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序章
高楼にて 2
しおりを挟む「私は阿倍仲麻呂と申します。訳あってこのような姿となっておりますが、日本の天皇から命を受けてこの唐の国にやってきた第九次遣唐使にございます」
真備は赤鬼、もとい仲麻呂の言葉に目を丸くした。彼は一度高楼から立ち去った後、しばらくして再び戻ってきた······本当に身なりを整えて。
顔や体つきは鬼のままであるが、今の彼は服を身につけ冠を被り、唐の役人の正装をしている。こうやって見ると、姿勢や所作が美しいこともあってか、恐ろしいという気持ちは生まれない。むしろ高尚なオーラさえ感じてしまうほどだ。
赤鬼は自らを仲麻呂と名乗った後、自分も同じ代の遣唐使だという真備に目を丸くした。
「貴方様もあの代の······失礼ですが、お名前は? 」
「私は下道真備と申します」
「下道の? 聞いたことがあります。吉備の方から都へいらした方ですよね。その学才は類まれなるものだと耳にしました」
まさか自分のことを知っているとは思わなかった。面識がなかっただけで、彼は確かにあの奈良の都にいたようだ。
赤黒い肌に似合わず頬を緩めてみせた鬼に対し、真備はほとんど警戒心を解いていた。それは自分でも不思議に思うほどの早さだ。何故なのかは分からないが、この鬼······というより、阿倍仲麻呂という人物は何か人を惹き付けるものがあるらしい。そうでもなければ、普段慎重な真備がすぐに心を許すなど有り得ない。
「聡明な方に出会えて嬉しいです。貴方様のようなお人がここに来るのをずっと待ち望んでおりましたゆえ」
その言葉に真備はじっと仲麻呂を見つめた。そういえばずっと気にかかっていたのだ。なぜ鬼である彼がこの高楼を訪ねては賢い人物を探していたのか。そもそもなぜ彼は鬼の姿をしているのか。しかしそれを読み取ろうにも、彼の落ちくぼんた目は何も語ってはくれない。彼の意思を読み取るには、赤鬼の奥に眠る阿倍仲麻呂の瞳を見なければならないのだ。
「そのことなんだが、お前はさっき聞いてほしいことがあると言っていたな。それはなんだ」
「ああ······あのことは忘れてくださいませ。私はただ、日本や我が阿倍一族の現状を知りたかったのでございます。しかし私と同時期に日本を離れたのであれば、彼の地の様子など知る由もないでしょう。それゆえどうかお気になさらず」
大きな牙の生えた口角が苦笑するように持ち上がる。真備は思わず身を引いて視線を逸らした。寂しげに笑う仲麻呂が先程の自分に重なったのだ。鬼を目にして思わず故郷のことを思い浮かべた自分に。
彼もまた辛いことがあったのだろうか。だから故郷を恋しく思っているのだろうか。ふとそう思った。
「俺からも、お前に聞きたいことがある」
冷たい夜風が舞い込んだ。木々の枝葉が揺れる音がする。おもむろに口を開いた真備に、仲麻呂はそっと顔を上げた。そこに見えたものは、人の表情によく似ていた。
「辛いことなら答えなくても良いが、なぜお前は鬼の姿をしているんだ? そしてなぜ夜な夜なこの高楼にやってくる」
そこで仲麻呂は目を閉じた。ゆっくりと息が吐かれると、しばし穏やかな静寂が訪れる。しかし真備に信頼して欲しい気持ちはあるのだろう。些か迷ったようであったが、彼は徐に口を開き始めた。
「······では、まずは二つ目の質問にお答え致しましょう。このことについては貴方様も深く関わっておられます」
「俺も? 何故だ」
身を乗り出しながら眉を寄せた真備に対し、仲麻呂は少し寂しげに目を伏せる。
「貴方様もここに閉じ込められたうちの一人だからでございます」
真備は少々面食らう。そんな答えが返ってくるとは思わなかった。正直それが何を意味するのかなど見当もつかない。
「この高楼は言わば嫉妬の牢獄なのでございます」
「嫉妬?」
「ええ。ここ長安は世界屈指の国際都市。もちろん、我々のように色々な国から使者達が集まります。では使者を送ろうとする国々は、一体どんな人物を世界一の大国に使わそうとするでしょうか?」
突然の問いに内心焦った。しかし、共に海を渡ってきた遣唐使達の顔ぶれを思い出してみれば、ピンと来るものがあった。真備は目の前にいる赤鬼が言わんとすることを理解し、納得したような顔で言う。
「世界を相手にしても恥ずかしくないような······そんな将来が見込まれる優秀な人物か」
「その通りです」
思った通りの回答が返ってきたのか彼は満足そうに頷いた。
「相手が世界一の大国だとしても国の恥さらしにならないような。そしていずれ自国に帰ってきた時に国の大きな力となれるような。そんな優秀な人材をどの国も競うようにこの大唐国に派遣してきた。そして、彼らの中には思いがけずこの地で才能を花開く者もありました。貴方のように」
正面から見つめられてドキリとした。仲麻呂は少しからかうかのように目じりを下げると、「しかし、そうなれば面白くない人々が出てきますよね?」と首を傾げる。
「あっ、それが唐の役人達か!」
「ご名答! この国には科挙制度があるので唐生まれの役人達も優秀な人ばかり。しかし皆優秀とはいえども、その中でまた格差が生まれましょう」
唐の役人達の中には、世界一の大国に生まれた賢人だと強く自負している者も多い。つまり彼らから見れば、異国からの留学生の分際で自分達より上の位につこうとする人物は邪魔になるのだ。
真備がそう言えば、仲麻呂は嬉しそうに頷いた。まさにその通りだと言うように。
「そして彼らは、自分達の出世を邪魔されないよう、賢い人々を上手く言いくるめて監禁してしまおうとしたのです。まさに私達が今いるこの高楼に······」
「なるほどな」
やっと閉じ込められた経緯について納得した真備であったが、ふとあることに気がついて首を捻る。
「でもそれじゃあお前がこの高楼を訪ねてくる理由にはなっていないじゃないか」
それを問えば、仲麻呂はふわりと寂しげに笑う。
「先ほども少し言いましたが、私は賢い人を探していたのです。賢ければ様々な情報を知る糸口を見つけ、それを上手く記憶することが出来る。そんな人物に出会えたのならば、日本の現状を聞くことができるのではないかと思ったのです。ここに閉じ込められる人は皆一様に賢人です。つまり、この高楼にくればいつかそんな人物に巡り会える······そう信じていました」
部屋の隅に灯した蝋燭は短くなってしまったのか、光はゆらゆらと揺れ始め、仲麻呂の人ならざる顔を朧気に照らす。俯いた口角は緩んではいるが、その笑みがどこか切なさを含んでいるように思えてならなかった。少し諦めを混じえた切なさを······。
「しかし、いくら話しかけようとしても皆一様に逃げ出すのです。そして二度とここへは戻ってこない。それも仕方ありません。今の私は恐ろしい形相の人喰い鬼にしか見えませんから。でも······」
そこで仲麻呂は顔を上げると、こちらを真っ直ぐに見つめた。突然口を噤んだ彼に対し、真備は不思議そうに見つめ返す。
「でも、貴方は違いました」
真備は少し驚いて眉をあげた。彼の真剣な眼差しは、何かが吹っ切れたような、強い意志を含んで見えた。
「貴方は醜い私の言葉にも耳を傾けてくれた。見ず知らずの私に手を差し伸べてくれた。確かに、最初は私のことを恐れていたかもしれない。でも······いや、それなのに貴方は真剣に向き合ってくれたのです。恐ろしい赤鬼ではない、その中にいる、阿倍仲麻呂という本当の私に」
消えかけた蝋燭の灯火が彼の彫り深い肌を照らす。それは確かに恐ろしい鬼の面だ。額に生える二本の角も、口元に光る鋭い牙も、人ならざる物の怪のもの。しかし真剣な眼差しは、落ちくぼんた瞳から零れた一筋の涙は······確かに、確かに温かい人間のものであった。
真備はただただ彼を見つめた。鬼の下に隠された本当の姿を見たかった。しかし、いくら目を凝らしても彼は恐ろしい鬼のまま。
揺らめく光を放っていた蝋燭が静かに燃え尽きた。しかし高楼の中には未だ絶えず光が差している。夜が明けたのだ。昇る朝日が赤みを帯びた光で高楼を照らす。仲麻呂はそれに気がつくと、どこか名残惜しそうに立ち上がった。
「私は鬼とはいえ昼間でも活動はできます。しかし少々調べたいことがありますので一旦ここを去りとうございます。今日の夕方、この朝日が沈む頃、またここを伺ってもよろしいでしょうか?」
真備が頷けば、彼は朝日に溶け込むように柔らかく笑う。そしてこちらへ背を向けたが、ふと何か思い出したかのように動きを止めると、再び真備を見つめ返した。
「貴方に出会えて本当に嬉しかった。私に何か出来ることがあれば貴方の力になりたい。必要な時はいつでも私の名をお呼びください。さすれば直ぐにでも貴方の元へと参りましょう」
彼は今度こそ朝日の昇る方向へと姿を消した。微かに朝露の香りを含んだ涼やかな風が入ってくる。真備は彼が去った方向をしばらく呆けたように眺めていた。
小鳥がさえずりはじめた頃、真備は深く息を吐いて仰向けに寝っ転がる。白い光が照らす天井を見つめながら、つい先程までの奇妙な出来事を思い浮かべた。そういえば、彼が鬼になった理由を聞くのを忘れた。そんなことを考えながら目を閉じてみたが、夜なべをした割にはどういうことか眠気が襲ってこない。
「阿倍仲麻呂、か······」
ごろりと寝返りを打ちながら、ずっと引っかかるものがあったその名を口にしてみる。
「どこで聞いたんだっけなぁ。でも確かに······」
眉を寄せながらため息をつくと勢いよく体を起こした。どこかで聞いたことがある。しかし、どこでその名を聞いたのか全く思い出せない。
しかし幸いなことに、監禁されている今の自分にはやることがない。そう考えて真備は腕を組んだ。
せっかくの機会だ。違和感の正体を突き止めるため、今までのことを思い起こしてみようと思った。それが彼のことを知る手掛かりにもなるかもしれない。
柔らかな朝日の中、真備はそっと目を閉じた。浮かんできたのはどこまでも広がる大海原。そこに浮かぶ数隻の船には、まだ見ぬ唐の地に期待を寄せる自分達の姿がある。もしかしたら彼もあの時あの船に······。
人の寄り付かない高楼の上、真備は人知れず微笑んだ。生い茂った木の葉が風に揺れてさわさわと梢を鳴らしている。しかし回想の波に飲まれる真備の耳には、止めどなく船を打つ白波の音しか届いていなかった。
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