吉備大臣入唐物語

あめ

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第三章『野馬台詩』

野馬台詩 5

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 思いがけぬ難題に顔色を変えてまごついている真備を、李林甫は愉快そうに眺めていた。いくら優秀な遣唐使とはいえ、あのような煩雑な文章を読めるはずがない。
 しかし、念には念を······。
 李林甫は真備のいる方向を見つめたまま、宝志ほうしという僧を呼び寄せた。彼はなかなか現金な男であり、李林甫が金をちらつかせたところ直ぐに協力してくれた。李林甫は少し顔を傾けると、周りに聞こえないほどの声で囁く。

「どうだ、結界は上手くいったか?」

 その問いに、宝志は穏やかな微笑みで答えた。

「もちろんですとも。彼に加担する鬼は足止め致しました」

 李林甫は満足そうに頷くと、続けて情報の確認にかかる。

「して、その鬼というのは朝衡ちょうこうで間違いないのだな?」
「ええ。私は朝廷の官人の方々には疎いのですが、阿倍仲麻呂という男と朝衡という男が同一人物なのであればきっと······占いでは阿倍仲麻呂と出ました」
「そうか、それは朝衡で間違いない。大儀であった。まあ念の為そろそろあの術をかけてくれ」

 李林甫は何やら頼み事をすると、宝志をさがらせて笑みを落とした。

 李林甫の視線の先······彼らのやり取りなど露知らず、真備は焦りにあせっていた。もう頭も全く動かない。もはや藁にでも縋りたい気分だ。しかしここには藁どころか塵一つ落ちていない。鏡のように磨かれた、床や天井や装飾一式。その煌びやかさが鬱陶しい。

 ──ダメだ、埒が明かない。

 真備は頭の中を一掃することにした。もうごちゃごちゃと悩んでいても仕方が無い。そう思い一度冷静になろうとした真備であったが、さらなる悲劇が彼を襲った。
 突然目が霞み始め、視界が暗くなったのだ。また変な術をかけられたのかもしれない。そうは思ったが、もはや抗う術もない。これで精神的にも肉体的にも暗闇に突き落とされた。これでは文字さえ読めないではないか。

 この状況に、真備は何故かひどく寂しくなった。たった一人、月明かりさえ届かない暗い海の底に沈められた気分だ。もう自信や熱意など残っていない。どうにか対策を考えようにも、思考は暗く暗く沈んでゆくばかり。そもそも、自力でどうにかするなど無理なのだ。
 真備は俯くと、心の中で呟いて顔をゆがめる。思えばずっとそうだったではないか。文選の件だって、囲碁の件だって、上手く抜け道を見つけたのは真備であったが、アイデアだけあっても仲麻呂の飛行の術や碁石を消す術がなければ何も出来なかった。人の力ではどうにも出来ないのだ。神仏や妖でもなければこんなもの──。

 ため息が漏れそうになって、やけくそのように心の中で言葉を吐く。しかし、その呟きが転機となった。何気なく吐いた言葉が、一つの糸のようにある事実を導き出したのだ。
 そうだ、自分にはまだ縋れるものがあったではないか。しかし、これは真備にとっての最終手段であった。上手くいかなければもう諦めようと思うほどの······。

 真備はふっと息を吐くと、懐かしい平城ならの三笠山を思い浮かべてみた。
 それはまだ唐に来る前のこと。遣唐使の無事を祈る儀式が三笠山の麓で執り行われたあの日、自分達は誰の御加護を賜ったのか。当時の女帝である阿閉大王あへのおおきみはもちろん、もう一人······いや、人ではない。もう何柱もの方々の御加護を賜ったではないか。
 日ノ本に御座す八百万の神々。そして、何人にも救いの手を差し伸べる仏の御加護である。それに気がついて、真備はすっと背筋を伸ばした。日本は神々と仏、双方を崇め双方に護られし国。彼らならきっと力になって下さるはず。
 何故だかは分からないが、そんな自信がふつふつと湧いてきた。普段の真備なら神仏になど縋らぬのだろうが、なぜだか今は心惹かれる。

 意識を向けるは東。
 日のいずるの国がある方向。

 真備はゆっくりと息を吸う。心が穏やかでなければ真剣に物事に挑むなど無理だ。そう思い、真備はそっと言葉を紡ぐ。
 自分の持てる、最後の望みをかけて。自分が生まれた、懐かしいあの国の神々と仏を信じて。

「神は住吉大明神、仏は長谷寺観音なり。どうか我を救い給へ」

 広い広い部屋の中央。ポツリと落とされた呟きに気づいた者は一人もいなかった。
 しかし、確かに唱えたその言葉。東に御座す神仏の耳にはしっかりと届いたのであろう。
 言葉を唱えた瞬間、急に暗くなっていた視界が晴れ、紙上の文字が冴え冴えと目に飛び込んできた。どうやら目にかかった術が解けたらしい。本当に御加護があったのかと驚き喜んだ真備であったが、文字がはっきり見えたところであの難解な文字を解読は出来ない。
 そうやって一喜一憂していたものの、神仏の力はそれだけにとどまらなかった。

 難解な文字に頭を悩ませたその時、目の前を何か小さな影が横切ったのが見えた。突然の出来事にびっくりするのもつかの間、紙の上に落ちた影の正体に気がついてさらに目を見開く。
 蜘蛛であった。誰も存在に気づけないほどに、小さな小さな一匹の蜘蛛。それは銀色の糸を引いて天井から紙の中央へと舞い降りたかと思うと、真備の驚きなどそっちのけで紙上を右往左往し始めた。
 真備は始め、それが何を意味するのか分からなかった。しかし奇妙に思いながらじっと眺めているうちに、あることに気がついてあっと声をあげそうになる。
 蜘蛛は紙に並んだ文字の上を何度も何度も同じ道順で歩き続けていたのだ。紙の中央にある「東」という文字。そこで数秒間止まったのちに、くねくねと規則的な線を描きながら歩き続け、「東」の横の「空」に来たところでまた数秒間止まる。
 蜘蛛はそれを二度繰り返した。そして三度目の一歩が踏み出されたのを見て、真備は蜘蛛の軌跡を追ってみる。
 するとどうだろう。蜘蛛の歩みに合わせて文字を辿れば、何と一つの文が成り立つではないか。

「東海、姫氏の国、百世、天工に代る······」

 その瞬間、大広間はどよめきに包まれた。真備が突然文を読み上げ始めたからである。真備とて、始めは思わず口にしただけであったが、次第にその声は自信に満ち溢れていった。読めば読むほど、文が成立が明確になったためである。それが正しい答えなのかは知らずとも、内容が成り立っているため、高みの見物をしていた野次馬たちにも真備が正しく解読した事が伝わったのだろう。皆が皆、互いに顔を合わせて信じられないといった瞳を交わす。

 そんな中、大きく顔をゆがめたのはやはり李林甫であった。まさか解読するとは思っていなかったのだろう。その横で皇帝陛下までもが驚きを隠せないでいる。

「······星流れて野外に飛び、鐘鼓、国中に喧し、青丘と赤土と、茫々として遂に空と成らん」

 静まり返った大広間に、真備の声が凛とした響きを残して消えた。全二十二句に渡る難解な漢文を、一度も間違えることなく読み切ったのだ。真備は全てを読み終え、ふと意識を取り戻したかのように再び紙に目を向ける。すると、いつの間にかあの蜘蛛の姿は跡形もなく消えていた。ただ緊張の糸が切れたかのように、軽くなった肩の感覚だけが身体にじんじんとこだまする。
 真備が不思議な感覚に眉を寄せた次の瞬間、突然四方八方から歓声が湧き上がった。野次馬たちにとっては、もはや真備が何者であるかなど関係なかったのだ。ただただ、真備はとてつもないことをやり遂げたエンターテイナーだという興奮が、彼らの心身を震わせているらしい。真備はそんな彼らの声にどこか恥ずかしさを覚えて萎縮する。しかし、その心は晴れやかであった。

 そんな真備を見て、李林甫は苦虫を噛み潰したような顔で何やら考え込んでいた。しかししばらくして、ふっと口の端を持ち上げ笑ったかと思うと、皇帝に耳打ちをして、大広間から姿を消した。





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