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第二章『囲碁』
囲碁 3
しおりを挟む「真備殿。こちらへ」
唐の役人に促され、真備は人だかりの前に進み出た。そこにいた全ての視線が一斉に真備に突き刺さる。
──お偉いさま方に目をつけられた可哀想な異国人。
── 一体何を仕出かすのだろう。
そんな同情や好奇心に溢れた瞳がいくつも真備を取り囲んだ。
囲碁の対局の当日。その日は実になんとも言えない平坦な曇り空であった。真備は人々の視線から目を背けると、地面の上に茣蓙のようなものが敷いてある一角を見やる。
そこには一つの碁盤と白黒の碁石、そして初老らしき一人の男が座っていた。白髪混じりの髪や髭を無造作に伸ばしたその男は、豪華絢爛な装いをしているわけではないのに妙に目立っている。いかにも貫禄のある雰囲気からすると、彼が俗に言う長安一の囲碁の名人なのだろう。
相変わらず注がれるいくつもの視線の中、役人に促されて彼の対極に座った。地面に敷かれた敷物は草で出来ているのか、やけにゴワゴワと肌を撫でる。しかし、当の真備はそんなことなど気に止めてもいなかった。
じっと碁盤の向こうを見据える。相手もこちらを見定めようとしているのか、やけに鋭い視線で見つめ返してきた。
二人の強い眼差しに、いつの間にか外野の声も消えていた。ただ、さわさわと揺れる草木の音だけが風に乗って通り過ぎてゆく。それはまるで、名人と名人とが戦う時のような、そんな鋭い静けさであった。
「では、対局願おう」
男はたった一言そう言った。名前を名乗ることも問うこともしなかったのは、真備のことをまるっきりの初心者だと軽く見ていたからだろうか。しかし、それにしてはやけに重々しい声音であった。
真備としても彼の心境は読み取れない。自分のことを甘く見ているのか、それともそうではないのか。心を見せないところを見ても彼はかなりの名人であるようだった。
しかし、それでも真備は動じない。なぜなら、そんなことはどうでもいいからだ。相手の心の内などどうでもいい。
ただ、勝たねばならぬ。彼の思いはそれだけだ。
静かに碁石に手をかける。
相手は黒。真備は白。
黒は唐。そして白は日本。
碁盤の中をより広く覆った国の勝ち。
もはや名人と真備との対局ではない。
唐と日本の戦いであった。
パチン、パチンと乾いた音が辺りにこだまする。一方が取ったと思えば、今度はまたもう一方が。そんな勝敗の見えない戦いに、誰もが思わず息を飲んだ。
役人達も真備がここまで強いとは思っていなかったのだろう。冷や汗が見える所か、むしろ勝負に見入ってしまっている。加えて碁盤の周りに群がる人々も、元はと言えば呆気なく負けた倭人をからかうつもりでやって来たに違いなかった。
ところがどうだ。彼らが嘲笑おうとした日本の青年は、長安一と謳われる囲碁の名人にも遅れを取らない鮮やかさで次々と相手の碁石を奪ってゆく。また白石を取られようと、同じ分だけ奪い返す。
彼らはその強さに目を奪われた。学才だけで、達者な芸などないと信じていた異国人にまんまと裏切られたのだ。それなのに不思議と怒りを感じないほど、彼の腕に見入ってしまう。それがまた悔しかった。
どちらともつかない互角の勝負。もう既にかなりの時が流れていた。ここまでくるとさすがに真備も焦り始める。いくら負ける様子がないとはいえ、それと同時に勝つ気配もないのである。そろそろ決着をつけなければ、ひょんなことからどんでん返しをされかねない。
というのも、真備の戦略が崩れる可能性が出てきたのだ。
そもそも何故囲碁初心者の真備がここまで強かったのか。理由は昨夜の高楼の中にあった。昨日の夕暮れ時、友人の元へ行っていた仲麻呂が囲碁のルールと共に高楼に帰ってきた。それを聞いた真備は十字の線が並ぶ高楼の天井を碁盤に見立て、シュミレーションを行ったのだ。仲麻呂と二人、高楼に寝転んで戦略を練る。その作戦は引き分けになる所にまで及んだ。
しかし流石は名人、機転が利く。
真備は碁盤の向かいにいる彼を一瞥する。ここまでは二人で立てた作戦が幸をなし、至って順調に互角の勝負をすることが出来ていた。
しかしである。真備もさすがにここまで対局が長引くとは思っていなかった。そうなると、予想もしなかった手を相手が使い始める。何せ相手は碁の達人なのだ。それをどうにか乗り切ったとしても、また彼は新たな手を打つ。
それが真備は怖かった。これではこちらの作戦が傾いてゆくばかり。負けるのも時間の問題であった。
(この状況をどうするか)
真備は思わす眉を寄せた。まだ白と黒の碁石が半々な今現在のうちに勝負を付けてしまわねば、取り返しのつかないこととなる。
いっそのこと負けてしまおうかとも思った。しかし、そう思う度にある一言が頭を巡る。
──これだから野蛮な国の人間なぞ······。
誰ともつかぬ真っ黒な顔が真備にそう言葉を吐いた。それは唐の役人か、はたまた平城の貴族達か。
負けたら日本が笑われる。負けたら吉備が笑われる。
例え田舎だと言われようとも、あの大地はたった一つの美しい故郷なのだ。それだけは絶対に許せない。美しい故郷を守りたいのならば、絶対に勝たねばならぬのだ。
視線を上げれば、相手が次の手を真剣に考えていた。長い髭に手を当てて、じっと碁盤を見つめている。そう、まるでこちらの様子など全く目にも入っていないように。
真備の手が至って静かに相手の身体の脇に伸びた。その先にあるのは、まだ使われていない山積みの黒石。端正な手はそのうちの一つを掴むと、そっと袖の中に引っ込んだ。
そして真備は口元に手を当てた。まるで相手と同じく戦略を考えているかのように。
自然な動きは誰の目にも止まらない。皆が次の手を打つ名人に見入っていて、真備のことなど気にしていなかった。それゆえ誰一人として気が付かなかったのだ。
真備の手に相手方の碁石が一つ握られていることにも、その碁石がそっと真備の口の中に滑り込んだことにも······。
それを見ていたのはただ一人。人だかりから外れた木陰で、ひっそりと成り行きを見守っていた大きな大きな赤鬼だけ。
そしてしばらくして、永遠に続くかと思われた対局は終わった。相手の碁石が一つ足りないことによる、真備の勝利であった。
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