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第三章『野馬台詩』
野馬台詩 1
しおりを挟む「相変わらず凄い心意気だねぇ君。まさに嘗胆って感じだよ」
王維は感心したように言うと、二つ並んだ盃に清く澄んだ白酒を注いだ。差し込む柔らかい光の先にあるのは、すっかり細くなってしまった白い月。気がつけば、あの囲碁の勝負からもう既に十日以上が経っていた。
王維は酒を注ぎ終わると、徐ろに盃を持って隣の仲麻呂を見つめる。
「どう? もうすっかり慣れたんじゃないこのお酒」
目を糸のように細めて微笑む王維に対し、仲麻呂は苦笑すると「ええ、おかげさまで」と頷いた。
実はあれからというもの、彼は自分を苦しめる原因となったあの白酒を避けるどころか、むしろ決まってそれをねだるようになった。「あの時の甘い自分を諌めたい、もうあの失敗を忘れたくはないから」と自ら望んでそうしたのだ。まさに臥薪嘗胆と言えるような行いである。
彼は今日も王維のもとを訪ねていた。いや、王維に呼ばれたと言った方が正しいか。何やら話したいことがあると言うので、仲麻呂は王維の自宅に赴いたのだった。
「もう真備さんの所にはあんまり行ってないみたいだね」
仲麻呂は「ええ」と頷く。
「食事を運ぶ時以外は全く」
「まぁ月がこんなに細くなっちゃったからねぇ。それが正しいと思うよ」
空になった盃に再び酒を注ぐ王維に対し、仲麻呂は少々不安そうな顔をする。
「王維さんはいいんですか? こんな時期に私をここに招いてしまって」
「あはは、大丈夫さ。もしもの時は友達だなんて気にせず全速力で逃げ出すからね。その方がいいでしょ? 君も」
その言葉に苦笑すると、仲麻呂は「もちろんそうしてください」と言葉を返す。それを聞いた王維もつられたように微笑んだ。
「でも真備さんは不思議がってるだろうね、急に君の足が遠のいたから」
「恐らく······でも彼ならきっと何も言わないでしょうね。私が口を開くまでは」
仲麻呂はふっと空を見上げる。しばらく無言で月を眺めたあと、どこか懐かしそうに小さな微笑みを零した。
「ねぇ王維さん。実は私、昔日本で真備さんに会ったことがある気がするんですよ」
「え、そうなの?」
「ええ、ついこの間思い出したんです」
そこで仲麻呂はそっと目を閉じた。
「まだ幼い頃に粟田真人という先生のもとで学問を教わっていたのですが、そこに真備さんもいた気がするんです。確かな確証はないのですが、彼の笑顔を真人先生の隣で見たことがある気がして······」
そう言って形の良い眉を顰めた仲麻呂の横顔を見つめると、王維はふふっと笑みをこぼした。
「そうなんじゃない? 君がそう思うのなら。君の記憶力は人一倍だもの」
「ふふ、そうでしょうか。でも、平城でも彼に会えていたのなら嬉しいですねぇ」
仲麻呂は盃に口をつける。その清らかな香りを飲み込むと、どこか温かい瞳で笑みを漏らした。
「真備さんはとても真面目なお方です。人一倍の頑張り屋で強い心を持っている。コツコツと努力を重ねて、自分の欲は後回し。そうやってここまで上り詰めてきた方なのだと思います。でも、彼はただ真面目なだけではないのです」
王維は仲麻呂を一瞥した。彼は相変わらず優しい表情で窓の外を見上げている。しかし、その笑みには先程まではなかった寂しげな色が混じっていた。
「真備さんは真面目でいながら頭が柔らかい。彼には、真面目な人に多い頑固さがないのです。古いものばかりにこだわらず、新しいことに挑戦しようとする。でも、良い伝統はしっかりと受け継ぐ。彼にはその均衡を保つ力があるのです。そして、それが今の日本にとって最も大切な力だと私は思っています」
やけに力強い声音で語られた最後の言葉に、王維は思わず仲麻呂の方へ顔を向けた。彼はどこか遠い空を見つめているようで、その瞳にはしっかりとした輝きを秘めている。
それは今までに彼が見せてきた、故郷を懐かしむような顔ではない。故郷を思う眼差しはそのままに、ただ過去ではなく未来を見つめているような。
そんな彼の初めて見る表情に、王維は思わず圧倒された。彼は二つの国、二人の君主に仕える人間なのだ。改めてそう思った。それは両国のとっての希望となるのだろうか。それとも······。
王維が仲麻呂を見つめていると、彼はどちらともつかぬ哀楽交えた顔をふっと崩した。王維の方を向いていつも通りの微笑みを浮かべる。
「私には使命があります。何としてでもあのお方を、真備さんを日本に返さねばなりません。私が鬼になったのも もしやそのためではないかと、そう思い始めたんです。彼は今の日本に必要なお方。彼なくしてどうして日本は生まれ変われましょう。私は彼に期待したいのです。彼の力を信じたいのです。そしてあわよくば、彼と共に日本をより良い国にしたい。そして、そのためには······」
そこで一度言葉を切って目を細めた。長いまつ毛が柔らかな月光を絡める。そんな彼の微笑みは、唐の国にはない、この国にはない、独特の温かさを秘めていた。
その優しさで彼は語った。唐の人間ではなく、故郷を愛する一人の大和人として。
「そのためには勝たねばなりません。勝って真備さんと共に日本に帰らなければなりません。そして、私達は敗戦国という肩書きから抜け出さねばならぬのです。もう野蛮な倭人などと言われぬように。唐には唐の良さがあるのと同じく、大和には大和の良さがあるのだと、唐の方々に認めて貰えるように」
仲麻呂は寂しげに眉をひそめた。しかし、その時の王維には分からなかった。何故未来を語ったはずの彼がそんなに寂しそうな顔をするのか。
彼は決して未来を悲観している訳では無い。それなのに、どうして悲しそうにするのだろう。それが王維の心に引っかかった。彼は一体何を思ってそんな顔をしたのだろうか、と。
しばらく、月明かりが照らすテーブルの上を眺めていた。王維はその間ずっと理由を考えていた。しかし、いくら考えても答えは見つからなかった。
ふっと息を吐くと、王維は一度目を閉じて気持ちを切り替える。彼は元々よく分からない所も多かった男だ。そう思うことにして、もやもやとした気持ちを吐息と共に押し出した。
王維はいつも通りのにこやかな笑みで口を開く。普段と同じ明るく穏やかな口調。うん、これでいい。
「そういや儲光羲から聞いた? 人間に戻る方法」
王維が言うと、仲麻呂はパッと顔を上げた。そしてはにかむように首を横に振る。
「それがその話を始めようとしたところで、来客がありましてね。結局肝心なところを聞けずじまいだったんです」
「なんだ! じゃあ僕から教えようか。もう時間もないんだよ」
「時間?」
「そうそう!」
仲麻呂が首を捻ると、王維はぐっと身体を寄せた。そしてニコッと笑うと、細く長い指で窓の外に浮かぶ月を指さす。
「あれが全ての鍵だったんだよ、やっぱりね」
彼は順を追ってその方法を語り始めた。それを聞いて仲麻呂は目を丸くするも、聞き漏らすまいと必死に言葉を拾った。
全てを語り終えると、王維は少しだけ困ったように眉を寄せてみせる。
「っとまあ、結局最後は運次第ってことで危険はあるよ、雲行きによってはね。でも、死なない限りは一応毎月挑戦出来る。ただし······」
「ただし?」
そこで王維は言葉を区切ると、強調するように仲麻呂に顔を近づけた。そして不思議そうな顔をする仲麻呂をじっと見つめると、細くも美しい瞳をさらに細めて念を押すように声を低めた。
「真備さんと一緒に日本に帰りたいのなら、今回を絶対に逃しちゃダメだよ。またひと月後まで待つとなると、真備さんと共には帰れなくなる、か。それかもしくは······」
王維は突然険しい顔をした。そんな表情に思わず仲麻呂も息を呑む。けれども、しばらくの間彼は口を噤んだままでいた。それを言えば仲麻呂を不安にさせてしまうと知っていたからだ。どこか言いづらそうに、そこまで言おうか言うまいかと真剣な表情で悩んでいる。
しかし、しばらくして彼は口を開いた。仲麻呂を動揺させることを承知の上で覚悟を決めたような、そんな真っ直ぐな瞳だった。仲麻呂はそれを聞いて自分の耳を疑った。
彼にとってその言葉が一体どんなに恐ろしかったことか。彼はそれを聞いた瞬間、血の気が引いたように顔を強ばらせた。そんなこと絶対にあってはならないと拳を強く握りしめて。
なぜなら、王維は、彼はこう言ったのだ。この青い月夜に溶け込むような、低く、静かなその声で。この世の全てを包み込むような、穏やかで、優しいその声で。
「絶対に、絶対に今回を逃しちゃダメなんだよ。もし今回を逃せば、真備さんはもうこの世にいないかもしれないからね」
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