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第四章『疑惑』
疑惑 3
しおりを挟む「なるほど、井真成殿ですか。彼は主上も頼りにされているお方ですから、名前は存じ上げております。私共も手助け致しましょう」
李林甫は、空になった真備の盃に黄酒を注いだ。
このお酒は、アルコール度数は白酒ほど高くない醸造酒で、料理酒としても重宝される。その名の通り色が黄色みがかっており、風味は種類や醸造工程などによって差が出る。しかし流石は唐の権力者······李林甫が用意したものはかなり良質なものらしい。酒を口を含む度に、強くまろやかな芳香が真備の鼻をくすぐった。
李林甫はそれこそ毎日忙しいのだろうが、たまたま今日は屋敷にいたらしい。突然訪問してきた真備にもにこやかに対応し、すぐに客間に通してくれた。豪華でありながらどこかまとまった風合いの装飾品は、見るからに値打ちのありそうなものばかり。
真備はそんな客間を見て、改めて目の前にいる人物の強さを知った。やはりこの男には政治を司る力があるのだ。それはきっと身分や金だけではない、長年培ってきた何かがあるのだろう。それを感じて思わず尻込みしてしまうが、ここまできて引き下がる訳にはいかない。
というのも、今日の目的はあくまで李林甫への相談。つまり敵対しにきたわけではないのだ。その相談事は、怪我に倒れた真成の援助であった。もちろん、部外者に手厳しい門閥系の彼らが、日本人への援助を拒むのではないかという不安もあった。いや、普通であればいちいち利益のない病人の援助などしないだろう。
しかし、今回はこちらにも強みがある。真備は、今まで彼らがしてきた横暴を皇帝陛下に訴えることが出来るのだ。それを白日の下に晒されたくなければ、多少の援助くらいはしてくれるだろう。そう考えたのであった。
もちろん李林甫も政権者。その真備の意図を読めないほど馬鹿ではない。彼はそれが分かっているのか、あっさりと真備の要求を受け入れてくれた。それに内心ほっとしたのが今の状況である。
真備は、援助の具体的な内容を話し合って李林甫と和解すると、用事が済んだのでさっさと立ち去ろうとした。
もうあまり面倒事には関わりたくない。それが真備の本心だった。唐の人間でもない自分が、大国の権力争いに巻き込まれるなど御免だ。閉じ込められていた期間も長いので、やりたいことは溜まっている。さっさと元の生活に戻りたかった。
しかし、立ち去ろうとする真備を止めた人物がいた。それはもちろん、目の前の李林甫である。
「真備殿。お待ちくださいませ」
真備が立ち止まると、李林甫はこちらの目を真っ直ぐに見つめた。
「実は、こちらからも一つ貴方様にお願いしたいことがございます」
「願い、ですか?」
真備は戸惑ったように李林甫を見る。ただでさえ今まで敵対していたのに、一方は唐の高級官僚、もう一方はたかだか日本の遣唐留学生だ。彼らにお願いされるような立場だとは思えない。こうやって面会出来ていることでさえ奇跡に近いのである。
李林甫は真備が首をひねったのを見ると、小さな声で使用人を呼ぶ。するとどこからか一人の男が現れ、真備に何かを差し出した。
「何故このようなものを?」
真備はますます眉を寄せて李林甫に問いかけた。そこにあったのは一つの刀だ。シンプルだが装飾も施され、そこそこ値打ちがありそうなものである。すると、李林甫は少し声を落として答えた。
「貴方様にぜひとも協力して頂きたいのです。かの鬼の素性を知る貴方様に」
その言葉に、真備はどこか嫌な感じがした。それははっきりと言葉では言い表せない。どこか胸の奥がザワザワするような、背筋に生暖かい風が当たっているような、そんな何とも言えない息苦しさが身を包む。
その感覚に、真備は刀に伸ばしつつあった手を止めた。そしてじっと李林甫を見つめる。
「あの鬼が朝衡殿などでないことは、貴方様ももう分かっておりましょう? 先程貴方様ご自身がそうおっしゃったのですから。ならば、我らに力を貸してくださいませ」
李林甫の頭が恭しく下げられる。
「あの鬼がいなくなることで、井真成殿のような犠牲者も消えましょう。多くの民が安心して暮らせましょう。そのためにも、我々はあの鬼を討とうと思うのです」
真備は目を見開いた。李林甫はそこで顔を上げると、真備に懇願するかのように口調を強める。
「今、あの鬼に近づけるのは貴方様しかおりませぬ。我々は、貴方様にあの鬼を討って頂きとうございます」
そう述べる彼の目は真剣そのものだ。嘘偽りはない。本当に心の底から長安の民を願っているかのような純粋な瞳だ。ふわりとした酒の匂いに頭がぐらつく。こちらをしかと見つめる李林甫の淡い瞳から目が離せなくなった。
真備はその瞳に押された。そして、そんな真備を畳み掛けるかのように李林甫は言う。
「悔しくはないのですか? 同じ日本人である朝衡殿を······いや、阿倍仲麻呂殿の名とお顔を、あの鬼は汚したのですぞ? 」
その名前に真備の心臓がトクリと跳ねた。李林甫が口にした、彼の日本人としての名前。真備の親友であったはずの彼の名前。真備はそれを聞いて、仲麻呂の美しい瞳と凛とした声を思い出した。忘れるはずもない。我が親友だ。
そうだ、あの鬼は仲麻呂の姿と声で人を傷つけたのだ。真備はぎゅっと拳を握る。
あの鬼は、あの月のように美しい青年を殺し、その皮を被って人を傷つけた。名も知らぬ人のことも、親友である真成のことも。これ以上被害を出していいのだろうか。これ以上日本の名に、仲麻呂の名に傷をつけていいのだろうか。
真備は眉を寄せた。
そして必死に考えた。
あの鬼を討つべきか、討たざるべきか。
「どうか、どうか、あの鬼を討ってくださいませ。長安と日本をお救いくださいませ」
李林甫の声が頭にこだまする。胸を震わせたその声に、真備はそっと汗ばんだ拳を開いた。
そして、目の前に差し出された刀に手を伸ばす。恐る恐る触れた金属の柄はひんやりと冷たかった。真備はその無機質な感覚に負けぬよう、柄を強くと握りしめる。
それを見て、李林甫はそっと頭を下げた。深く、深く感謝するように、真備に最大の敬意を示した。
しかし真備は目もくれず、まるで遠くを見つめるかのような瞳でただただ真っ直ぐと刀を見つめ続ける。そして、決意を固めたかのような表情でふっと一つ息を吐くと、何も言わずに李林甫に背を向けた。
李林甫は真備が部屋を出たあとも、ずっと頭を下げ続けた。ずっと、ずっと、彼の遠ざかる足音が消えるまで。
真備はそのまま屋敷を出て、長安の街を歩みゆく。飛び交う異国の商人の言葉、お客を求める女性の高い声。夜の華やかな賑わいが真備の横を掠めては消えた。提灯に照らされて、刀の柄がキラリと光る。
しかし、真備はただただひたすら歩き続けた。皆の笑顔が弾ける中を、真備だけが一人神妙な面持ちで通り過ぎていく。市の賑わいが消えても、家の数がまばらになっても、真備はずんずん歩き続けた。
華やかな都の外れ。
あの草木が香る、懐かしき高楼に向かって。
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