5 / 68
序章
幕開け 1
しおりを挟む「すみません、真備さん。仲麻呂です」
突然聞こえた声に、仰向けで回想にふけっていた真備は慌てて体を起こした。どうやら高楼の外から聞こえてくるようであったので、「入っていいぞ」と声をかける。
するとどうやって鍵を開けたのか、おもむろに扉が開き赤黒い鬼が現れた。相変わらず衣冠を身につけているその物の怪は、真備に促されるがままに正面に座ると軽く裾を整える。そんな彼をマジマジと見つめ、真備は小さく眉を寄せた。
あれほど対抗心を燃やし、親近感を抱いていたはずの彼の名を、何故忘れてしまっていたのか。それがとても不思議だった。自分はずっとその姿を、その名を追い求めていたはずなのだ。趙玄黙の言葉を聞いたあの日からずっと。
真備は静かに目を閉じる。黙ってばかりだったからか、仲麻呂は不思議そうに首を傾げた。
「どこか体調が悪いのですか?」
「いや、そういうわけでは······そういや何の用だったんだ?」
「ああ」
仲麻呂は今思い出したかのように言うと、背負っていた風呂敷を広げる。そこにあったのは、笹の葉に包まれた二つの握り飯と竹筒に入れられた水であった。
「昨日から何も食べていないでしょう?」
仲麻呂は肩をすくめるように微笑んだ。
「恐らく明日の朝、唐の役人が貴方の様子を見に来るでしょう。軽い食事は持ってくるとは思いますが、それでは今日の腹は満たされません。それに······」
そこで目線を上げた仲麻呂であったが、握り飯を見たまま固まっている真備を見て思わず口を閉じた。その事にも気づいていないのか、真備は何かを見定めるかのようにずっと視線を動かさない。
「大丈夫ですよ、毒などは盛っておりません。まぁ私のことが信用ならないというのなら、仕方ないですが······」
不審がられていると思ったのか、仲麻呂は苦笑するように微笑んだ。しかしそういうわけでもないらしい。真備は「いや」と呟くとおもむろに顔をあげる。
「別にお前のことを疑っているわけじゃない。ただ、何故ここまで尽くしてくれるものかと」
仲麻呂は一瞬目を丸くした。予想し得ない答えだったようだ。彼は楽しそうに目を細めると、「ふふふ」と可笑しそうに笑ってみせる。
「それはこちらの台詞ですね。では、なぜ貴方は鬼の顔をした私にここまで心を開いてくれるのですか?」
今度は真備が目を丸くする番だった。「お互い様でしょう」と笑う仲麻呂を見て、一拍おいてからつられたように吹き出した。
まだ出会って二日しか経っていないというのに、まるで昔なじみのように心を許してしまっている。そんな自分に気がついて、真備はますます可笑しくなった。何故かは分からない。一度笑ってしまったら最後、何でもかんでも面白く思えてしまった。ここまで笑ったのは唐に来てから初めてかもしれない。
しばらく二人で笑い合うと、真備は目元を指で抑えながらゆっくりと呼吸を整える。そして可笑しそうな顔をしている仲麻呂を見つめると、優しく微笑んで握り飯に手を伸ばした。
「有難く頂くよ」
そう言って握り飯を食べた真備だったが、その直後、目を丸くして思わず「美味しい」と感嘆の声を漏らす。握り飯はまだ温かく、口に入れるといとも簡単にふんわりと崩れた。きっと雲を食べたらこのような心地がするのだろう。しかしそれだけ柔らかいのに、何故か手に持っている間は決して形を崩すことはない。
昨日から何も食べていなかった真備は、一言も喋らずに平らげる。そして二つ目の握り飯に目を向けた時、ふと仲麻呂のことを見上げた。
「そういや、お前は食べなくていいのか?」
仲麻呂は不意をつかれたような顔をした。しかし寂しげに微笑むと、そっと首を横に振る。
「今の私は物の怪ですので食べなくても平気です」
真備は竹筒の水を一口飲むと、何かをためらうような素振りをみせる。そしてしばらく考え込んだ後、「なあ」とおもむろに口を開いた。
「前に聞きそびれたんだが、お前はなぜ鬼になったんだ?」
もう陽は落ちたのか、高楼の下から涼やかな虫の音が聞こえてきた。鈴のような音色の中、仲麻呂は驚いて黙っていたものの、しばらくして溶け込むように口を開いた。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
主従の契り
しおビスケット
歴史・時代
時は戦国。天下の覇権を求め、幾多の武将がしのぎを削った時代。
京で小料理屋を母や弟と切り盛りしながら平和に暮らしていた吉乃。
ところが、城で武将に仕える事に…!
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
大唐蝦夷人異聞
大澤伝兵衛
歴史・時代
白村江の戦の記憶もまだ新しい頃、唐王朝の宮廷を日本から派遣された遣唐使が訪れた。
その中に、他の日本人と違う風体の者が混じっていた。
なお、本文中の新唐書の訳文は、菊池勇夫編「蝦夷島と北方世界」のものを引用しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/sf.png?id=74527b25be1223de4b35)
神護の猪(しし)
有触多聞(ありふれたもん)
SF
あんたはなア、貴族の血を継いでるさかいに……」
そう語った婆やは既に亡くなり、男は退屈の日々を過ごしていた。そんな折、彼は夜の街の中に見慣れないバーを見かける。光に導かれるままに中へと入ると、そこには女が佇んでいた。
「あなたには、話しておかなくちゃ……」
彼はいつしか眠りに落ち、目が覚めるとそこは奈良時代の日本であった。女は、自身の正体が幾千年と生きる狐であることを明かすと、父について徐に語り始める。父とは、かの大悪人、弓削道鏡であった。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
零式輸送機、満州の空を飛ぶ。
ゆみすけ
歴史・時代
ダクラスDC-3輸送機を米国からライセンスを買って製造した大日本帝国。 ソ連の侵攻を防ぐ防壁として建国した満州国。 しかし、南はシナの軍閥が・・・ソ連の脅威は深まるばかりだ。 開拓村も馬賊に襲われて・・・東北出身の開拓団は風前の灯だった・・・
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる