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第三章『野馬台詩』
野馬台詩 3
しおりを挟むざわざわと揺れる木々の音も動物の声も聞こえない。代わりのように聞こえる人々のざわめきが、まるで懐かしいもののように思える。ここは都外れの高楼とは違うのだと、改めて思い知られた気分だ。
試練当日の黄昏時。真備は儒学者達に言われた通り、宮殿に向かって長安の街を歩いていた。街を行き交う人に見えないよう術で姿を隠してはいるが、真備の隣には仲麻呂がいる。真備だけに見えるその赤鬼は、特に言葉を発することも無く賑わう街を眺めていた。
二人は儒学者達が用意した試練を受けるために高楼を出ているのだが、真備達の後にも先にも見張りのような人影は見当たらない。真備を呼びに高楼を訪ねてきた使者はいたものの、真備が仕度をしている間にさっさと宮殿に帰ってしまったらしい。真備もその行為に疑問を感じていたのだが、しばらく考え込んだのち納得したように顔を上げるとどこか呆れたような表情で高楼を後にした。その様子を見ていながら何も問うてこないところを見ると、仲麻呂も彼らの行為の真意を理解しているのだろう。
彼らの目的はあくまで真備に恥をかかせ、朝廷に近づかせないことなのだ。つまり、真備が道中で逃げ出そうとも彼らには何の痛手もない。というのも、「あの倭人は、皇帝陛下の頼みも聞かずにそそくさと逃げ出した臆病者だ」などと負のレッテルを貼ってしまいさえすれば、真備の信用などあっという間に底へ落ちるからである。
となると、逆に真備が律儀に試験を受けて良い成績を残すよりはさっさと逃げ出してくれた方が都合が良い。だから彼らは見張りの使者を付けなかったのだろう。
そんなこんなで街中を歩いていた二人であったが、ふと仲麻呂が真備の名を呼んだ。その声に、真備は一瞥をしたが返事はしなかった。今は姿も声も真備以外の人間には分からないため、下手に動くことが出来なかったのだ。言葉を返したりあからさまに顔を向けたりしては、挙動不審の怪しいヤツだと思われてしまう。仲麻呂もそれを分かっているらしく、真備がチラりと視線を投げてきたのを確認すると再びその口を開いた。
「人が多いと会話にも不便ですし、出来れば人のいない裏道をまわっていきたいのですが······」
確かにその通りだと思った。いくら華やかな長安の都とはいえ、一歩賑わいの外に出てしまえば人通りがほとんどない。どちらかと言えば静かな場所の方が好みである真備は、先ほどの人混みの中よりも意気揚々と歩いているように見える。
しかし、彼の後に従っていた仲麻呂はその背中を見ながら憂かない顔をしていた。彼はつい先日、王維に言われたあの言葉を思い出していたのである。
「絶対に、絶対に今回を逃しちゃダメなんだよ。もし、今回を逃せば、真備さんはもうこの世にいないかもしれないからね」
あの時、彼はこう続けた。
「もし、また結果を残したら、たぶんあいつらは黙っちゃいないよ。今回は相当力を入れてきたみたいだからね。準備に十日以上もかけたんだもの。これ以上は難しくできないってところまで来てるんだろうさ。だから、もし今度も彼が勝つようなことがあれば流石にまずいと思って実力行使に出るかもしれない。評判で殺せないのなら実際に殺してしまおう、そう考える可能性は高いと思うよ。なんて言ったってあの李林甫だもの。いつでも使えるよう、腹の中の剣は磨いてあるはずさ」
──だから、彼と一緒に帰りたいのなら、今回の機会を逃さず人間に戻らなくちゃいけない。
王維は、仲麻呂の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。
「主上に大切にされている君が真備さんへの誤解を解いてあげなくちゃ。主上御本人に、この件の真相を奏上することでね」
王維の真剣な瞳を思い出して、仲麻呂は苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。目の前で生き生きと歩いている友人が死ぬかもしれないだなんて信じられなかった。しかし仲麻呂も唐の朝廷に仕えた身。今政権を縦にしている李林甫のタチの悪さはよく知っていた。だからこそ、王維の言葉の現実味が増してきて胸が苦しくなるのだった。
そんなことを考えている間にも、目的地が近づいてきていた。裏道を通っているのでまだまだ人の気配はしないが、直に大通りに出て人の波にのまれることだろう。そう思って、とりあえず気持ちを落ち着かせようと深く息をした仲麻呂であったが、次の瞬間喉を詰まらせた。
「っ!」
仲麻呂は急に目を開くと、前を行く真備の袖をぱっと掴んだ。突然袖をひかれた真備はバランスを崩しかけたが、その原因が仲麻呂であることに気がつくと直ぐに振り返る。そこには先程までの赤鬼はおらず、いつの間にか人間の姿をしていた仲麻呂がいた。どうやら、日も沈んで月が昇ってきたために、知らぬ間に人間の姿になっていたらしい。彼は真備の袖をぎゅっと掴んだまま俯いているので、真備はただ事ではなさそうだと思い声をかけてみた。
「どうした?」
真備はそう問いかけたが、直ぐには返事が返ってこなかった。黒髪に遮られて顔はよく見えないが、彼はどこか辛そうに肩で息をしている。形の良い眉はキュッと寄せられ、何かに堪えているかのような様子だ。しかししばらくすると、彼は苦しげながらもか細い声で口を開いた。
「あのっ、あと三歩······三歩だけ後ろに戻って頂けませんか······」
荒く霞んだ息と共に絞り出された声を聞き、真備は素直に従った。彼の言うとおり後ろに下がると、息を落ち着けるかのようにしばらく肩で息をする。その額に汗が滲んでるのを見て、真備は思わず彼の背中に手を当てた。彼が息をする度に辛そうな音が響く。
仲麻呂は真備が心配してくれていることに気がつくと、弱々しい顔つきで微笑んだ。
「ごめんなさい、もう大丈夫です······」
「大丈夫ってお前······どこか痛いのか?」
「いえ、ちょっと衝撃をくらっただけで······」
「衝撃?」
首を傾げた真備に、仲麻呂はやっと落ち着いてきた声で言う。
「結界です。何か呪術的な結界が張ってあります。恐らく彼らも気がついたのでしょう。貴方の後ろに、人間ではない何かの力が働いていると······」
「バレたのか!? お前のことが」
仲麻呂は「恐らく」と頷く。その人外が誰なのかに気がついているかどうかは分からないが、少なくとも何者かの手引きがあることには気がついたのでしょう、と。
それを聞いて真備は眉を寄せた。とても大変なことに気がついてしまったからだ。
彼らは宮殿の周りに結界を張った。
何故そんなことをしたのか。もちろん、真備を手助けしている霊的な存在に気がついたからである。つまり······。
「お前はここから先へは来れないのか?」
仲麻呂は心苦しそうに頷く。
彼らは真備の力を試そうとしている。もう下手な術は使わせないぞと、そんな言葉がきこえてくるようだ。二人とも、今回に関しては最初から仲麻呂の術に頼ろうと決めていた。そうでもしないと勝てないレベルまで来てしまっていたのだ。
しかし、仲麻呂の援助がなくなるということは、真備にとっても仲麻呂にとっても大きな不利になる。日本に帰らなくてはいけない手前、負けることなど言語道断であったのだ。だからこそ、真備も仲麻呂も術を使って勝つことを致し方ないとしていた。とにかく勝てばいい。勝てば胸を張って日本に帰れる。そう考えていた。
しかし術を使うことが禁じられた今、どうやって試練を乗り越えようか。今までとは比べ物にならないほどに難しい試練だということはほぼ確実である。
「どう、しよう」
人気のない都の外れに、絶望に満ち溢れた真備の声が落ちた。今の二人に残された希望は、正真正銘、真備一人の力を信じること以外には何もなかった。
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