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第一章『文選』
文選 7
しおりを挟む心地よい夜風が吹いている。真備はそれを感じながらそっと深呼吸をした。帝王宮殿の屋根の上から眺める長安の街は、当時の日本では見ることが出来ないほどの光で溢れている。それはまるで、闇の中にぽっかりと昼が存在しているかのよう。
それをどこか遠い目で見つめる真備の頭に浮かんでいたのは、遠く離れた平城の京だった。ここをモデルにしているとはいえ、いざその本家を目にするとあの京のなんと小さなことか。圧倒的な唐の国力を改めて思い知らされた気分だった。
そして日本の朝廷は、あの京を長安により近づけるべく真備達に海を渡らせた。その責任はあの船に乗っていた皆が今でもひしひしと感じていることだろう。そんな風に故郷に思いを馳せていた真備に、後ろから小さな声がかかった。
「すみません。遅くなりました」
後ろを振り返れば大きな手いっぱいに書物を抱えた赤鬼が立っていた。真備は彼の姿を見て微笑むと、ありがとうと礼を述べようとした。
しかし、次の瞬間だった。
彼の手先や足先が徐々に淡い光に包まれていったかと思うと、赤黒い肌がみるみるきめ細かな白い肌に移り変わってゆく。そして、人間より一回り大きかったその身体は、真備より一回り小さい背丈に縮んでいった。
真備が呆気に取られるのも束の間、完全に人間となった彼の白い手から、収まり切らなくなった書物がするりと零れた。仲麻呂は「わっ!」と慌てると、書物を受け止めようと前のめりになる。
「おっと······」
屋根を転がり落ちそうになった仲麻呂を片手で支えてやると、勢いをせき止められた仲麻呂の体重がグッと腕にかかる。彼の髪が飛び立つ蝶のようにふわりと宙に広がった。隙間から覗く白い額には、もうあの大きな二本角はない。まるで月明かりに溶け込むかのように、それはするりと空に消えてしまった。
どうやら間一髪の所で放り投げられずに済んだようだ。体勢を立て直して顔を上げた仲麻呂は「ごめんなさい」と決まりが悪そうに肩をすぼめる。
「全く、もうあんまり驚かせるなよお前」
真備は苦笑して体を屈めると、零れ落ちた数冊の書物を拾い上げて自らの腕に収めた。書物を受け取るつもりでいた仲麻呂は、片手を伸ばしたまま不思議そうに真備を見上げている。
「半分よこせ。元々俺が頼んだんだ。俺も持たないと面目が立たない」
そう言って手を差し出した真備に仲麻呂は一瞬目を丸くする。しかし好意を受け取ったのか、すぐにくすくすと肩を揺らした。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
書物を半分ずつ腕に収めると、特に合図をしたわけでもなく目の前に広がる街を見下ろす。碁盤の目のように整えられた通りに沿って、暖かな灯りが夜空へと溢れ出ていた。その煌めく大都市の夜景に、仲麻呂は穏やかな息を吐く。
「美しいですね」
「ああ」
「この景色を伯父さんが見たらどう思うのでしょう」
「伯父?」と首を傾げると、仲麻呂は澄んだ瞳に長安の灯りを映しながら懐かしそうに笑った。
「私の伯父さんが平城の都の造営長官だったんです」
「平城京の造営長官······阿倍宿奈麻呂殿か」
「ええ、やはり知っておられましたか」
真備の言葉に頷くと、仲麻呂は足元を見つめるようにしてそっと長い睫毛を伏せた。
「伯父さんが平城京を造るというので、長安の様子が書かれた書物や絵が度々私の家に運び込まれました。それを幼いながらに見ていた私は自然と美しい都に惹かれていったのです。だから今ここに居るのかもしれません」
仲麻呂はトンっと屋根を蹴って宙に舞う。そして真備に向かって片手を差し出した。
「そろそろ行きましょう。私達はこれからこの書物を読まねばなりません」
真備はじっと仲麻呂を見つめていたが、彼の手を取ると同じように空に浮かんでみせる。仲麻呂が「飛び方は覚えていますか?」と顔を覗き込んできたので、真備はそれに頷いてやった。仲麻呂は安心したように口をゆるめる。淡い月の光を含んだ柔らかな髪が、彼の肩をするりと滑っていた。
「どうやら今は南に月があるようです。あの少し右側を目指して飛びましょう。書物がある分体勢を保ちにくいかもしれませんが、何かあれば言ってください」
二人は帰るべき方向を見定めるとそちらに向かって再び飛び始めた。先程よりも高く昇った月が、優しい光で夜空を包み込む。
「なぁ仲麻呂」
「何でしょう?」
空中飛行にも慣れたのか、真備は仲麻呂の横に並ぶとそう問いかけた。仲麻呂は真備に目を向けると、軽く微笑みながら首を傾げる。
「宿奈麻呂殿が伯父ってことは、祖父はあの阿倍比羅夫殿か?」
「ええ」
「やっぱりか! すげぇやお前」
真備はどこか興奮したように感嘆の声を上げた。
阿倍比羅夫とは、今で言う東北に住んでいた蝦夷と呼ばれる人々を征伐したことで有名な人物であった。もちろん真備も彼の功績は知っている。
──彼は賢く、強く、そして優しい。
誰かからそう教えて貰った記憶があった。そうか、この青年はあの比羅夫の孫か。そう思うと、比羅夫の賢さも強さも優しさも、何となく想像がつく。そんなことを考えながら、真備は隣にいる仲麻呂に目を向けた。
相変わらず美しい男だ。その容姿も心意気も。なのに決して嫌味臭さも近寄りがたさもない。それがとても不思議であった。
しかし、彼の心は読みずらい。その澄んだ瞳は何も教えてくれない。きっとこの男は嬉しい時も冷静に動き、悲しい時でも微笑むのだろう。何となく、そんな気がしてならなかった。
「あっ、見てください真備さん! 駱駝です! 私一度見てみたかったんですよ!」
突然仲麻呂が地上の一点を指さした。そこでは見たことも無い奇妙な生き物が、西域の商人と共にのんびりと歩いている。
そんな彼を見ながら、真備は前言を半分撤回した。この男も嬉しい時には嬉しそうにするらしい。彼は新しいことを知るのが好きなのだろう。勉強好きに多いタイプだ。
真備は馬に似ているようで似ていない奇妙な生き物から、隣にいる仲麻呂へと視線を移す。しかしそんな真備には目もくれず、仲麻呂は今までに見せたこともない無邪気な笑顔で賑わう長安の市場を無心に見つめていた。
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