吉備大臣入唐物語

あめ

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第一章『文選』

文選 4

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 真備は真っ直ぐに仲麻呂を見つめていた······困惑したように眉を寄せたまま。しかし仲麻呂が振り返ると、同時に驚いて目を見開く。

「お前は昨日の······」

 目を丸くする真備を見て、仲麻呂は寂しそうに微笑んだ。そう、つい昨夜。真備が眠りに落ちる前に見たものと同じ、あの罪悪感まじりの美しい表情で······。

「すみません、貴方を騙そうとしたわけではないのです」

 仲麻呂は静かに呟いた。しかし、それは低くしわがれた物の怪の声ではなかった。濁りがなく、透きとおるように凛とした美しい声。それはまさに、彼が過去を語った時にほんの少しだけ垣間見えたあの声であり、昨夜虚ろな意識の中で聞いた響きそのもの。未だ困惑の表情を浮かべる真備の耳にも、流れ込むように入ってきた。

「昨夜は驚かせてしまいすみませんでした。確かにあれは私です」
「これは······お前の本当の姿なのか?」

 震える声が紡いだ問いに、仲麻呂は柔らかい微笑みで頷いた。

「はい。これが物の怪になる前の私の姿です。ずっと言い忘れていたのですが、どうやら月の光がある時だけ人間の姿に戻れるようなのです。この姿でも術は使えますのでご安心ください」

 そう言って彼は軽く肩をすくめる。月の光に艷めく柔らかな髪が、肩のあたりでさらりと揺れた。しかし真備が聞きたいのはそこではない。なぜ、昨日の時点でそれを言ってくれなかったのか。昨夜見たあの男が仲麻呂だと知っていたら、なにもあそこまで警戒はしなかった。
 それを告げると、仲麻呂は複雑な顔で俯いた。長いまつ毛に遮られて、彼の瞳から月が消える。そうすると、真備より一回り背の低い彼が、ますます小さく儚く見えた。

「······少し、怖かったんです」

 しばらく後、仲麻呂は形の良い眉を寄せながら瞼を閉じる。その声がどこか震えているように思えて、真備は思わず口を噤んだ。

「ご覧の通り、私は決して頼もしいと言えるような容姿ではありません。その分周りの遣唐使達がとても頼もしく見えて、少し羨ましかったんです。でも、あの鬼の姿になって良くも悪くも私の容姿は変わりました。それこそ、頼もしいどころか恐ろしいほどに。そんな時に出会ったのが貴方でした」

 そう言うと、彼は顔を上げて真備を真っ直ぐに見つめる。確かにその姿はあまりにも儚く、今にも月明かりに透けて、溶け入ってしまいそうであった。

「貴方は鬼である私を頼りにしてくれた。それがとても嬉しかった。だから······だからこそ、私がこんな頼りない姿だと分かったら幻滅されるのではないかと、もう頼ってはもらえないのではないかと。そう思って、昨日私の正体を明かさなかったのです。申し訳ありません」

 真備はただただ何も言えずに仲麻呂を見つめた。すると、彼は困ったように笑ってみせる。

「でも逆に怖がらせてしまいましたね。突然近づいたりしてすみませんでした。初めは距離を保ったまま貴方を眠らせようとしたのですが、貴方が変に頭を打ったら大変だと思い、あそこまで近づいたのです。びっくりしたでしょう、急にそばに寄られて」

 そんな風に笑う彼を見て、やっと口から息が漏れた。なんだ、やはりおかしな奴ではないか。そう思って肩の力でも抜けたのだろう。呆れたように眉を寄せると、真備はくすくすと笑ってみせた。

「全く。変なとこ心配性だなぁお前は」

 真備は仲麻呂に近づくと、その頭に手を乗せてぽんぽんと軽く叩いてやる。

「別に幻滅なんかしないさ。逆にその······なんだ? 人間の格好してもらった方が親近感があっていい。それに、これからもお前のことは頼りにするつもりだぞ?」

 仲麻呂は驚いたようだった。こうして傍に寄られたのも、鬼に化けた人として受け入れられたのも初めてだったのだろう。しばらく目を丸くしていたが、照れ隠しといいたげに膨れて真備を見つめてきた。

「でもそのわりには子供扱いしませんでした? 今」

 そう言いながら自らの頭を抑える。どうやら先ほどの行為に不満を言っているらしい。初めは所作も語り口も大人の気品に溢れていると思っていたが、案外子供らしい奴なのかもしれない。そう言えば、四門学にいた頃彼の年齢を噂で聞いた。遣唐当時十七だったということは、自分よりもずっと年下なのか。そう思うとこの男がどこか弟のように見えてきた。

「言っとくけどな、お前より七つも年上だからな?」

 からかうようなその言葉に、仲麻呂は焦りを覚えたようだった。

「えっ、知ってたんですかっ!? 気づかれてないと思っていたのに······」

 そんな彼が面白くて、真備はますます意地の悪い笑みがこぼれた。

「ふふっ、残念だったな。お前がたったの十七で入唐したことはかなり話題になっててな。とっくの昔から知ってるぞ?」

 その言葉に諦めがついたらしい。仲麻呂は深いため息をつくと、拗ねたように口をとがらせた。

「はぁ、惜しいですね。ちょっと頼れる同期みたいに思ってもらえるのを期待してたんですが······これじゃあ私が弟のようです。でも······確かに、この姿の方がより貴方に近づけた気がします」

 彼は真備を見上げてはにかんだように笑ってみせた。先程の拗ね顔とは打って変わった無邪気な笑み。真備はそれを受けて、「そ、それは良かった」と気まずそうに視線を逸らした。
 彼の笑顔は幾度となく見てきたが、今までのように鬼の姿で笑いかけられるのと、人間の姿で笑いかけられるのとでは訳が違う。しかも四門学にて囁かれていた「男も女も見惚れるような美男子だ」という噂は本当であった。長いまつ毛に覆われた澄んだ瞳を細め、どこか気まずそうにはにかんだ彼の中性的な微笑みは、今宵の月に劣らず美しく輝いて見えた。
 不意をつかれてしどろもどろになっている真備に気づいていないのか、仲麻呂は心を落ち着かせるように深呼吸すると、再び真備に手を伸ばしてきた。

「さて、今度こそ行きましょうか。きっとそろそろ話し合いが始まる頃でしょう」

 月を背負って微笑んだ彼を、真備は今度こそ真っ直ぐに見つめる。相変わらず彼には月によく映える美しさがあったが、もう真備の瞳には気まずさも困惑もない。物の怪の時とは見た目は違えど、彼は彼であることに気づいたのだ。確か、初めて鬼である彼を目にした時もそうであった。真備は彼の人柄、彼の中身に惹かれた。だからこそ容姿も年齢も関係ない。彼を信頼できるからこそ、一番の友だと思えたのだ。だから······。
 同じように微笑むと、真備は返事をする代わりに深く頷いて彼の手をとった。そんな真備に答えるように、仲麻呂も嬉しそうに歯を見せる。

「では参りましょう。私の合図とともにここから飛んでください」
「おう······え? 今なんて?」

 一度頷いた真備であったが、一拍置いて自分の耳を疑った。今から難題に立ち向かおうとする良き雰囲気は、その素っ頓狂な声でがらりと崩れ去った。












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