吉備大臣入唐物語

あめ

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第一章『文選』

文選 5

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「ここから飛ぶんです」

 仲麻呂は再度そう言った。うん。どうやら真備の聞き間違いではないらしい。

「こ、ここからって······ここからか?」

 真備は自分の足元に目を向ける。そこには高楼へと登ってくるはしごがあるのだが、その袂は暗闇に紛れて全く見えない。しかし高楼の上にいる今の自分は、恐らく地上から六・七メートルほどの地点にいるはずだ。ここから飛び降りて無事なわけがない。

「飛び降りるって大丈夫なのか?」

 恐る恐るそう聞いた真備に対し、仲麻呂は「あれ?」と少し首を傾ける。

「私は飛び降りるだなんて言っていませんよ。飛ぶんです。この空を」

 彼は「宮殿までひとっ飛びだと言ったでしょう?」と無邪気に笑う。真備は「はい?」と聞き返すことしか出来なかった。全く意味がわからない。

「あの、仲麻呂様?   ぜひともご説明を」

 少し引きつった笑顔で言うと、仲麻呂はくすくす笑いを堪えた。悪戯が成功した子供のようで、やはり気持ちが若い奴だと思った。

「今の私は自由に空を飛ぶ術が使えるのです。私と一緒であれば貴方も使うこともできます。なので宮殿までこの空を飛んで行こうかと」

 そう言うと、彼はなんの躊躇いもなく高楼の床をける。すると、彼の体がふわりと宙に浮いたではないか。

「大丈夫。決して落ちたりはしません。思い切って足を離してみてください」

 そう言われても術がかかっている実感が全くない。本当に自分も浮くことができるのか半信半疑であった。仲麻呂はなかなか飛び出せずにいる真備を見て、既に繋がれている右手だけではなく、空いていた左手も差し出した。掴まれということらしい。真備はそれを見て、そっとその左手を掴む。そして「よしっ! 」とわざとらしく声を上げて気合を入れた。
 自分だって荒波をこえてやってきた遣唐使だ。こんなことで臆していては面目が立たない。そう思い、眉を寄せると一気に目の前の暗闇へと飛び込んだ。

 すると、どうだろう。ふわりと宙に浮く心地がして、足が地についている感覚が消えた。ふと自分の足元を見れば、身体が暗闇の上にふわふわと浮いている。真備は思わず感嘆の声を漏らした。

「凄いでしょう? 私も初めは驚きました」

 その声に顔を上げると、向かい合う形で宙に浮いている仲麻呂と目が合った。彼は垂れ気味の瞳を細めて真備に微笑みかける。

「きっともう手を離しても大丈夫なはずです。地面に立つのと同じような姿勢でいれば、自然と身体は安定します」

 彼は握りしめていた手から徐々に力を抜いてゆく。そして真備の手から、自らの手をそっと離した。仲麻呂の手の温もりが消え、しんとした夜の空気が真備の手に触れる。しかし、思いの外身体は安定するらしい。芯をぶらすことなく空中に浮く真備を見て、仲麻呂は安心したように微笑むと身体の向きを変えて月の下を指差す。

「あの方向に宮殿があります。移動の仕方は慣れさえすれば簡単です。行きたい方向へと意識を向けてくださいませ。さすれば自然と身体は動くでしょう」

 そう言うと、仲麻呂はお手本を見せるように少し動いてみせる。足を動かさずとも、氷の上を滑るようにするすると前へ進んでいた。彼はしばらくして動きをとめ、真備を促すように振り返る。
 真備も彼を追いかけようとそちらへ意識を向けた。しかし思うように身体は動いてくれない。困ったように仲麻呂を見つめると、彼はこちらへ戻ってきてくれた。そしてそっと右手を伸ばすと、真備の手を取って再び月へと意識を向ける。すると、仲麻呂に手を引かれ、真備の身体も月に向かって飛び始めた。

 それはまるで夢のような景色だった。頭上には満天の星空が広がり、足元をみれば人々が灯すあかりがちらほらと霞んでいる。

「凄い。俺飛んでる」

 真備が思わず感嘆の声を漏らすと、仲麻呂は嬉しそうに言った。

「楽しんで頂けて何よりです。都の中心部になれば、本当に灯りが綺麗に見えますよ」
「それは楽しみだ」

 真備の言葉に、仲麻呂はふわりと目じりをさげた。夜風を含んだ彼の髪がふわりとなびき、その柔らかく白い肌が月明かりに透ける。こうやって見ると本当に生き生きとした一人の人間にしか見えなかった。

「真備さん、もう一度進行方向に意識を向けてみてください」

 そっとかけられた彼の言葉に、真備は軽く頷くと月のある方向を真っ直ぐに見つめる。そして再び意識を集中させてみた。
 するとどうだろう。仲麻呂に引っ張られるように浮いていた身体がだんだんとその距離をつめる。そして気がつけば、彼の笑顔がすぐ横にあり、肩を並べて飛んでいるではないか。

「ふふっ、慣れてきたみたいですね」

 仲麻呂は嬉しそうだった。

「ここまでくれば、きっともう大丈夫です。一度この手を離してみますね。そのまま風に身を任せて。一度強く念じてしまえば、後は意識せずとも身体はそちらに動いてくれます」

 真備は彼の言葉を信じて、ふっと息を吐いてみた。そして気を楽にして目の前に広がる星空を眺めてみる。
 すると不思議なことに、より安定して空を飛べるようになってきた。それを自分自身でも感じて思わず仲麻呂の方へと顔を向ける。そんな真備に気づいたのか、仲麻呂は真備を見つめ返して嬉しそうに笑ってくれた。

 星の降る夜空に小さな小さな影が二つ。きっと地上にいる人々は全く気づきもしないのだろう。やがて大きな市場が見えてきて、人々の活気溢れる営みの輝きが足元に広がる。空の上から眺めれば、楽しそうに道行く人々もお客を呼び込む商売人の声も、本当に本当に小さくみえた。
 こうやってみると、大自然から見た自分達がいかにちっぽけな存在であるかがひしひしと伝わってくる。しかしそれと同時に、そんなちっぽけな自分達が人生を全うしている事が、とても誇らしく思えた。
 そんなことを感じながら、二人は大きく羽を広げて空を飛ぶ。鳥達も既に寝床に帰っているのか、その夜空には彼らの行く道を遮るものは何もなかった。
 空は恐ろしいほど高く輝き、地面は遠く下方に霞む。それでも真備は決して恐怖を抱かなかった。それはすぐ隣に信頼できる友がいたからに違いない。

 少し不思議な空の旅。そんな美しく幻想的な一時を、満天の星空を駆けながら、二人は共に分かちあったのだった。


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