踏んだ水音がした。何が起きたのか全く分からなかった。
「ふふっ」
突然扉の向こうから人の気配がした。軽く鼻で笑ったような声が耳に届く。真備はそれに気がついて反射的に声を上げた。
「誰だっ、誰かいるのかっ!」
高楼の中に響き渡った声は扉の前にいる何者かにも聞こえたはずだ。しかし、それに対して返ってきたのは相変わらずの笑い声だけ。まるでこちらを嘲笑うかのようなその声に、真備は怒りを感じて扉を叩く。
「おいっ、聞こえてるなら何か言えよっ! 誰かいるんだろうっ!?」
「······ふふっ、まぁまぁ真備殿。そう気を荒くしないでくださいな」
ようやく聞こえたその声に、真備は扉を叩いていた拳を下げた。そして声の主に気がついてギョッとしたように目を丸くする。
「李林甫殿、か?」
「ええ、そうですとも」
扉の向こうの男。そう、真備に赤鬼討伐を託した張本人である李林甫は隠す気もなさげに頷いた。そして、笑いを含んだ声でたった一言こう続ける。
「ご苦労様でした」と。
真備はそれを聞いて背筋が凍った。その言葉には、どうとも言えない冷たさが混じっていたのだ。
「いや、こちらとしては助かりましたよ。貴方が赤鬼討伐に協力してくれたおかげでだいぶ仕事が減りました」
「······どういうことです?」
李林甫の言葉に真備は静かに問いかけた。
「もう赤鬼討伐は終わったでしょう。早く出してください」
「それは出来ませんね。貴方にとって討伐すべきなのはそこの赤鬼だけでしょうけれど、我々にとってはまだ討伐すべき人間が残っているのですよ」
その言葉に身震いをした。討伐の相手とは一体誰なのか。知りたいという気持ちはあるが、それを知ってしまったら最後、最悪の事態に陥るような気がしたのだ。
しかし問いかけなければ何も話さないつもりなのだろう。李林甫は決してその名を示そうとしない。真備はしばらく悩んだ結果、最終的に己の口を開いていた。
「それは、一体誰のことでございましょう」
李林甫はそれを聞いて目を細めた。彼の口元に不敵の笑みが浮かぶ。
「それはもちろん、貴方ですよ。下道真備殿」
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