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第二・五章『口に蜜あり腹に剣あり』
口に蜜あり腹に剣あり 2
しおりを挟む──月が綺麗だ。
そう心の中で呟くと、仲麻呂は欠け始めた月から視線を移した。その先には立派で豪勢な門がある。まさに世に輝く貴族の家、といった雰囲気だ。
二ヶ月ほど前の夜、仲麻呂は李林甫の屋敷に招かれていた。本人直々の呼び出しである。しかし正直晴れやかな気分ではなかった。
仲麻呂の当時の位は従七品上。皇帝陛下の移動に付き従ったり、彼が行き過ぎた政策をした際に諌めるといった役割の左補闕という役職を得ていた。つまり、いつも皇帝陛下の側にいる側近ではあったが、位的にはまだ中流だったのだ。
対する李林甫は、近々尚書令という役職を任されるのではないかと噂されていた。その位は正二品。上から三番目の役職である。
そんな身分の高い人から自宅に呼び出された仲麻呂としては、安らかな気分になどなれるはずもない。しかしそれを断ることなどできるわけもなく、一体何事だろうかと不安になりながら彼の屋敷に上がった。それが今状況である。
促されるまま言われた通りの客間に向かえば、しばらくして李林甫が姿を現した。権力者とはいえ、にこやかに客人に対応する彼にはどこか柔和な雰囲気がある。衣服やオーラはとても煌びやかなのだが、その中にこちらに突き刺さってくるような強い刺激はない。しかし······。
──彼の笑顔や上手い口に惑わされちゃダメだからね。彼はそれで何人もの人を蹴落としてきたんだから。
ここに来る前、王維から言われた言葉。それは忠告のような響きを持っていた。彼の穏やかで芯のある声音が心に蘇り、キュッと固く口を結ぶ。
本当に李林甫はそんな男なのであろうか。仲麻呂が額に汗を滲ませていると、当の本人は柔和な笑みを浮かべてきた。今のところは敵対する雰囲気はない。
「突然呼び出してすまないね。まぁ肩を解してくだされ。確かに私のような貴族生まれの官人は貴方がたに良い印象を持たれていないようだが、私としては尊敬している所もあるのですよ。優れたお人ばかりだと聞いているのでね」
仲麻呂に座るよう促すと、彼も椅子に腰掛けながら「それに」と言葉を続ける。
「今回ここに呼んだのは、貴方と少し話をしてみたかっただけなのだよ。主上が目を止めたほどに優れた方だと聞いたもので」
彼はやんわりと目を細めた。
全く心が読めない。それが本心なのか、はたまたデタラメか。仲麻呂はそう思いながらも、「有難いお言葉、感謝致します」と述べて頭を下げた。対する李林甫は「いやいや、本当のことだよ」と笑う。
「貴方はいくつの時に唐に来たのだったかな?」
「十七の時でございます」
「なんと! ではまだこちらに来て十年ほどしか経っていないのではないか。それで主上の近侍とは······やはり凄いお方だ」
李林甫は驚いたように顔を明るくする。
十七と言ってもそれは数え年でのこと。今で考えれば十六歳。学年でいえば高校一年生といったところか。当時では、ちょうど成人になったばかりと言った頃合いであろう。
仲麻呂は朗らかに笑う李林甫の胸元を見つめる。李林甫ほど身分が高いと、まともに目を見ることさえ失礼にあたるのだ。その瞳を見て本心を探りたいと思っても、なかなか上手くはいかない。
腹の中が見えないまま他愛もない会話をしているうちに、使用人を介して酒が運ばれてきた。どうやら振舞ってくれるらしい。
「まぁとにかく飲んでくだされ。これは中々いい代物でね。私も好きなんだ」
「ありがとうございます」
李林甫がこちらを向いていない隙に顔をこっそりと盗み見る。やはり美人と謳われる友達の王維や美男子揃いの仲間の遣唐使達と比べると、美しいという印象はそこまで強くない。しかし、それでも十分好印象を与えるような容姿をしていた。切れ長ながらも温かみを含んだ目元。整った鼻に、端が少し持ち上がった唇。そんな顔かたちでにこやかに酒を勧めてくる彼はとても上品に見えた。
そして何より、初めて見た彼の瞳に陰りはない。やはりただ単に話をしたかっただけなのか。いや、しかし······。
疑いを拭い去ることも出来ず、仲麻呂はもやもやと事の成り行きを見ていた。李林甫と仲麻呂、どちらにも同じ瓶から酒が注がれた。盃に関しては何とも言えないが、少なくとも酒自体には毒がないようだ。
しかしどちらにせよ、高官の彼から勧められた酒を飲まぬ訳にもいかない。
仲麻呂は軽く息を吐くと、覚悟を決めて盃を見つめた。注がれた酒は清く澄み渡り、ゆらゆらと月明かりを揺らしている。ふわりと広がる高い香りが鼻をくすぐった。
「では、有難く頂きます」
「ええどうぞ」
にこりと笑う李林甫に見つめられながら、仲麻呂は盃に口をつけ潔く口に流し込んだ。もう毒があるならばどうとでもなれ。そんな思いだった。
「!」
仲麻呂は慌てたように酒を飲み込むと、驚きの表情で空になった盃を見つめる。そのまま口を閉じてしまったのを見かねたのか、李林甫が「お口に合わなかったかな?」と心配そうな顔をした。
ずっと黙っていた仲麻呂は、ハッとしたように視線を動かす。そして少し動揺したかのように唇を開いた。
「とても······強いですね、このお酒」
李林甫は目を細めて仲麻呂を見つめた。盃一杯しか飲んでいないはずだが、確かに彼の頬はほんのりと色づいている。それを見て、李林甫はそっと彼に問いかけた。その顔にどこか今までとは違う微笑みをたたえながら。
「おや、お酒は苦手でしたかな?」
「いえ······人並みには飲めると思っていましたが、祖国でこれほどのものは飲んだことがありませんゆえ」
「なんと、そうでしたか。しかし香りがいいでしょう? 白酒というのだがね」
「パイチュウ?」
「ええ、香り高いことで有名なお酒でしてな。さぁ、もう一杯」
李林甫は再び酒を勧めてきた。どうやら痺れなどが出ないところを見ると毒は盛られていないらしい。しかし、正直仲麻呂はこの酒を何杯も飲める気はしなかった。
この白酒というお酒は蒸留酒であり、アルコール度数は現在でも三十五度前後と少々高めだが、二十世紀頃まではなんと五十度以上が主流とされていた。これは現在のウィスキーよりも少し高いくらいの数値である。日本にはまだこのような蒸留酒はなかったため、仲麻呂はこれ程に強い酒を飲んだことがなかったのだ。
しかし、彼との身分差を考えれば勧められた酒を拒むことなどできなかった。さらに彼があまりにもにこにこ嬉しそうにしているので、拒もうにも気が引けてしまう。そうやって断ることが出来ずに数杯飲んだところで、仲麻呂はふわりとした小さな目眩を覚えた。
どこか頭も痛い。いつもより速い心臓の鼓動が耳元で跳ねた。白酒の高い香りが身体中を巡り、心地よいどころかむせ返るほどに胸を締め付ける。
(まずい、くらくらする)
仲麻呂は心地悪さに思わず盃をテーブルに置いた。その小さな音に、李林甫は仲麻呂を見つめる。
彼は片手を盃に添えたまま、もう一方の手を額に当てて項垂れていた。額には汗が滲み、白い肌は顔から首元まで紅潮している。そして形の良い眉は何かに耐えるかのようにキュッと強く寄せられていた。
明らかに軽く酔ったなどのレベルではない仲麻呂だったが、それを見た李林甫は全く動揺する素振りも見せない。それどころか、仲麻呂を冷静に見つめるとそっとその名を呼んだ。
しかし、どれだけ声をかけても彼の潤んだ瞳は何の反応も示さなかった。彼はただただ苦しそうに浅い吐息を返すばかり。
(ふふっ、やはり)
李林甫は心の中で呟くと、バレないようこっそりと笑みを浮かべた。今までのにこやかな笑みとは違う、心の底から込み上げたような意地の悪い笑み。
李林甫は仲麻呂の故郷である日本に白酒ほど強い酒がないのを知った上で酒を振舞った。ただでさえアルコール度数が高い酒だ。しかも当時は香りを楽しむためにストレートで飲むのが好まれていた。例え酒に弱いわけではなくとも、その刺激に慣れていない人間が数杯飲めばこうなることも予想出来よう。
そう、それが彼の狙いであった。
李林甫が勝利を確信して目を細めたその時、すっかり酒に呑まれていた仲麻呂の身体が遂にぐらりと傾いた。彼がそのまま力が抜けたように椅子の手すりに寄りかかると、衝撃で彼の冠がぽとりと床に落ちる。
「んん······」
仲麻呂が手すりにもたれかかったまま苦しそうに小さく呻いた。しかし李林甫は全く動きを見せない。ただただ辛そうな彼の様子をじっと見つめている。それはまるで、矢を射るタイミングを見計らう狩人のような目であった。
しばらくすると、仲麻呂は身じろぎ一つ見せなくなった。ただ長い睫毛を伏せ、辛そうに肩で息をしている。李林甫は彼に顔を近づけると気を失っていることをしっかりと確認する。続けて奥の部屋に向かって一つ名前を呼んだ。
「安禄山」
言葉に応じて一人の大男が姿を現す。彼は愉快そうに微笑む李林甫を見つけるとそばへと寄った。
「この男をあの高楼まで運べ。お前ほどの身体があれば男一人くらい簡単に運べるだろう。そしてしっかりと鍵をかけろ。忘れずにな」
そう言うと李林甫は切れ長な目を細めた。安禄山はそれを見つめると、「御意」とだけ言葉を返し軽く礼をする。李林甫は満足そうに頷いて、それっきり部屋を出てしまった。
残された安禄山は椅子にもたれかかったままの仲麻呂をそっと持ち上げる。苦しげに息をする彼の身体は熱く、その頬や唇······いや、もはや顔に限らず腕までもが赤く染まっていた。
安禄山は仲麻呂の様子に思わず顔を顰めた。というのも、李林甫が恐ろしくなったのである。
今自分の腕の中にいるこの男も、自分と同じ異国人なのだ。もし自分が選択を間違えていれば、もし自分が立場一つ違っていたのなら、きっと自分も彼のように······。そう思ったのだった。
そして仲麻呂は安禄山によってあの高楼に閉じ込められた。それはかけ始めた月が浮かぶ静かな夜。ちょうど真備が同じ高楼に入れられる二ヶ月ほど前のことであった。
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