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第一・五章『詩仏』
詩仏 1
しおりを挟むそよそよと吹く風に紛れて、誰かが砂利を踏みしめる音が聞こえた。男はすっかり丸みを帯びた月から視線を外し、それをチラリと横へ向ける。
すると、明るい月明かりの中、馴染みの友が静かに立っていた。彼には三日前にも会ったはずなのだが、月によく似た端正で美しい顔を見るのは久しぶりであった。
「やぁ、その顔は久しぶりだね。晁衡」
男は訪ねてきた友人を目に止めると、唐の国における彼の名を呼ぶ。本来は朝衡という字を使うのだが、この家の主は彼に親しみを込めて当て字をしたのだ。その少し高めで落ち着きのある声は、仏のように優しい響きで辺りを潤した。
一方、男に名前を呼ばれた晁衡······日本でいう仲麻呂は、「そうですね」と淡い唇をほころばせる。男は形の良い瞳を糸のように細めると、仲麻呂に家に上がるよう腕で促した。
「遠慮しなくていいよ、今回は僕が君を呼び出したんだしさ。そうだ、久しぶりにお酒でもどう? 最近李白が来てないからたくさん余ってるんだ」
男はにこにこと楽しそうに笑う。仲麻呂はそんな彼に頷くと、屋敷の中へと足を向けた。
「さて、まぁとりあえず飲みなよ。話はそれからさ」
男に通された部屋は南向きで、大きな窓から月明かりが深く差し込んでいる。二ヶ月前までは小さな部屋でばかり会っていたのだが、仲麻呂が鬼になって以来は月明かりの入るこの部屋で話すようになった。やはりいつもの姿形ではないと落ち着かないのはお互い様であった。
仲麻呂が窓際の椅子に腰掛けると、男は隣に座って仲麻呂の盃に酒を注ぐ。その糸のような流れは清らかに澄み、月明かりを絡めながら盃におちた。同時に香り高い白酒の芳香がふわりと頬を撫でる。その香りは月明かりによく似て穏やかだった。
「そういや文選の件、上手くいったみたいだね。ぜひとも僕にも紹介してほしいな。その真備って人」
静かに男が口を開く。仲麻呂は一口酒を含むと「ええ、いずれは」と柔らかく微笑んだ。男はつられたように笑みを浮かべると、窓の外に浮かんだ月を見上げる。
「いい月だね。今日は月見酒だ」
「本当に」
仲麻呂はつられたように月を眺めた。しかし彼の瞳に映っている月は長安のものではないのだろう。彼の目にあるのは、きっと海の向こうの知らぬ都の······。
男は仲麻呂の横顔を見ながらそっと酒を口に含んだ。月を見て故郷を思う時の彼は本当に儚く、そして美しく見える。それこそ腕を掴んででもいないと月明かりに溶けいってしまいそうなほどに······いつもの凛々しさや頼もしさがまるで嘘のようだ。
特に今日などは、先ほど飲んだ酒が少しずつまわってきたのか、頬や唇がほんのりと色づいている。それがまた月によく映えるのだ。
彼は皇帝に一目置かれる期待の出世株であり、あの科挙に及第したほどの秀才だ。おまけに人柄も良く、男も女も惑わすほどの美人ときた。もちろん宮中での人望も厚く、彼が微笑む度に性別や年齢を問わず皆が頬をゆるめる。つまりは天に二物も三物も与えられた男なのだ、この晁衡という男は。それなのに······。
「ほんと、君は夜に一人で歩かせられない男だね。どんな変態に捕まるか分かりゃしないや」
「え?」
突然呟かれた男の言葉に、仲麻呂は何のことだときょとんとする。そんな彼を見て、男は「何でもないよ」と笑うと軽くなった盃に改めて酒を注いだ。
(やっぱりそうだ)
男は心の中で微笑む。彼には完璧な人によくある近づきにくさというものがないのだ。それはきっと、彼が故郷を思うときの儚さによるものだろう。太陽のもとでは決して見せないその弱さを、月を見ている時にだけ······故郷を思う時にだけぽろりと零す。それも皆が彼に惹かれる理由の一つなのだろう。
男はそこまで考えてふっと息を吐く。そして、窓の外を見つめながら仲麻呂の名を呼んだ。
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