吉備大臣入唐物語

あめ

文字の大きさ
上 下
41 / 68
第四章『疑惑』

疑惑 4

しおりを挟む

 風に吹かれた木々がざわざわと踊る、月のない新月の夜。高楼の周りは墨を流したかのような闇に包まれていた。
 真備はただ一人、松明をもって佇んでいる。もう片方の手には李林甫に渡された短刀。覚悟はもう決まっていた。

 赤鬼の挙動。真成の証言。李林甫の口舌。

 その全てが一つに繋がった時、真備の前に現れた赤鬼はもう既に阿倍仲麻呂ではなかった。それは都に害なす日本水軍の亡霊だ。ただの悪しき魍魎もうりょうだ。
 ならば、それを討つことが日本人としての役目ではないか。日本、そして今は亡き阿倍仲麻呂の誇りを取り戻す唯一の手立てではないか。

 真備は強い瞳で空を見上げた。黒々とそびえる高楼は異様な圧を放っている。果たして、今そこに赤鬼はいるのだろうか。真備は短剣を腰につけると、ゆっくり、ゆっくりとそのハシゴをのぼった。
 そして、高楼の扉の前でじっと息を潜めてみる。しかし重たい扉の奥を探れど何の気配もなかった。真備は再び短剣を握りしめると、一気に扉を開け放つ。
 案の定そこには何もいなかった。ただただ懐かしい古木の匂いだけが立ち込めている。真備は高楼に足を踏み入れると、松明を持ってあたりを見渡した。
 隠しておいた文選の写書き。碁盤のような天井の目。硯も筆も、水筒も毛布も、全てが記憶のままだった。二人で最後の試練に旅立った日の夕暮れ。あの時から何も変わっていない。どうやら誰も足を踏み入れていないらしい。

 しばらく無言でそれを眺めていた。その時、真備は何を思っていたのか。そんなこと、今となっては知る由もない。しかし、彼の瞳に少しの陰りがあったことは確かである。ほんの、ほんの少しだけ、瞳の奥が揺らいで見えた。まるで何かに気が付きかけた時のような、そんな小さな迷いだった。

 しかしそれは直ぐに消えた。真っ直ぐに天井を見上げると手に持った短剣を強く握りなおす。そして、冷たい夜の空気を吸って名を呼んだ。しかし、それは今までの呼び方ではない。

「赤鬼」

 真備はそう口にしたのだ。随分と落ち着きを含んだ声であった。しかし、真備だって赤鬼が素直にやってくるとは思っていない。
 何度呼んでも来なかった彼だ。今更来るはずもない。そう思っていた。

 しばらく静寂が辺りを包んだ。聞こえるのはザワザワと揺れる木々の音だけ。
 人の気配は全くしなかった。月のない新月の闇が人の営みさえ呑み込んでしまったかのようで、真備は軽く不安を覚える。
 あいつは今どこにいるのだろう。真備は右手の短剣を見下ろした。仲麻呂の姿を借りているのなら問題なかろうが、鬼である彼が人目につくところに行くわけはない。しかしこの高楼にいないのであれば、一体どこに身を潜めているのか。

 真備が眉をひそめたその時、突然小さな物音が聞こえた。それは暗く舞い込む夜風の向こう、ちょうど高楼の入り口から聞こえた音であった。真備はハッと振り返る。そしてそのまま身体を固めた。
 そこには、黒々とした影があった。いや、月もない暗闇の中ではハッキリとした輪郭は分からない。ただ何者かの気配が確かにそこにあった。松明の光が届かぬ先に、確実に何かがいる。真備は、その気配が誰のものなのかよく分かっていた。だからこそ、呆気に取られたようにその影を見つめることしか出来なかったのだ。
 影がそろりと真備に近づく。松明の炎がその足元をぼんやりと照らしだした。沓は履いているものの、人間よりもずっとずっと大きな足だ。見間違えるはずもない、そんな人外れの体格は彼以外に考えられない。真備は思わず怯んで彼を見上げた。
 改めて見ると恐ろしい姿だ。背丈は約二メートル。巨体を赤黒い肌が覆い、松明の炎が鋭く尖った爪と牙を照らす。彫りの深い顔には陰影がつきまとい、落窪んだ瞳は影の中にいてほとんど見えない。まるで目がないかのようだ。
 それは味方でなくなったからこそ気づく、彼の人ならざる怖さであった。初めて彼を目にした時のような恐怖。人ならざる物の怪への恐怖であった。

 真備は思わず乱れた息を整える。右手に持っていた短剣を両手でぎゅっと握り直した。
 対する赤鬼はじっとして動かない。薄闇の中で、ただただ真備を眺めている。瞳が影で見えないからか、その表情は全く読めなかった。
 しばらく静寂が続いた。空気がピンと張ったかのような静けさだ。ただ、風に押されてギシリと軋む高楼の音と自分の鼓動だけが耳にこだました。しかし、そんな静寂の中で、真備はどこからか声が聞こえたことに気がついた。

 「あいつは敵だ」······そう言っている。それはどこか聞きなれた声。真備は思わず冷や汗を流して声の出処を探す。

 あいつは敵だ、あいつは敵だ。

 声は再びそう告げた。繰り返し、繰り返し、そう告げた。それを聞いているうちに、真備は声の主に気がついてハッとする。それは自分の声であった。
 頭の中で自分の声がそう繰り返している。目の前の鬼を殺せと言っている。真備は耳鳴りがしたかのような気味の悪さに、思わず短剣を握りしめた。

 殺せ。
 殺せ。

 止まない声が心を煽る。無意識にも呼吸が乱れた。頭の中で響き続ける声に頭痛がする。何者かに頭を押さえつけられているかのようだった。
 もう地面に立っているのさえ分からない。視界がチラチラと点滅して、目の前の闇がくらりと歪む。
 真備はその苦しみから逃れたかった。息をすることもままならずに浅い呼吸を繰り返す。これ以上は重圧に耐えられない。霞む意識の中で、それだけはぼんやりと分かっていた。

 苦しい。
 逃げたい。
 帰りたい。

 真備の心がそう叫ぶ。
 すると、再び声が聞こえた。

「殺せ。逃れたくば殺せ。父母に会いたくはないか。友に会いたくはないか。殺せば無事故郷に帰れるぞ。さあらば殺せ、さあらば殺せ」

 頭の中で己の声がそう言った。心の芯にまで響き渡るような声でそう言った。それと同時に声はどこかへ消えてゆく。ただただ苦しげな鼓動だけが真備の耳の奥に残った。

 真備はついに短剣を構えて目線を上げた。その先にいるのは赤黒い物の怪である。彼は何もしなかった。話しも、動きもしなかった。感情の読めない顔でただただ真備を見つめている。
 真備は震える手で短剣の刃先を向けた。生きようとする本能が、苦しみから逃れようとする己の心が、真備の足を一歩前へと進めた。
 汗の滲む手で短剣を握り直す。そして虚ろな瞳で目の前の物の怪を捉えた。

 殺せ。
 殺せ。
 殺せ。

 一歩、また一歩、真備は物の怪に近づく。高楼の隅に置かれた松明の炎がゆらりと揺れ、それを最後に冷たい夜風がピタリとやんだ。
 真備の耳から風の音が消える。代わりに松明がパチリと音を立てた。

 その瞬間、その微かな音を合図にして真備は一気に目の前の胸元に飛び込んだ。赤鬼が苦しげに低く呻く。重苦しい感触の奥で、短剣の鋭い刃先が赤鬼の腹を突き抜けた。









しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

鄧禹

橘誠治
歴史・時代
再掲になります。 約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。 だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。 挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

三國志 on 世説新語

ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」? 確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。 それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします! ※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~

裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。 彼女は気ままに江戸を探索。 なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う? 将軍を狙った陰謀を防ぎ、夫婦喧嘩を仲裁する。 忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。 いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。 ※※ 将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。 その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。 日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。 面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。 天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に? 周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決? 次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。 くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。 そんなお話です。 一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。 エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。 ミステリー成分は薄めにしております。   作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

処理中です...