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第三章『野馬台詩』
野馬台詩 2
しおりを挟む「真備さん。少しお時間を頂いてもよろしいですか?」
突然の言葉に、真備は驚いたように仲麻呂を見つめた。あの囲碁の対局以来、真備は彼と言葉を交わすことがほとんど無くなっていた。というのも、仲麻呂が食事を運んでくるやいなや直ぐに姿を消してしまうのだ。
しかし、今日は彼の方から真備に話しかけてきた。それは真備にとってどこか不思議なことであり、それと同時に嬉しいことでもあった。
「もちろん、いいぞ」
「ありがとうございます」
真備が頷くのを見ると、仲麻呂は正面に腰を下ろす。初めて会った時から変わらない、もうすっかり見慣れた美しい所作であった。
「また彼らが何やら画策しているとの話を聞いたので、それを伝えに来ました」
そ真備は「なるほど」と思う。しかしそれと同時に少しだけ肩を落としたことには、目の前の鬼は気がついていないらしい。
(業務連絡か)
正直、仲麻呂が話しかけてくれたことが嬉しかった。もう十日以上もまともに話していない。もしや嫌われるようなことをしたかとも考えたが、それでは何故食事を運んできてくれるのかが説明出来なくなる。真備はずっとモヤモヤしていたのだ。何故彼は自分を避け始めたのか、と。
だから彼が話しかけてくれた時少々期待した。また何気ない会話を出来るのではないかと。だからこそ、あの儒学者達の話が出てきた時にどこか気落ちしてしまったのだった。
「今度は何を企んでるんだ? あいつらは」
「それが、今度はまた書物を読ませようとしているらしいのです」
「書物? 文選より難しいのか?」
不安そうに眉を寄せた真備に、仲麻呂はそっと頷いた。あの文選を超える難読の書となると相当なものに違いない。彼らが十日以上動きを見せなかったのも引っかかる所である。これだけ期間が空いたということは、かなり策を練りこんだ可能性も出てくるのだ。
「その書物が何なのかは分かっているのか?」
真備がそう尋ねるも、仲麻呂は申し訳なさそうに頭《かぶり》を振った。どうやら今回は彼にも分からないらしい。
「しかし、彼らがここへ来るのは明後日のようです。それだけは分かりました」
「明後日か。時間が無いな」
「ええ。今回は彼らも迂闊に話を漏らさないようにしているようで、情報が全く······それに······」
「それに?」
突然仲麻呂が言葉を切ったので、真備は焦らされたように聞き返した。彼は真備から目を逸らすとどこか複雑な表情を浮かべる。
「何か不味いことでも?」
「いえ、真備さんに不都合かどうかは分かりませんが······」
「じゃあお前にとって良くないことか? 」
「良くない、ですか。確かに良くないといえば良くないですけど、でも······」
そこで仲麻呂は目を伏せた。落窪んだ暗い瞳で、何かを見定めるかのように静かに床を見つめる。そしてじっくりと考え込んだ結果、その答えを見つけられぬまま、まるで他人事にポツリと呟く。
「どうなんでしょうね」
夜風のような呟きは、いとも簡単に真備の耳を通り抜ける。あれだけじっくり考えていたのに、やけにあっさりとした声音だ。真備はそれを疑問に思うどころか、質素な答えにむしろに拍子抜けしてしまった。
「大事なことじゃないのか?」
「大事なことですよ。貴方にとっては特に」
確かめるように問いかけた真備に、仲麻呂はどこか薄っぺらな微笑みで言葉を返す。しかしそれは、興味が無いと言うよりはわざと心を留めないようにしているような、そんな淡白さだった。
「皇帝陛下がおわす中で行うのです。その読解の試験を」
「へ?」
平坦な声音のままで発せられた言葉に真備は思わず間抜けな声をあげた。
あまりにも突然すぎた。その名前が出てくるには。
「皇帝陛下?」
「そうです」
確認するように眉を寄せると、仲麻呂は相変わらずさっぱりとした口調で言う。しかし、その瞳の揺らぎは隠せていないようであった。
なるほど。皇帝を尊敬する仲麻呂は、彼を騙すようなマネをしたくないのか。
真備はやっとサラリとした態度の理由が分かり、仲麻呂にバレぬよう心の中で息をついた。
仲麻呂が現皇帝である李隆基(玄宗)に寵愛されており、仲麻呂も彼のことを尊敬しているという事実は知っている。しかしあの切れ者揃いで悪賢い儒学者達に勝つとなると、少なからず騙すような手口を使わなければならない。つまりは儒学者達の後ろにいる玄宗をも騙すこととなるのだ。それが仲麻呂にとって苦しいのだろう。
真備はおもむろに下を向いていた赤鬼の顔をのぞき込む。
「辛いなら無理に俺を手伝えとは言わないぞ」
その言葉に仲麻呂はゆっくりと顔を上げた。まるで不意をつかれたかのような赤黒い顔を、揺らめく蝋燭の炎が照らす。不安定な光と共に、高楼の壁に映る二人の影もゆらゆらと揺れた。
しばらくの間、仲麻呂は陰影が際立つ彫りの深い面で真備のことを見つめ続けた。その落窪んだ化け物の目は、人間のそれと違って心を読み取るのが難しい。しかし、真備はそれを探ろうとはしていなかった。彼がどんな答えを出そうとも、彼の好きなようなさせたいと、彼の心に従おうと、そう決めていたからだ。
高楼に吹き込む隙間風に煽られて、蝋燭の炎がより一層揺れる。それと同時に、蝋燭の芯が深く焼けたのか、ジリっといった焦げ付いたような音がした。
その音が合図になったかのように仲麻呂がそっと視線を下げる。しかしその直後、もう一度視線を上げた彼の顔からは先程までの迷いが消えていた。その代わり、浮かんでいるのは鬼の顔に似合わない温かく柔らかい微笑みだけだった。
「いえ、ぜひとも貴方の傍に居させてください」
真備は軽く息を飲んだ。仲麻呂はそんな真備を見つめながら目を細める。
「貴方の力になりたいのです。貴方はこれからの日本に必要なお方。そんな貴方をお守りすることが、彼の国への精一杯の償いですから。それに······」
仲麻呂は一度言葉を区切ると、どことなく嬉しそうな声音で言う。
「私にとって、貴方は他と無い親友なのです。心から信頼できる大切な友なのです」
そう言って彼は相好を崩した。その大きな牙を持ち上げて、どこか照れくさそうに笑う。
ああ良かった。
真備は声にならない安堵を心の中で噛み締めた。彼も自分と同じことを思っていてくれたのだ。彼は決して、自分のことが嫌になって避けていたのではなかったのだ。
それがとても嬉しかった。その喜びが真備の心に溢れて、同時に涙まで出そうになる。
親友という言葉がここまで温かかったとは初めて知った。それと同時に、真備はその温もりを教えてくれた彼に深く感謝した。
虫の囁く夜風の中に、赤鬼の背が消えた。やはり今日も彼はどこかへと帰ってしまったが、それでも今までのような不安はなかった。
彼が友で居てくれている。それを知れただけで嬉しかったのだ。
真備は高楼の扉を閉めると、ほっと息をついて寝床につく。柔らかな光は雲の中。その日は月の隠れた闇夜であった。冷たい夜風も宙に舞う。しかしそんな夜でも、真備の心は温かかった。
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