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第三章『野馬台詩』
野馬台詩 7
しおりを挟むその話は本当なのか、まるで信じ難い。
いや、しかし······仲麻呂から聞かされた話が真実だと証明できるのかと問われればそれも不可能だ。
でも、李林甫の話が本当ならあの赤鬼は一体何者になる。今まで自分は誰と話し、誰と過ごしていたことになる。
真備は定まらない思考に吐き気がした。冷たい汗が背中を伝う。もう自分がちゃんと地面に立っているのかどうかさえ分からなかった。何なのだ。結局彼は何を伝えたいのだ。
真備が心を悩ます横で、李林甫はそっと目頭を袖で抑えた。
「それ以来、あの高楼に阿倍仲麻呂を名乗る鬼が出るというのです。私達はそれを確かめるために、新羅から来た優秀な僧侶を高楼に送りました。しかしその日の真夜中、彼が血に染まる腕を抑えながら怒鳴り込みにきたのです。高楼で鬼に襲われた、と」
真備はあっと声を上げそうになった。文選を盗み聞いていた時に聞いた話と、李林甫の話が一致したからである。
「その鬼は一体何者なのですか?」
真備は衝撃の反動なのか否か、思わず口を開いていた。李林甫は視線を下げると、ゆっくりと息をついた。
「占い師に占わせてみたところ、その鬼こそがかねてから噂になっていた日本水軍の亡霊だと言うのです。どうやらその亡霊は高楼の傍で阿倍仲麻呂を殺し、彼の名と屍を借りることで自分を仲麻呂だと偽り、相手を油断させ、高楼の中に踏み入って人を喰らおうとしているらしいのです」
真備はその話を聞いて呆然としたように立ち尽くす。あれが仲麻呂を騙る正真正銘の人喰い鬼であったとでも言うのか。大体その占い師の腕は確かなのか。
あまりもの衝撃に上手く思考が定まらない。聞きたいことはたくさんあったが、真備はたったひとつだけ、疑問を口にすることにした。
「ならば······」
李林甫がそっと視線をあげる。
「ならば、何故私を高楼に閉じ込めた」
李林甫は再び俯いて、懺悔するかのように縮こまる。その後、小さな声でポツリと詫びた。
「鬼が白村江時の日本水軍の亡霊であるならば、当時と同じように唐と敵対関係にある日本人には手を差し伸べるのではないかと考えたからです。確かに我々が優秀な貴方様を妬んでいたのも事実。貴方様が鬼に喰われるのではないかという期待もございましたが、国の官僚として先決すべきなのは私利私欲ではなく亡霊のことでございましょう。我々が貴方様に無理難題を押し付ければ、貴方様は我々、つまり唐と敵対することになります。それならば、日本のために唐と戦い死んだ亡霊は唐に妬まれた同郷の貴方に同情し、姿を現すのではないかと思いまして。貴方様を囮に使ったというのは、そういうことでございます」
「なるほどな。それは確かに賢い考えだ。しかし、ではどうしてその亡霊は仲麻呂を殺した。彼も俺と同じ日本人であろう。その亡霊が同郷の者に同情するような魂ならば仲麻呂を殺すことはないのではないか?」
いつの間にか真備は李林甫を責め、問い詰めるような口調になっていた。真備の気が高ぶっていたからという理由もあるが、それだけではない。やけに李林甫の腰が低くなっていたのだ。真備に敬意を示し、萎縮したように顔を強ばらせる今の李林甫は、唐の高級官僚とは到底思えないような物腰をしている。これまで真備を嘲笑っていた彼とは大違いだ。李林甫は、その質問についても目線を下げながら答えた。
「それは、彼が我々に協力するために高楼へ渡ったからでございましょう。彼が日本人だったとはいえ······いや、彼が日本人だったからこそ、唐を憎む亡霊にとって、仲麻呂殿が唐側に立ったことが癪に触ったのではないかと。さらに彼が、亡霊の主君であったであろう日本水軍将軍阿倍比羅夫の孫ならば尚更」
一理通っている。
真備は李林甫の言葉を思わず真実だと信じてしまいそうになった。それだけ彼の口調や表情が真剣だったのである。仲麻呂······だったのかは定かでないが、今まであの赤鬼から聞いた話と照らし合わせるととても信じ難い話ではある。しかし仲麻呂の出自や新羅の僧の件など、真備が今まで耳にした真実と一致する点も多い。さらに李林甫があまりにも嘆くので、その時の真備には彼が嘘をついているとは到底思えなかった。
真備が衝撃から放心したかのように突っ立っていると、李林甫は顔を勢いよくあげて涙ながらに真備を見つめた。
「どうかお気をつけ下さいませ。これは我々からの警告でございます。貴方様と出会ってから、奴は何も食べておりません。鬼とはいえそろそろ空腹の限界だろうと占い師は言っておりました。あの物の怪に喰われる前にお逃げください。もう、あの高楼に閉じ込めるようなことはしませんゆえ、どうか、どうかお逃げください」
真剣な表情で頭を下げた李林甫に見送られ、真備はふらふらと足元のおぼつかない様子で宮殿を後にした。思えば、真備が食べ物を進めた時にあの赤鬼はそれを拒んだ。
それは彼が人肉を好む鬼であったからではないのだろうか。
いや、それだけではない。真備が今まで感じていた彼への疑問がこの時一気に胸に湧き上がってきた。
なぜ彼は突然自分の元から遠ざかり始めたのだ。
なぜその理由を曖昧な言葉で濁して話そうとしなかったのだ。
そして、なぜ李林甫との出会いや高楼に閉じ込められた時の経緯を教えてくれなかったのだろう。
真備は信じたくなかった。彼が阿倍仲麻呂などではない、ただの人喰い鬼であるなど考えたくもなかった。しかし、それに反して頭は次々と疑惑を並べ立てる。真備はそれを振り払うかのように走った。彼がいるであろう宮殿の裏側へ。
きっと彼は阿倍仲麻呂だ。
人喰い鬼などではない、正真正銘の阿倍仲麻呂だ。
そう自分に言い聞かせ続けた。広い宮殿の裏にまわるにはここから相当の距離がある。その間、ずっとずっとそう唱え続けた。そうしていると、まるでそれが紛れもない真実であるかのように思えてきた。李林甫の言葉など、真っ赤な嘘にしか見えなくなった。
これでいい。これでいいんだ。
真備はそう言って自らの心を落ち着かせた。
そもそもあの時、仲麻呂が「もし自分が人喰い鬼だったら?」と冗談めかしに聞いてきた時、自分はこう言ったではないか。「お前になら喰われてもいい」と。
それだけ彼を信じていたのではなかったのか。
彼は親友だ。紛れもない親友だ。
李林甫の言葉一つで彼を化け物に仕立て上げるなど、親友としてあるまじき行為ではないのか。
真備はもやもやとした気持ちを残しながらも、夕方に仲麻呂と別れた結界の切れ目付近まで辿り着いた。しかし裏道は明かりに乏しく、さらに月も出ていないので暗くて周りがよく見えない。
人がいるかさえ分かなかった。
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